第二十章:彷徨
私はハル君から電話受けてすぐに車に向かう。妻である純子は不安げな表情で私について来る。止めはしない。私の大きいコートを純子の肩にかけ車に乗り込む。車の中で電話の内容を純子に話した。その後二人に会話は無い。何も言えなくなってしまったという方が正しいだろう。とにかく月音を研究所まで連れ帰ることができれば何かしら対応出来るかもしれない。そう自分に言い聞かせる。何語か分からないラジオが聞こえていることに気づきラジオを消す。助手席で純子が両手を合わせていた。一時間少し走ったところで人影が見えた。バイクも見える。ハル君だ!
「純子!」
ライトで照らすように車を止める。純子は私に目配せをしてハル君に近づく。
「ハル君、ハル君!」
ハル君は両手を握り締めたまま力なく座っている。意識が朦朧としているのか声が届いていない様子だ。ハル君の目の前には月音が着てたであろう服と広げられた毛布。その服にはロープが結ばれハル君とつながっている。バイクで落とさないようにしている事と容易に予想がつく。しかし月音の姿がない。まるで忽然と消えてしまったような服の配置、それを目の前に声が届かないハル君。電話で話していた事をふと思い出す。以前にも月音が子供に帰る現象についてハル君から聞かされていたが・・・まさか・・・。もし月音がいればハル君はこうしてはいまい。まるで廃人のようになっている、そうなる何かがあったのだろう。
「ハル君? 月音に何があった? 言ってることが分かるかい?」
目の焦点すら合っていない。完全に廃人だ。
純子がハル君の顔を覗き込み表情を見るがすぐに私に向かい左右に頭を振る。どうやら今は無理そうだ。ハル君を抱え車に乗せる。散らかった毛布や衣類を片付けバイクを草むらに隠した。少しでも期待を胸にアパートへ向かうことにした。もしかしたら月音がいるかもしれない。帰っているかもしれない。そう、思いたかった。
アパートは明かりが点けっぱなしで玄関も開いている。風呂のお湯も出しっぱなしだ。慌てて出て行った事が想像できる。月音の姿は無い。純子がアパートに残ることにした。もしかしたら月音が戻ってくる可能性がある。私はハル君を乗せ家に戻ることにした。途中バイクがあった場所で月音の名前を叫び呼んだが全く反応が無い。いや、分かっていた。心の中では分かっていた。ハル君を見てすぐに分かった。しかしそう思いたくない、月音を失ったことにとめどなく涙が流れる。私ももっと関わるべきだった。邪魔してはいけないかと、ずっと月音に会うことを躊躇していた。くそっ・・・せめて純子には会いにいかせてやれば良かった。
「月音、父さんを・・・許してくれ・・・」
数日後
純子はしばらくアパートで暮らすことになった。月音がいつ帰ってもいいようにと。私は止めなかった。純子の好きなようにさせてやりたかったからだ。ハル君は全く回復の兆しが見えない。あれから両手を握り締めたまま離そうとしない。警察には月音の捜索願をだしてある。私の予想が外れてくれればという思いでお願いしてきたが今のところ全く手が掛かりも目撃情報も無いそうだ。ハル君から話が聞ければいいのだがこの状態では到底無理。私は知り合いの精神科医師にハル君の診察をお願いした。
「ダメだね、何の反応も無い。よほどショックな事を目にしたのだろう。しばらくこの状態は続くと思われますな・・・。一応薬を出しますので、飲ませられるようなら飲ましてください。無理に飲ませる必要はありません。何か変化があったらまた診察してみましょう」
ハル君の状態や経緯など全て長門先生にも伝えていた。月音は長門先生のお孫さんでもある。長門先生はハル君を引き取ることになっていた。ハル君は息子だからと・・・。
後日、様態が変わらないハル君を車に乗せ長門家に向かうことにした。車中でのハル君は握り締めた手を見つめているように見える。しかし手に焦点が合っているようには感じない。まるでその奥を見つめているような感じとでもいうべきか。
「おっ! 奈美ちゃんおはよう」
「おじさん! おはよう! 今日も元気ね」
私はいつもと変わりない日々を送っていた。今日も早朝から父が残した畑に行き作業をする。午後からは近所のスーパーへアルバイトに行き、帰りにはスーパーの売れ残りを一人分買い誰もいない自宅に帰る。一人に慣れたと言えばウソになる。月世さんが亡くなってからハルは一度も連絡をくれなかった。木谷さんや長門さんに聞いても口止めされている感じがされ、それ以上行動は起こせないでいた。現在ハルは月音ちゃんの世話をしていると木谷さんから聞かされている。会いに行きたい気持ちと邪魔してはいけない気持ちで相殺され、相変わらず何も行動を起こさない自分がいる。それでもハルに会いたい気持ちが今でも残っている。
いつも通りの道をいつもの自転車に乗りバイト先へ向かう。すると、見覚えのある車が前から走ってくる。あれは・・・木谷さんの車だ。後ろに誰か乗ってる・・・。すれ違い様、確かに彼の姿を見た。ハルだ! ウソでしょ? 私が見たハルの姿は十代の姿だった。私は急いで自転車を方向転換しその後を追う。しかしどんどん引き離される。この方向は長門さんの家の方だ、私は車の事を考えず長門家へ向かうことを考え走る。
やがて長門家が見えてきた。予想通り木谷さんの車が停車している。自転車を止め息を整える。ハンカチを出し汗をぬぐう。バックミラーに映る顔はすでに三十七の貫禄ある女の顔だ。深呼吸し長門家の扉をノックする。
「ごめんください」
しばらくして千恵さんが扉を開けに来た。
「奈美さん!」
「お久しぶりです。長門さん。ハル、いますよね?」
「え・・ええ」
千恵さんの様子がおかしい。私には会わせたくないのだろうか、しかし私も一目でも構わない、ハルに会いたい気落ちではちきれそうだった。
「お願いします。ハルに合わせてください。お願いします!」
私は知恵さんに頭を下げる。
「奈美さん、ハルね、複雑な事情があって少し心を病んでるの、話はできないかもしれないわ。それでもいいかしら?」
千恵さんの話を聞いて何がどうなっているのか見当もつかなかない、とりあえず会わせてもらえば分かると思い私は了承し、ハイとうなずいた。
部屋に通される。そこにはうずくまったハルの背中が見えた。
「ハル!」
私はハルの背中に手を回しハルの顔を覗き込む。そこには先ほど見たとおりの十代のまま何も変わらないハルがいた。気が動転してしまう。何故姿が変わらないのか? そんな私の混乱も考える暇なく、まるで死人のような顔つきで私の言葉に反応は一切無い。ハルは強く握られた両手を見つめ続けている。
「これはどういうことですか? いったい何があったのですか?」
長門夫妻、木谷さんは暗い表所でうつむいている。しばらく沈黙が流れる。その沈黙からもう語りたくないという気持ちが感じられた。
「無理にとは言いません。宜しければで結構です。お願いします」
私は三人へ頭を下げた。すると木谷さんが全ての経緯をはなしてくれた。ハルが十七の時に父親から自己修復を行う細胞、不老を施されたこと。その力で月世さんを助けようとした事、数年おきに移動しながら生活していた事。その話を聞いて全てがつながった。だから私には会えなかったのだと。そして、月音ちゃんが行方知れず、ハルは精神を病んでしまったこと。
「私にハルを任せていただけないでしょうか?」
決して思いつきで出てきた言葉ではない。あの時、すでに考えていた事をようやく今、口にできた言葉だった。
「それはダメだ、ハルは自分で何も出来ない、しばらく介護が必要となる。君は働いているだろ?」
「お言葉ですが、長門さんもお仕事に行かれて、千恵さん一人で大の大人を介護するのは大変かと」
「確かにそうだが・・・ハルは私達の息子だ」
「私は、月世さんから頼まれているんです。ハルの事を」
「あなた、奈美さんに任せてみては? 私もね・・実は月世から聞いてたの。ハル君の事は奈美さんへ頼んであるって・・・」
月世さんがお母さんへもそう伝えていたことを知り涙があふれてきた。月世さんに認められた気がしてうれしくてうれしくて。
「お願いします! ハルを私に任せてください!」
私は全力でハルを預かる。そう心に決めハルに目を向ける。しかしハルは無表情で両手を見つめている。
「分かった。では奈美さんにお願いしよう。ただ、いつ治るのかも予想がつかない。長期になるかもしれないし、お互いに力を合わせて面倒を見ていってはどうかな? 奈美さんが仕事に行く日にはここへ連れてくればいい」
「分かりました。それでしたら私も仕事を続けながらできます。私のわがままを聞いていただきありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
「いやいや、頭をあげてください奈美さん」
「一つ奈美さんにお聞きしてもいいかな?」
「はい、なんでしょう?」
「あなたは今も独身と聞いている。それはハルの為なのかい?」
「はい、私はハルに待っていると伝えてあります」
「はぁ・・・・・何とも幸せな息子だ」
「奈美さん、ハルをよろしく頼む」
「お任せください」
こうして私はハルの面倒をみる事となった。
早朝から畑仕事を行い、その後ハルを長門家に預けバイトに向かう。また長門家へハルを迎えに行き自宅へ戻る。そんな日々を送っている。正直かなりきつい。しかし夢にまで見たハルと一緒に暮らせる喜びは何物にも変えられない喜びだった。仕事が終わればハルに会える。帰ればハルと一緒にいられる。何年も待ち続けようやくその願いが叶い、それだけで私は全ての幸せを手に入れた気分でいた。
月日が流れ、ハルにも変化がみられてきた。離された両手を見て何かを探しているようなしぐさを時折する。ハルを引き取った当初、手の中には繭のようなもので覆われた歯、もしくは骨のような硬さの物が握られていた。よほど大事な物なのだろう、中々離してくれなかった。それを脱脂綿で包み小さな小瓶に入れ封をして紐で結び、ハルの首に下げてあげた。すると大事そうにそれを眺めたり握ったりしている。
最近は私を目で追うようになり、何か言葉を発しようとする努力が見られるが声にならない様子だ。それでも当初に比べればかなり良くなっている。私を探すハルの姿を見てたまらなく幸せを感じる。
ハルをお風呂に入れる為服を脱がす。するとハルは私に抱きついてくる。何故抱きついてくるのか分からないが少しでも私を認識しているのならそれだけでうれしい。体を洗い、バスタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。ハルは気持ち良さそうに目を閉じている。ハルが来た当初は夜に起きて昼間に寝るという昼夜逆転の生活。寝ぼけたハルを長門家へ預かりに行くときが大変だった。そして過去の話はやはり禁句、過呼吸を起こし気を失うことも度々ある。
決していいことばかりではない。ハルの姿はあの時のまま若く美しい、私は全身鏡に映る自分が醜く不釣合いに見えてしまい布で覆ってしまった。気持ちはあの時のままでも、私の姿は三十七歳のおばさん。ハルの精神状態が戻った時どう思われるか不安でたまらない。いっそこのままでも構わないとさえ思ってしまう。そして、ハルはまたどこかへ行ってしまうかもしれない。待ち望んだハルを手放したくない思いと年老いていく自分の醜い姿に不安で一杯だった。そんな事を知ってか知らずか、ハルは時間の経過と共に症状が改善されていく。その度に私の不安は増していく一方だった。
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