絶滅危惧種。

 二層式は絶滅危惧種である。


 今日に至るまで、数多数え切れない程の洗濯機が登場してきた。

 時代を追うごとにその洗濯精度は増し、形を変え、大きさを変え、とうとう古より親しまれてきた、いわゆる“洗濯機”であった二層式は、もはや見る影もない。

 濯ぎも脱水も、一つの洗濯槽で事足りてしまう風情の無さが、現代の世相を表しているようだった。


 世界で最後に生き残った二層式洗濯機は、どのような扱われ方をするのだろうか。郷土資料館で保管されているのでは、全く意味がないのである。


 例えば、世界で最後に人類が生き残ったとして、その人類は他の知的生命体に捉えられ、標本にされてしまうのだろうか。

 現在の絶滅危惧種たちは皆、最後の1つの個体になった場合、それらを博物館の展示に並べようとするのだろうか。


 僕はそうは思わない。

 確かに、最後の個体の命が潰えてしまえばそうなのかもしれない。亡骸を飾りにすることが悪いこととは思わないが、でも、僕はそれらが生きているからこそ価値があるのだと思う。

 ただ、しばしばこのような人達の中で、極端な意見が出ることがある。


「ならば、保護しようではないか」「繁殖させようではないか」


 これが洗濯機の話になるとこうなる。

 まもなく、二層式洗濯機が絶滅しようとしています。だからこそ、二層式洗濯機をもう一度生産し直そうではないか!

 結果、二層式洗濯機の古き良き味わいは目新しい未来の二層式洗濯機によって崩壊する。そして、わざわざこのような煩わしい洗濯機を購入するのはごくわずかなニーズでしかないと思われるため、記念品としての意味しかなさない。


 これが経済の話になるとこうなる。

 まもなく、我が国の紙幣は尽きようとしている。だからこそ、紙幣をもっともっと増産しようではないか!

 結果、その国の紙幣の価値は下がる一方で、他国との貿易において肉もガソリンも手に負えない額になると思われる。


 こう言ってしまうと聞こえの悪い論法だが……僕は文学的視点から、その個体を見つめているだけでいいのだと思う。

 その最後の1つの個体になるまでの過程において、人為的にも、自然発生的にも様々な要素が降りかかりながら、その種族はこの世界での役目を終えるのである。

 その時代、その場所で、そこ生きていたからこそよいのである。

 それを使い続けるからこそ味があるのである。

 命は潰えるからこそ尊いのである。


 それが人為的なのだとしたら、人間とはそういう生き物なのだろう。

 それが自然発生なのだとしたら、我々人類が最後の一人になったとしても、誰も保護しようとは思うまい。


 しかし、それがコンビニに残されたその日最後のおでんの大根だった場合。

 目の前でそれを掴んで行った者に向けられる敵意は計り知れない。そして、もったいぶらずに早く大根を煮込んでほしいと思うのだ。

 自分自身が一番自分勝手なのである。


 だから、今日も僕はカップラーメンを食べる。

 コンビニの大根が食べられなかったので、今日も執筆は進まなかった。

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