5

 ばしっ、びしっという打撃音が聞こえている。なんだろう、と幸司はのびあがった。

 角を曲がり、幸司は戦っている太郎と洋子を目にした。

 わっ、と幸司は声をあげた。

「なに、なんなの?」

 背後から杏奈が尋ねてくる。幸司は黙って指さした。

 廊下の真ん中で、太郎と洋子が激しくあらそっている。いや、争うというより、太郎が洋子の攻撃を必死になってそらしているといったほうが正確か。太郎の実力からすれば、洋子を打ち負かすのは簡単だ。しかし太郎はそれをしたくはなかった。洋子はいま、正常な状態ではない。番長島でうけた〝処置〟により、盲目的な服従心を植えつけられているだけなのだ。

 杏奈は思わず叫んでいた。

「洋子さん! やめなさい!」

 彼女の声に、洋子はぎくりと身をこわばらせた。攻撃が中断し、太郎はほっと息をついた。緊張で、全身にびっしりと汗をかいていた。

 つかつかと洋子の前に近づくと、杏奈はとん、と足踏みをする。

「いったい、どういうわけなの? こんなところで喧嘩して!」

 洋子は無言で、おおきく呼吸をくりかえしていた。

 激しい葛藤があるようだった。

 杏奈はケン太につぐ主筋であり、洋子に命令する権利をもつ。したがって彼女の命令には従わなければならない。しかしケン太の命令にも従わなければならない。現在直接洋子に命令しているのは杏奈だが、ケン太の命令も強い強制力を持っていた。そのふたつの命令ポテンシャルが、彼女を立ち止まらせているのだった。

 それを見てとった太郎は口を開いた。

「洋子! 召し使い三原則を思い出せ!」

 太郎の言葉に洋子の瞳がうつろになった。

 召し使い三原則!

 それは執事学校で繰り返し教え込まれる、召し使いとしての大原則である。

 太郎はその大原則を大声で叫んだ。

 

 

  召し使い行動規範三原則

第一条 召し使いは主人の生命、財産を守らなければならない。またそれを看過してはならない。

第二条 召し使いは、第一条に反しない限り、主人の命令を守らなければならない。

第三条 召し使いは、第一条、第二条に反しない限り、自分の生命、財産を守ることが出来る。

 

 

 ぶつぶつと洋子は三原則の言葉を口の中で繰り返していた。

「洋子、君はケン太によって服従心を無理やり植えつけられている! それは君だって自覚しているはずだ。違うかい?」

 太郎の言葉に洋子は首をなんども左右にふった。

「あたし……あたし……!」

 ぼろぼろと瞳から涙が溢れ出す。

 美和子が静かに語りかけた。

「洋子さん。高倉ケン太さんが、主人としてふさわしい人間かどうか、考えなさい。召し使いに服従を強制するなど、どうかしています。わたしはそんな主人になど、なりたくないし、なるつもりもないわ」

 かくん、と洋子の膝がおれた。廊下の床にぺたりと座り込む。肩が落ち、がくりと首をたれた。太郎はその側に膝をつき、洋子の肩に手をおいた。

 手を置かれ、洋子は顔をあげる。

 その目を覗き込むようにして太郎は口を開いた。

「洋子。きみは騙されているんだよ。薬と、深層意識への洗脳でね」

「あたし、どうすればいいの?」

「なにもしなくていいよ。きみは立派なメイドじゃないか」

 わっ、と洋子は声をあげて泣き出し、太郎の肩に顔をうずめた。太郎は彼女の背中を優しくなでてやった。

 やがて泣き声がおさまり、洋子は恥ずかしそうに顔を上げた。

 くすん、くすんと鼻を鳴らしているが、その表情にはもとの明るい、彼女らしいものが戻っていた。

 杏奈はそっとハンカチを差し出した。

 それを受け取り、ちーん、と鼻をかんで洋子はハンカチを目にした。彼女はあっ、とちいさく叫んだ。。

 ハンカチに縫い取られている「T・T」のイニシャル。

 太郎のものだった。

 洋子はくすりと笑った。

「ごめんね。また汚しちゃった。洗濯して、かえすね」

「いいのさ」

 太郎は笑った。その後、真剣な表情になった。

「洋子、ケン太の居所がわかるかい?」

 うん、とうなずき洋子は立ち上がった。もう、涙はすっかり乾いている。

 太郎を前に、両腕をすばやくひらめかす。指を折り曲げ、その合間に「右3」とか「左十五」とか短く言葉をはさみこんだ。それを見て、太郎はうなずいていた。

「ありがとう、これでかれのもとへ行ける」

 美和子に向け頭をさげた。

「お嬢さま、急ぎましょう。高倉ケン太の居所が知れました」

 美和子はあっけにとられていた。

「今ので道を教えてもらったというの?」

 そうです、と太郎は答えると先に立って歩き出す。あわてて美和子はその後に続いた。

 

 ぼうぜんとそれを見ていた杏奈は、はっと気付くと後を追おうとして洋子をふり返った。

 洋子は動かない。

「あなたは行かないの?」

 はい……、と洋子はうつむいた。

「あたし、やっぱりメイドには向かないかもしれません……いまのではっきり判りました。小姓村に帰ろうかな……」

 そう、と杏奈はつぶやくと歩き出す。

 もう彼女のことはすっかり念頭から消えている。考えることは兄のケン太のことである。

 太郎の言葉が杏奈の胸にこだましていた。

 ケン太は主人としてふさわしいのか? いや、それ以前に高倉コンツェルンの総帥としてふさわしい人物なのか?

 

 見送った洋子は、のろのろと廊下の窓際に近づいた。ぼんやりと高倉邸の庭を見つめている。

 空は灰色の雲におおわれ、風があるのか雲は見ている間にまたたくまに流れていく。雨になるのだろうか?

 そこに幸司が声をかけた。

「あの……洋子さん……」

 え、と洋子は幸司を見た。

 幸司はもじもじとしている。

「さっき小姓村に帰るって、言ってたけど。それどういう意味?」

 ふっと洋子はほほ笑んだ。

「あたしのお父さん……小姓村の執事学校の校長なんだけど、あたしに帰ってもらいたがっているの。執事学校はホテルも経営しているんだけど、あたしに婿をとってホテルの経営者として収まって欲しいらしいのね。あたしはせっかく執事学校でメイドの訓練を受けたんだから、メイドになりたくて家出したの。でも、もういいの。もうメイドになるのはやめるわ!」

「ど、どうしてさ? 洋子さん、とってもいいメイドじゃないか!」

 幸司の言葉に、洋子は顔を上げた。

「本当? どうして、そう思うの?」

「だって、洋子さん……番長島に行く前はとても元気で明るくて……。なんだか洋子さんといると、こっちまで元気になる気がするんだ」

 洋子は顔をそむけた。その頬が真っ赤にそまっている。

「あたしね、メイドになりたいと思ったのは、太郎……只野太郎がいたからなの! 太郎とはこんな小さいときからの幼なじみで、太郎が執事を目指して執事学校に入学したからあたしも一緒に学んだの。でも判ったわ。太郎は生まれながらの召し使いだけど、あたしはそうはなれなかった。あたしは普通の女の子だって、そう判ったのよ」

 幸司は笑顔になった。

「普通の女の子でいいじゃないか」

 かれの言葉に、洋子はぽかんとした表情になる。

「そのほうがずっといいよ。それに、普通の女の子のほうが、おれ好きだな」

 洋子はうつむいた。

「ありがとう……」

 ちいさく答えた。

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