コロシアムにあるスタジオの一室で、杏奈はさめざめと涙にくれていた。

 返す返すも自分の愚かしさが恥ずかしい。すこしばかり格闘の技術を習っただけで、トーナメントに出場しようとしたじぶんの思い上がり、そして美和子に対するいわれない嫉妬。

 彼女の手の中でハンカチがぐしょぐしょに濡れていた。

 背後にひかえていた洋子がそっと自分のハンカチをさしだした。

 杏奈は顔を上げ、洋子の顔を見つめた。

 あいかわらず、表情のない目がじぶんを見ている。

 ありがとう、とつぶやくと杏奈はハンカチを受け取った。目に押し当てようとして、ふとハンカチに縫い付けられているイニシャルに気付いた。

 

 T・T

 

 杏奈は首をかしげた。

 山田洋子のイニシャルはY・Yのはずだ。

「洋子さん、このハンカチどなたのかしら?」

 そう言ってイニシャルを見せる。それを見た洋子の表情が微妙に変化した。

 

 洋子の記憶がよみがえった。

 このハンカチは、小姓村の執事学校を家出する直前、太郎にもらったものだった。あの時、洗濯して返すつもりだったのがそのままになっていた……。

 イニシャルは只野太郎のものである。

 

「どうなさったの? 洋子さん」

 杏奈の声にはっ、と洋子の目の焦点がもどった。顔がたちまち無表情になり、冷静な声で答えた。

「なんでもございません。失礼いたしました」

 杏奈は内心奇妙に思った。いまの洋子はいつもの無表情から、なんだかかすかに人間らしい、年頃の女の子に見えた。

 と、ドアの向こうからどやどやとした人の騒ぐ声と、乱れた足音が聞こえてくる。

 どうしたのかしら、と杏奈は立ち上がった。

 細めにドアを開け、廊下を覗き込む。

 緊張した表情のケン太の部下が、足早に廊下を走り回っている。どこかでどんどんとドアを叩く音が聞こえた。

 目の前を通り過ぎようとするひとりに杏奈は声をかけた。

「どうしたの? なにがあったの?」

「あっ、杏奈さま……」

 男はすっかりうろたえきった表情で相対した。

「その、放送室を占拠されたんです!」

「放送室?」

「ええ、放送室には送信装備も付属していますから、勝手な放送をされることを防ぐことが出来ないので大変なことに……」

 かれはいらいらと足踏みをしている。杏奈は訳がわからないなりにうなずき、男を解放することにした。男はあたふたと立ち去っていった。

 杏奈は部屋の中に戻った。

 一角にテレビが置いてある。

 スイッチを入れると、画面に栗山千賀子の顔が映し出された。

「高倉ケン太さん、あなたは偽善者だわ!」

 彼女の言葉に杏奈はぎくりとなった。

 

「なにが偽善者だ!」

 ステージの上でマントをなびかせるケン太は怒りに吠えていた。

 コロシアムに残っているのは美和子と、太郎だけである。ほかの参加者、勝と茜の兄妹はすでに出口から外へ出て行った。

 ケン太の怒りに燃える視線は、飛行船のスクリーンに突き刺さるようだった。コロシアムの観客席に残っている記者たちは食い入るようにそれを見つめている。

 スクリーンの千賀子はにこりと笑った。

「あら、言い方が悪かったかしら? それじゃ詐欺漢と言い換えたほうがいいかも」

 くっ、とケン太は唸った。

 おそらくコロシアムのマイクの音を拾って、放送設備から送信しているのだろう。

 木戸がそっとケン太に近づき、ささやいた。

「お言葉にお気をつけてください。おそらく、いまのやりとりは本土のほうにも送信されているはずです。うっかりしたことを言って……」

 わかってる、とケン太は手をふった。

「わたしは執事協会から派遣された栗山千賀子というものです。この報告を公にするため、チャンスを狙っていたの。トーナメントの最終日というのは、見逃せなかったわ」

 執事協会……?

 ケン太は眉をひそめた。

「わたしたち執事協会は主人と、召し使いとの健全な雇用関係をまもるための協会です。真行寺家の破産にたいし、ある疑惑があるため、わたしたち協会は独自の調査を続けてきました」

 ぎりり……ケン太は歯噛みをしていた。コロシアムでは美和子と太郎が、じっと飛行船に映し出される千賀子の顔を見つめている。

「高倉コンツェルンの筆頭執事である木戸という人物、かれは以前真行寺家の筆頭執事でありましたが、その来歴を調べますと、真行寺家にはいりこむ以前、高倉コンツェルンに所属していたことがわかりました」

 千賀子の言葉に木戸の顔が見る見る青ざめた。はっ、と美和子と太郎は顔を見合わせた。

 木戸が、真行寺家以前に高倉家の執事をしていた?

「ということは、木戸氏は高倉ケン太によって真行寺家に送り込まれた可能性があるのです。これを否定いたしますか?」

「出鱈目だ!」

 ケン太は吠えた。

 画面の千賀子はうなずいた。

「そうですか。しかしほかにも疑わしい証拠があります。これは真行寺家の財産を、木戸氏が所有するにあたっての契約書の写しです」

 画面が切り替わり、書類が映し出された。

 観客席の記者たちはそれを見て、いっせいにカメラを持ち出しシャッターを切った。

 ケン太は凝然となった。

「なんであんなものがある?」

 木戸は無言でその場を離れた。

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