6
木戸の部屋の前にたつ。
ドアは固く締め切られ、鍵がかかっていた。
太郎はポケットから道具を取り出した。鍵をこじあけるための道具である。先がまがった金属の板を鍵穴にそっとさしこむ。何度か手さぐりを繰りかえすと、かちゃりと音がしてノッチが外れる音が響く。
太郎の受けた特殊訓練の成果である。
執事はありとあらゆる状況に即応しなくてはならない。鍵開けの技術も、そのひとつである。
そっとドアを開き、中をのぞきこんだ。
執務室はがらんとしている。
大急ぎで片付けたのだろう。必要のない書類が床に散乱し、家具を移動したあとの、日の当たっていない壁はあたらしい色を残している。木戸はこの部屋から屋敷の、いままで男爵が使っていた部屋に移動することを決めていた。さっそくの主人としての決定である。
机はそのままになっている。それまでの仕事がほおりだされ、筆記具や計算尺のたぐいが残されている。
引き出しを開け、中をさぐる。
やっぱりなにもめぼしいものは残っていない。領収書とか、注文書のたぐいばかりだ。
太郎は肩を落とした。
なにか木戸の不正の証拠がないかと思って忍び込んだが、そんな尻尾をつかませるようなものを木戸が残すと考えるのが間違いであった。最初からそれほど期待はしていなかったが……。
「なにを探しているのかね?」
ぎくりとしてふりむくと木戸がにやにや笑いを口の端にはりつかせ、ドアの側にたっている。長い両腕をだらりとのばし、目は鋭く太郎を観察していた。
「木戸さん……」
「なにを探していた、と聞いている!」
太郎は黙っていた。
ひと声うなると、木戸は大股に太郎に近づいた。ぐっと太郎を上から睨みつける。
「こそこそと泥棒のような真似をしおって! お前の受けた執事の教育とは、泥棒をするためのものか?」
「あんたこそどうなんだ! 真行寺男爵の財産を奪ったのは、泥棒じゃないか!」
太郎は叫び返した。
木戸の右手がひゅっ、と動いた。
ぱしーん、と太郎の頬が鳴った。じいーん、と痺れに似た痛みがはしり、頬に木戸の手形が真っ赤に浮かび上がった。
「生意気言うな! おれのやったことはすべて合法だ! 第一、男爵は経営者としての適性がない。毎年、ぼうだいな額の金を慈善事業につぎこんできて、それの穴埋めにおれがどれほど苦労したことか……。それももう、終わりだ」
「許せない……ぼくは、あんたを絶対許すことはできないぞ!」
木戸はせせら笑った。
「ほう、そうかね? どうするつもりだ? 法廷で争うか? そんなことしても無駄だぞ。どんな検事だって、おれを訴追することはできんことはわかりきったことだ」
太郎は歯を食い縛った。
口の中をきったのか、金臭い血の味が舌にからみつく。
「出て行け! ここはおれの部屋だ。そしてこの屋敷もな! 真行寺一家はおれの情けで屋敷内に住まわせてやろう。だが、お前にはびた一文、金は払わんぞ。つまり、
木戸の顔に嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「ホテルのドア・ボーイなんかどうだ。おれが紹介してやってもいいぞ」
「ぼくはお嬢さまの召し使いだ。あんたがぼくを馘首にすることはできない!」
「金を払わん、と言ったのだぞ。聞こえなかったのか?」
「そんなの関係ない。ぼくがお嬢さまの召し使いでいることと、給料が払われる、払われないは別のことだ」
「馬鹿め……」
木戸は歯を剥き出しうなった。
太郎は横を向き、木戸の横をすりぬけた。
その時、木戸は身構えた。
やる気か!
太郎はさっと身を沈める。
ぶん、と音を立て木戸の足が旋回して太郎の髪の毛がふわりと揺れた。身を沈めた太郎はその反動を利用して前方に飛び出し、とんと両手を床について一回転して身を翻した。
はっ、と木戸が息をはき、ふたたび前蹴りをかけてきた。さっと太郎は一歩引き下がってそれをかわす。
屋敷の長い廊下でふたりはにらみ合った。
木戸はにやっと笑った。
「やるな! お前も執事の格闘術を習っているのか?」
「あんたもそうだろ。召し使いなら、当然のことだ」
ふむ、と木戸はうなずくと構えを解いた。
ぽん、ぽんと両手をたたくとわざとらしく服のほこりを払う仕草をする。
「やめだ、やめ! お前と勝負しても、おれにはなんの得もない。汗をかくだけ馬鹿らしい……」
ふっと太郎も背をのばした。
まったく同感である。
召し使いの習得する格闘術は、ほんらい主人を暴漢などの攻撃からまもるためのものだ。私闘に使うたぐいのものではない。
くるりと背を向け、太郎は歩き出した。
背中に木戸の声が投げかけられた。
「後悔するなよ。お前はもう、召し使いでもなんでもないのだ!」
違う!
太郎は激しく胸のなかで叫び返した。
ぼくは美和子お嬢さまの召し使いなんだ!
男爵の部屋へ向かうと、なんだか慌しい。
ばたばたと何人もの足音が交錯し、見かけるメイドや召し使いたちはうつろな表情になっていた。
どきん、と太郎は不吉な予感がした。
まさか!
メイドの一人が顔を真っ赤にさせ、口を手でおおってばたばたと走ってくる。太郎は彼女の手首をつかんでじぶんの方に引き寄せ話しかけた。
「なにがあったんだ?」
あ! とメイドは太郎の顔を認めた。そのまま表情がくしゃくしゃに歪む。
「男爵さまが! だんな様が!」
「なんだって?」
わっ、と叫ぶようにメイドは泣きながらそのまま駈け去ってしまった。
まさか……まさか!
太郎は部屋へと急いだ。
ドアを開けると、その場にいた全員が顔をあげ太郎を見た。美和子はすらりとした背をのばし、静かにベッドの男爵の顔を見つめている。
太郎は足音をしのばせ、美和子のそばに近寄った。
気配に彼女は太郎の方に顔を向けた。
はっ、と太郎は美和子の顔を見つめた。
大きな目にいっぱい、涙が浮かんでいる。
「男爵様は?」
美和子はうなずいた。
「たった、いま……」
ぽつりとつぶやく。
「そうですか」
太郎は美和子の横に立ち、男爵の顔を覗きこんだ。
まるで眠っているようである。いますぐにでも起きだして、あの陽気な声を張り上げてもおかしくはなかった。
脈を取る医師は、沈痛な表情であった。
懐中時計を取り出し、宣告した。
「午後二時十分でした。やすらかなお最期でありました」
ううう……と、だれかが嗚咽を漏らした。
それをきっかけに、その場にいた召し使いたちはこらえていた涙を流していた。
くたくた、と美和子はベッドの横に膝まづき、男爵の身体にかけられている掛け布団に顔をおしあてる。肩が細かく震えていた。
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