3

 美和子の部屋へ入ると、彼女は数人のメイドに取り囲まれ、下着姿になっていた。太郎の気配に気づくと、そのままふりむく。

 下着姿だというのに恥ずかしがる様子もなく、明るく声をかけてきた。

「ああ、太郎さん。来てくれたのね。あたし、今日はじめて高倉ケン太さまにお会いするのよ。道着すがたではお目にかけられないから、大急ぎで着替えなきゃ……。太郎さんにも手伝ってもらおうと思ったけど、メイドたちがいるからいいわ。それより、来客用のラウンジに先に行って、ケン太さんにお待たせするよう言づてお願いできないかしら?」

 かしこまりました……と太郎は頭をさげた。

 じぶんも仕事着を着替えないと……。

 部屋へ向かう太郎の脳裏に、執事学校で言われたことが蘇る。

 

「上流階級で生まれ育ったかたは、たいがい他人の前で下着、もしくは全裸になっても平気なのです」

 講義をしているのは礼儀作法の講師だった。小柄な、五十代の老婦人で、一生のほとんどをメイドで過ごしたという経験豊富な女性だった。彼女は講義をつづけた。

「なぜなら幼少のころからメイド、召し使いたちに着替えを手伝ってもらっているから、他人の、しかも召し使いの目は気にならないのです。だからあなたたちも上流階級のお屋敷に奉公することになったら、そのような場面に出会ってもうろたえることのないように気をつけないといけませんよ」

 そう言って講師はにやりと笑った。

「もしあなたがたが恥ずかしがったり、顔を赤らめたりしたら、かえっておたがい気まずい思いをすることになりますから。いいですね、けっして表情を変えることのなく、平静でいることが肝心です……」

 

 部屋に帰って急いでスーツに着替えると、太郎は言われたとおり来客用のラウンジへと移動した。廊下を歩く太郎は、美和子の下着姿を目にしたとき平静でいられただろうかと自問自答していた。お嬢さまに気まずい思いをさせなかった自信はあったが……。

 息を整え、太郎は来客ラウンジのドアの前に立った。そっとノックし、返事を待って中へと入った。

 来客用のラウンジの庭に面した側は一面のガラス窓になっている。そこからの採光で、部屋はまぶしいくらいに明るい。窓際にいくつかの長椅子がのべられていて、ひとつに高倉ケン太がゆったりと座っていた。

 日差しの影には真行寺男爵の車椅子がおかれ、男爵は好々爺といった面持ちで高倉ケン太との会話を楽しんでいるようだ。男爵の背後にはいつものように木戸が無表情な顔をぶらさげている。

 太郎が入っていくと、一同は顔をあげた。

「おお、これがさっき話していた只野太郎ですわい!」

 男爵が上機嫌に声をあげた。

 ほう、と高倉ケン太は立ち上がるとつかつかと太郎に近づき右手を差し出した。かれは背が高く、ほとんど木戸とおなじくらいの背丈だった。

「よろしく、君の事は男爵から聞いている。優秀な召し使いだそうだね」

 太郎は差し出された右手を握った。ケン太の握手は力強い。かれはあけっぴろげな笑顔を見せた。

「ぼくのことは聞いているかな? 美和子さんの婚約者として……」

「はい、うかがっております。ようこそいらっしゃいました」

 うん、とケン太はうなずいた。ちらりと男爵をふりかえり、ふたたび太郎に向き直って話しかける。

「もし、ぼくが美和子さんと結婚すればの話しだが、そうなると君は美和子さん専属の召使として引き続き、ぼくらに仕えることになるのかな?」

 太郎はうなずいた。

「はい、お許しがあればお仕えしたいと存じます。ぼくは美和子さまに〝忠誠の誓い〟をしましたので、どのようなことがあっても忠実にお仕えします」

「〝忠誠の誓い〟? それはなんだね」

 これには太郎は驚いた。召し使いをかかえているかれが、このことを知らないとは。太郎は説明した。

「召し使いになった者は、主人となったかたと誓いをかわすのです。誓いをかわした召し使いは、なにがあってもお仕えしなくてはならない決まりです」

 黙り込んでいた木戸が急に口をはさみこんだ。

「高倉さま。お聞きになっていないのも無理はありません。その〝忠誠の誓い〟に拘束されるのは太郎の卒業した執事学校の卒業生にかぎられます。それにすべての召し使いが誓いをするというわけでもないのです。現にわたしは男爵さまとその誓いをしていませんが、忠実な召し使いとしての立場がゆるぐわけもないのです」

 木戸は〝忠誠の誓い〟をしていない!

 太郎は驚きに言葉をうしなっていた。また、誓いをしていない召し使いがいるということにも驚いていた。

 とんとんと男爵が車椅子の肘掛けをたたいて一同の注目をひいた。おほん、と咳払いをすると、男爵は話しだした。

「以前、太郎君の父上の只野五郎がこの屋敷に仕えてくれていたころ、かれとわしの間でその誓いをかわしたのだよ。だからわしも、娘の美和子に誓いの儀式をするようすすめたのだ。まあそんなことしなくとも太郎君は忠実に仕えてくれることはわかっておるが、かれの父親のことを思い出すとつい、おなじことをしてもらいたくなってね。なにしろ五郎はすばらしい召し使いだったから……」

 ケン太は肩をすくめた。

「執事学校か……うわさは聞いている。そういえば、こんど新しくうちに入ったメイドの山田洋子という女の子、たしか執事学校の卒業生だと言っていたね」

 そう言うと太郎を見た。

「彼女のことは知っているかね?」

「はい、同級生でした」

 ほう、とケン太は顔をあげた。

「それじゃあ、ぼくが彼女に〝忠誠の誓い〟の儀式をすれば、彼女はぼくにたいして忠誠を誓うことになるのか」

 太郎はうなずいた。

 ふうん、とケン太は楽しげな表情になった。

「なるほど……だが、それはやめておこう。ぼくはそんな誓いで他人を拘束する趣味はないし、それにぼくが主人としてふさわしくない振る舞いをすれば、彼女は自然と見限るだろう。ぼくとしてはつねにじぶんが他人の模範となるよう努力しているつもりだからね、そんな儀式はする気はないよ」

 その時、がちゃりと部屋の扉が開いた。

 扉の方向を見たケン太の表情がぱっ、とあかるくなった。

 一歩踏み出す。

「これは……お美しい!」

 賛嘆の声をあげる。

 つられて入り口の方向を見た太郎も思わず目を見張っていた。

 美和子が立っていた。

 道場での稽古着から着替えたばかりのせいなのか、頬にはまだ練習の興奮がのこり、うっすらピンクに染まっている。

 すらりとした肢体を包み込む真っ白なワンピース。長い髪は高く結い上げ、赤いリボンでまとめている。ただそれだけの色彩を許しただけの彼女の装いは、ぱっと華が開いたような効果をかもしだしていた。

 美和子はケン太に向かい、ふかぶかと頭を下げた。

「真行寺美和子と申します。高倉ケン太さまには、はじめてお目にかかり、嬉しく思っております」

 いやいや……というようにケン太は首をふった。

 美和子の前に近づくと、いきなり両手で彼女の手をつつみこんだ。美和子はこのふるまいにはっ、と顔を赤らめた。

「そんな堅苦しい挨拶はぬきにしましょう。ぼくはいま、感動しているんですよ! 噂には聞いていたが、なるほど聞きしに勝る美しい女性です」

 言うなり、ケン太は美和子の手を取ったまま窓際の長椅子に案内していく。彼女を座らせ、その隣にケン太も腰をおろした。

 椅子の前のテーブルにはティー・セットが置かれている。ケン太はポットに湯をそそぐと、美和子のために紅茶を一杯淹れた。香料入りの砂糖壷の蓋を開いて美和子に尋ねた。

「砂糖はおいくつですか?」

 ふたつ……美和子が蚊の鳴くような声で答える。なるほど、とケン太はうなずき角砂糖をふたつ、ティー・カップに入れスプーンでかき回した。

 室内に紅茶と、砂糖に溶かし込んだ香料の香りがただよう。ふたりはゆっくりと紅茶をすすっていた。

 男爵がぽん、と膝を打った。

「なあ! ここはひとつ、ふたりにしてあげてはどうかな?」

 背後の木戸をふりかえる。

 木戸はうなずいた。

「それがよろしかろう、と思います」

 うん、うんと男爵はなんどもうなずいた。

「美和子、わしらはここで部屋へ帰るからな、あとはケン太さんと楽しくやっていなさい」

「お父さま!」

 美和子はなぜか狼狽していた。

「あ、あの、あたくし……!」

 それまで彼女はぼうっ、としてケン太の顔だけを見つめていたのを自覚したのだろう。ぽーっ、と頬が真っ赤に染まっている。

 男爵の合図で、木戸は車椅子を押しながら出口へと向かい、太郎をじろりと睨んで顎をしゃくった。出ろ、ということか。太郎は木戸の後ろについてドアの方向へ歩き出した。

「待って!」

 美和子が叫んだ。

「あ、あの……太郎さんはここにいてくれないかしら……」

 ケン太はぐい、と眉をあげた。

「いいでしょう、そのほうが美和子さんも落ち着くというもの。ぼくも太郎君にここにいてほしいな!」

 男爵は肩をすくめた。

「それじゃ、そうしなさい。太郎君、あとはよろしく頼むよ」

 邪魔をするなという言外の含みがある。太郎は男爵に向け、頭を下げた。

 ふたりがドアから出て行き、部屋には太郎と美和子、それに高倉ケン太の三人が残された。

「さて!」

 ケン太は陽気に立ち上がった。

 窓に近づくとくるりとふり向き、美和子を見つめた。ケン太の視線に、美和子はさっとうつむいた。

「美和子さん、ぼくはいま高倉コンツェルンの総帥となっています。全国すべての高倉傘下の企業のうち、ぼくに忠誠を誓わないところはまあ、ないでしょう」

 一体何を言い出すのか? 太郎は内心首をかしげた。自慢話はこういう場合、ふさわしくはない。しかし美和子は大人しく聞き入っているようだ。

「ぼくには夢がある!」

 ケン太は腕をひろげた。

「高倉コンツェルンをさらに発展させること! そしてこの企業を世界企業にすることがぼくの当面の夢です!」

 言いながらケン太は歩き出した。両手を背中にまわし、熱心な口調になる。

「しかしその夢の実現にはぼくの身体がいくつあっても足りはしない。いま、ぼくは猛烈に忙しい! 実際、こうして美和子さんと会ってお話しする段取りを取るだけでも、一週間スケジュールを調整しなくてはならなかった……」

 はあ……と、美和子はぽかんとした表情になっていた。彼女もケン太のこの演説には戸惑っているようだな、と太郎は思った。

 美和子は口をはさんだ。

「そ、それじゃケン太さん。あたしのために、大事なお仕事が……? あ、あのよろしかったら、いますぐにでもお仕舞いになさって、お仕事にお戻りになったら……?」

「そんなこと言っているわけじゃないんだ!」

 ケン太は叫んだ。

 美和子は目をぱちくりさせている。

「ぼくは考えている。ぼくの夢の実現のためにはパートナーが必要だってね……そしてそのパートナーが美和子さん、あなたなのです!」

 ケン太はぐい、と美和子を指さした。

 ぐっと美和子にのしかかるように近づくと、さっとケン太は膝まづき、その手を取った。

「美和子さん、どうかぼくと結婚してくれませんか? いま、とは言いません。あなたが女学院を卒業するまで待ちましょう。そしてぼくと手を取り合って、高倉コンツェルンを世界企業に成長させていきましょう!」

「あ……あの……」

 いつもは饒舌な美和子の口が、今日に限ってまったく働かないようだった。ただただ、彼女はケン太の長広舌を聞き入っているだけである。

 ケン太はさらりと美和子に対し、結婚の申し込みをしてしまったのである。

 彼女の困惑を見てとったケン太はにやっ、と笑った。そのとき、太郎はかれの八重歯がきらりと光ったのを見た、と思った。見間違いだろうか? いや、確かに光った!

 さっとケン太は美和子から離れた。

「いや、申し訳ない。つい、熱がはいってしまってあなたのことも考えず……。いまお答えを貰おうとは思いません。あなたも考える時間が必要だ。いまは待ちましょう」

 ケン太は窓際に近づき、外の庭を覗き込んだ。

 真行寺家の庭は専門の庭師が丹精込めて世話をつづけている。ひろびろとした庭のあちこちの立ち木はきちんと刈り込みがされ、西洋風の庭園では花が季節ごとにあらゆる色彩を乱舞させる。この部屋からはもっとも庭園のすばらしい景色が堪能できるのだ。

 庭をながめていたケン太はしばらく黙っていたが、ふと腕時計に目をとめた。

「おや、こんな時間だ。それでは美和子さん、失礼いたします。あなたの美しさに、つい長居をしてしまった」

 さっと椅子に座り込んでいる美和子の前にくると跪き、かれは彼女の手をとってその甲に口づけた。

 あ! と、美和子は全身を震わせた。

 すばやく立ち上がると、ケン太はそれではと一礼して、ドアを開けて出て行った。

 しまった!

 太郎は後悔した。

 あのとき、ドアを開けるのは召し使いである太郎の役目だったのに、ケン太みずから開けさせてしまった!

 あわてて追いかける太郎を尻目に、ケン太は屋敷の廊下をさっさと大股に歩き去っていく。

 どうしよう……このまま美和子の側にいるべきか、それともケン太を追いかけるべきなのか?

 太郎は迷った。

 そのとき、美和子が口を開き、太郎の迷いを消し去ってくれた。

「太郎さん。お願い、ここにいらして……」

 はっ、と太郎はすばやくもとの位置にもどって美和子を見た。

 彼女はぼう然としているようだった。

 視線は窓の外に向けているが、なにも見ていないのは確実である。

 首筋まで彼女は真っ赤にそめていた。

 ふ、と美和子は太郎のほうに顔を向けた。

 太郎は愕然となった。

 美和子の目に涙がいっぱいたまっている。

「あ、あたし……どうしていいか分からない……。ケン太さんのことは前から聞かされて、許婚だからと言われて……」

 美和子はくしゃくしゃと手にしたハンカチを握りしめていた。

 太郎はおおきく息を吸い込んだ。

「お嬢さま……」

 話しかける。美和子はぽかんとした目で太郎を見つめた。太郎から美和子に話しかけることはめったにない。

「お嬢さま……ぼくはお嬢さまと〝忠誠の誓い〟をはたしました。ですからどんなことがあっても、ぼくはお嬢さまの召し使いとして、忠実に従います。お嬢さまが結婚なされて、高倉夫人となってもそれは同じです。どうかご安心を……」

 う……、と美和子はうつむいた。ハンカチを目にあて、涙を拭いた。

「ありがとう、太郎さん。あたし……あたし……あなただけが頼りなの!」

 感動が巨大な波となって太郎に押し寄せる。太郎はただ、その波に必死に耐えていた。

 そうだ、ぼくは〝忠誠の誓い〟をはたしたのだ! だからどんなことがあっても、美和子の側にいて守るんだ! それがぼくの召し使いとしての使命なんだ!

 あらためて太郎はその思いを固くしていた。

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