近づいた太郎に洋子は気づき、羽箒を握る手をとめた。

「やあ……」

 太郎の挨拶に、洋子はかるくうなずいた。

 今日の洋子は運転手の制服に身を包んでいる。きっちりとボタンをとめ、両足をつつむズボンには黒いラインがはしっている。

「運転手をしているのかい?」

 話しかけた太郎に、洋子はにやりと笑って見せた。

「たまにね! あたし、高倉ケン太さまの召し使いになったのよ。ケン太さまの命令で、運転免許をとらされたの。でも、まあ執事学校の勉強にくらべたら楽なもんだったわ」

「君が……」

 太郎は絶句した。まさか洋子が高倉ケン太の召し使いになっていようとは思っても見なかった。なんとか太郎は会話をつづけた。

「今日はいったい、なんの用なんだい?」

 うふふ……と洋子は笑った。

「あなた知っているかしら? あの高倉ケン太さまがここの真行寺家の一人娘、美和子さまの婚約者だってことは」

 太郎がうなずくのを見て、洋子はなんだ、というような顔になった。

「知っていたのね……でも、それも無理はないかも。なにしろ最大の財閥である高倉コンツェルンの総帥と、高名な真行寺家のひとり娘との婚約だもの。召し使いの間で話題になっても不思議じゃないわ」

 太郎は洋子のおしゃべりをさえぎった。

「それより、ご両親に連絡はしたのかい? 心配しているよ」

 洋子はちょっと顔を赤らめた。

「忘れていたわ……でも、今日中に手紙を書くから」

 太郎はあきれた。忘れていたとは、いかにも洋子らしい。

 彼女はひそひそ声になった。

「ね、知ってる? ケン太さんって、美和子さんと婚約したのに、いままでおたがいの顔を見たことがないんだって! 今日は時間が取れたから、この機会に美和子さんの顔を見に来たんだっていうのよ。やっぱり上流階級のひとたちって、あたしたちと違うのね」

 ふうん、と太郎はうなずいた。

「只野太郎! 何をしている?」

 背後からの怒鳴り声に太郎はふりむいた。玄関に木戸が仁王立ちになって、こっちを険しい顔つきで睨んでいる。

 太郎と目が合うと、木戸はぐいと顎をしゃくった。

 急いで太郎が木戸に近づくと、かれは唇を動かさないままで話しかけた。執事独特の秘密話法である。他人の目がある場合、唇を読まれることを懸念して、この方法で話し合うことがある。なぜなら執事は読唇術を心得ているから、こういう会話法は必要なのだ。

「あれは高倉家の召し使いだぞ。他の家の召し使いと勝手に話してはいかんということは、執事の心得としてお前も知っているはずだろう?」

「彼女はぼくとおなじ執事学校の同級生だったんです。それに幼なじみでもありますし、ひさしぶりの再会でつい、話しこんでしまって申し訳ありません」

 ふむ、と木戸は肩をすくめた。

「まあいい。それよりお嬢さまがお前をお呼びだ」

 ぼくを? と、太郎は驚いた。

 木戸は片方の眉をつりあげた。

「いまいらした高倉ケン太さまとお嬢さまが、今日はじめてお会いになられる。いま、お嬢さまは道場からお部屋へ戻って着替えられておられる。お前はそれを手伝う」

 それだけ言うと、木戸はくるりと背を向け屋敷内に入っていった。

 とりのこされた太郎はちょっと洋子をふりむいた。

 洋子は知らん顔をして車の掃除を続けている。

 太郎はじぶんの顔に血が昇っているのをおぼえていた。

 着替え?

 お嬢さまの!

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