5月(1)犬猿の仲
美幸が企画推進部第二課に配属になってから、約一ヶ月。美幸はすっかり周囲の者達と打ち解け、順風満帆に仕事をこなしていた。
「村上さん、幸和バルブと丸井金構への納入実績のデータ処理が終わりました! チェックをお願いします!」
「もう出来たのかい? 早いね。在学中にP検一級取得は、伊達じゃ無いか」
ニコニコと差し出された書類の束を見て、村上が心底感心しながらそれを受け取った。すると机の向こう側から、加山が確認を入れてくる。
「藤宮さん、グレイバインの販売パターンシュミレーションの方は、どうなってるかな?」
「それはあと三十分あれば出来ますから、完成次第そちらにデータを飛ばします」
「流石だね」
もはや何も言えず、口笛でも吹きそうな表情をしてから加山は自分の仕事を再開した。そして美幸が自分の机に戻ると同時に、隣の高須が声をかけてくる。
「なぁ藤宮、昨日午後の始業に遅れたのは、ここの近くで荷物引ったくられて立ち往生してたフランス人を、交番まで連れて行って事情説明してやったって本当か?」
「はい。同期の人達とお昼を食べた帰りに遭遇しまして。日本語は話せないし同行者と離れて単独行動中の上、連絡先はバッグの中で、その女性が泣きそうになっていたんですよ」
椅子に座りながら淡々と状況説明をした美幸に、高須が思わず呻いた。
「喋れるんだ、フランス語」
「はい、英語は当然として、その他にドイツ語とポルトガル語と中国語も、日常会話程度なら大丈夫です!」
「……へぇ、そりぁ凄い」
当然と言われた英会話すら、何とかモノにしたレベルの高須としては、これ以上突っ込んだ話をして先輩の威厳を崩壊させたく無かった為、そこで会話を打ち切った。すると滅多にこのフロアに現れない人物が部長の谷山と共に部屋に入って来たと思ったら、谷山と別れて真っすぐ二課のスペースにやって来る。
「やあ、藤宮君、頑張っているかね?」
そう声をかけてきた人物を振り仰いだ美幸は優雅に立ち上がり、綺麗なお辞儀をしてみせた。
「笹城戸課長、お久しぶりです。お陰様で希望部署に配属させて頂き、ありがとうございます」
人事部でそれなりに力を持っている笹城戸に、美幸がにっこりと微笑んだ。対する笹城戸は満更では無い顔付きで鷹揚に頷き、幾分声を潜めて囁いてくる。
「いやいや、ここは色々難しい所だから、配属を決定したものの気になってね」
「はい、大丈夫ですからご心配なく。でも笹城戸課長のような将来有望な方に、気にかけて頂けるなんて嬉しいです」
同様に低めの声で礼を述べた美幸に、笹城戸が幾分照れくさそうに笑う。
「こら、お世辞は止したまえ。将来有望だなんてこそばゆいよ。現に研修中の面接の時に、一度顔を合わせただけだろう?」
「あら、あの一回で十分です。服装も一分の隙も無くビシッと決まってて、流石一部上場企業の管理職の方は違うなぁと、惚れ惚れしましたから。特にあの濃紺のネクタイとか。あれで笹城戸さんの顔とお名前を覚えてしまった位ですし」
美幸がそう言った途端、笹城戸は軽く目を見開いてから如何にも嬉しそうに顔を緩めた。
「おや、そうだったのかい?」
「はい! だってあんな微妙な色合いと柄の物を使いこなしているなんて、それだけで尊敬に値しますし、良くお似合いでしたよ?」
「そうかそうか! いや、藤宮君こそ将来有望な社員だぞ? これからも頑張りなさい。何か有ったらいつでも相談に乗るからね」
「ありがとうございます。頼りにしています」
そこで笹城戸は愛想笑い全開の美幸の肩を軽く叩き、周囲の者達に仕事中突然訪問した事を詫びながら去って行った。
「いやいや、それじゃあ邪魔したね。皆、頑張ってくれたまえ」
「はぁ……」
「どうも……」
皆揃って微妙な顔付きで笹城戸を見送ってから、高須が美幸に向かって怪訝そうに尋ねた。
「おい、藤宮。あの人社内ではワーストドレッサーで有名だぞ? 今だって、濃いグレーのスーツに赤紫のネクタイって有り得ないだろう。面接の時って、何を着てたんだ?」
「何って、礼服の様な真っ黒のスーツに、濃紺で斜めに銀色の細い線が幾つも入ってて、その間に金色の星が無数に縫い取られてるネクタイでしたが?」
それを聞いた高須は、美幸に疑惑に満ちた視線を向けた。
「お前……、そんなのが良いと、本気で思ってるのか?」
「思うわけないですよ、そんな悪趣味な代物。だからこの人は常々周りから服装の趣味を貶されてるだろうから、衣装を誉めてヨイショすれば簡単に転がせると、インプットしただけです」
「そうか、良く分かった」
サラッとそう答えた美幸に、高須は僅かに顔を引き攣らせて話を打ち切った。するとここで真澄の声が響く。
「藤宮さん、ちょっと良い?」
「はいっ! 何ですか課長っ!」
途端に勢い良く立ち上がり、美幸は一目散に駆け寄った。いつもの事ながら、真澄は僅かにたじろぐ。しかし何とか表面上は平静を装い、何枚かの書類を差し出した。
「え、えっと、ちょっとこの中国語の文章を訳して欲しいの。食品の貿易協定に関する条文を、見直しする動きが中国国内で強まっているとかで」
「お任せ下さいっ!」
力一杯請け負った美幸に一瞬引きながらも、真澄は取り敢えず伝えるべき内容を告げる。
「あ、りがと。それから……、紀陽グループの販売網調査のレポートを見せて貰ったけど、見事だったわ。良く短期間であれだけ纏めたわね。あれなら」
「きゃあぁぁっ! 課長に誉めて頂けるなんて光栄ですっ! これからも精進しますので、何でも遠慮なくビシビシ申し付けて下さいねっ!」
「え、ええ、そうするわ」
話の途中で美幸に手を握り締められ、感極まった状態でぶんぶんと振られた真澄は、何とか顔に笑顔を貼り付けて頷いた。
「それでは失礼します! 早速、取りかかりますのでっ!」
鼻歌混じりに、スキップでもしそうな雰囲気で机に戻った美幸を眺めた同僚達は、彼女の様子に深い溜め息を吐いた。
(能力としては申し分なくて、実際に即戦力になってるのに)
(今時の子には珍しく、お嬢様学校出身だからか礼儀正しいし言葉遣いも完璧だから、立ち居振る舞いを一から教える必要もないのに……)
(社交性も十分で、他の部署や外部の人間とのコミュニケーションもバッチリなのに)
「うっふっふっふ~、課長に褒められちゃったぁぁ~」
(どうして課長が絡むと、頭のネジが何本か緩んだような言動になるんだろう?)
それは二課に所属する美幸以外の全員が、この一月近く疑問に、且つ残念に思っている内容だった。
「それでねぇっ、今日そう言う風に、課長に褒められたのっ!」
社員食堂の一角で、美幸の笑顔の後ろに子犬が振り切れんばかりに尻尾を振って喜んでいる幻影が見えた総司は、思わず遠い目をしながら些か投げやりに頷いた。
「そうかそうか、褒めて貰えて良かったな」
「うんっ! それに今日も課長は超絶美人で指示が冴え渡ってて、新規契約一本もぎ取ったんだって! 才色兼備って、まさに課長を言い表している言葉だよねぇぇっ!」
「……本当ね。羨ましいわ」
こちらも投げやりに晴香が話を合わせたが、途端に美幸が鋭い視線を向ける。
「やだ……、そんな羨ましいがっても、二課の椅子は絶ぇ~っ対に渡さないんだからねっ!」
それを聞いた晴香は、疲れたように呻いた。
「あのね、さっきのはあんたが羨ましいって意味じゃなくて、課長さんのようになりたいわねって意味よ」
「なぁんだ、驚かせないでよっ!」
そこで笑いながら勢い良く美幸が晴香の背中を叩き、その痛みに晴香が恨みがましい目を向ける。
「……痛いんだけど」
「ごめんごめん、だってひょっとしたらとライバルになるかもって焦っちゃったから、ホッとしちゃって~」
昼食を食べながらそんな事を大声で話していると、美幸の体内で危険信号が発生した。
(あれ? この感じ……)
ピリピリと身体に僅かに電流が走る気配に、美幸は黙って原因の気配を探る。それと同時に、自分とはテーブルを挟んで座っている総司と隆に、真顔で尋ねた。
「ねぇ、あのね? 私の右斜め後方、約五メートルから十メートルの範囲に、私を睨んでる人とか居る?」
「うん? ああ、確かに居るな。男が三人。藤宮、お前何やったんだ?」
「男の人を泣かせるような事は、特に何もしてないけど。私って存在自体が罪なのかしら?」
白々しく言ってのけた美幸に対し、総司が呆れ気味に窘める。
「真顔でそういう冗談を言うな」
「だって本当に身に覚えが」
「げっ! あれ、俺んとこの先輩達だ」
そこで狼狽しながら口を挟んできた隆の台詞に、晴香が思わず呻いた。
「という事は、営業一課の人よね? うわぁ、最悪。美幸、あんたの課長の自慢話、絶対連中に聞こえていたわよ? 大声で吹聴していたから」
「そりゃあ、向かっ腹立てるよなぁ……」
「本当の事を言って、何が悪いのよ」
合いの手を入れた総司に、美幸が拗ねたように反論しかけたところで事態が動いた。
「お前なぁ……。って、こっち来るぞ!」
「げっ、やばっ」
総司と隆が狼狽したが、美幸は平然と昼食のハヤシライスを食べ続け、晴香はすっかり高みの見物を決め込む。そうこうしているうちに、二十代後半の男三人組が美幸達のテーブルまでやって来た。
「やあ、田村。今日は同期と食べてたのか?」
「は、はい! お疲れ様です、早川さん、青木さん、山崎さん」
「ああ、お疲れ」
慌てて立ち上がってお辞儀をした隆から視線を動かし、三人は薄笑いの表情を浮かべながら美幸に目を向けた。
「それで? そっちのカワイ子ちゃんが、企画推進部二課の新人さんだよね?」
「はい、藤宮美幸です。宜しくお願いします」
全く臆せず、美幸が静かに立ち上がって礼儀正しく頭を下げる。すると三人は、苦笑いしつつ言い出した。
「宜しく。君の噂は色々聞いてるよ?」
「そうそう、営業部と海外事業部と秘書課からの誘いを蹴って、企画推進部一本で配属希望を出したとか」
「良くご存じですね?」
「部長が悔しがっていてね。柏木課長に取られたって」
「別に課長が横取りしたわけじゃありませんよ? 単に私が柏木課長以外の人の下で、働きたくなかっただけで」
その他はまるで眼中に無いと言いたげな口振りに、その場の雰囲気が一気に悪化した。
「新人の癖に……。少しは、口の聞き方に気をつけたらどうだ?」
「何の事でしょう?」
「おいっ、藤宮!」
睨み付けてくる相手に笑顔で返す美幸に、流石に隆が小声で窘めた。しかし横から小馬鹿にしたような声が割り込む。
「よせよせ、営業は所詮男の職場だからな。お嬢さんは『お姉様~』とか言って、おままごとしてれば良いだろう?」
「そうだな、企画推進部は所詮お試しで作られた遊び場でなんだし、それが似合いか」
そんな事を言って三人で「あははは」と笑い出すと、美幸は良く通る声で食堂中に聞こえるように明るく言い放った。
「そうですか~、営業は男の職場なんですか~。だから『兄貴~』って男同士でくっついてて、営業一課は課長以下独身男性ばっかりなんですね~。私所謂腐女子じゃないので、そんな世界理解不能で、入っていけませ~ん。入っていくつもりもないしぃ~、企画推進部に入れて、本当に良かったわぁ~」
そのあまりの暴言に、総司を始めとしてその場全員が瞬時に固まった。そして一瞬遅れて、営業一課三人組が揃って怒声を張り上げる。
「なっ、何だと、この女!?」
「俺達ばかりか、課長まで侮辱する気かっ!」
「ふざけんなよ!?」
しかし男三人を向こうに回しても、美幸の勢いは止まらなかった。
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