第66話 シロの決断

 泣き付いていた陽菜を結に預けると、シロは友人達に背を向け虚空のある一点を見つめながら踏み出した。そこに浮かぶのは邪悪な気を纏った悪魔だ。

「俺も行くぞ」

 彼女に続いてクロも進もうとしたが、突然全身から力が抜けていくのを感じて彼は思わずよろめいた。

「っとと……! あれ、何だ? 力が……」

「大丈夫? クロノ君」

 そばにいた薫がすぐに肩を貸す。

「ああ、ありがとな薫……何か、力が全然入んねー……あーくそ、こんな時に何だっつーんだよ……!」

「無茶したからなんじゃないの?」

 イヴが横から口を挟んだ。

「ま、あたしもいるんだし、あんたは休んでな」

「つっても、これが俺の仕事なんだけど……ん……?」

 ふとクロは右腕に目をやった……何だ……?

 何だかブレて見える。腕が腕の形をしていない……もっと不確かな形に……固まっていた物が溶けている様な、あるいは蒸発している様な、ゆっくりと消滅している様な、例えようがない形態に変化している様に見える。

「……?」

 何度かぱちぱちと瞬きを繰り返している内にその腕は元通りに戻った。何が起こっていたのかさっぱりわからなかった。

 そして、その様子をイヴも見逃さなかった。

 ……今のは、まさか……。

「やはり俺様の邪魔をするか、王女」

 ガレインは自分の元へと進んでくるシロを見下ろした。

「あなたは悪です。この街に脅威をもたらす。そんなあなたを放っておく訳にはいきません」

「なぜだ? 俺様がこれからしようとしている事は、そもそも貴様がここに来た本来の目的と同じだろう」

「!」

 シロはつい足を止めた。そうだ。あの男の言う通りなのだ。

 彼女が境界にやって来た理由。それは侵略のため。人間を従わせるためだ。それは今からガレインがやろうとしている事と変わらない。なのになぜ自分はそれを止めようとしているのか。

 答えはもう、出ていた。

「ふざけんな! シロとお前を一緒にすんじゃねー!」

 背後からクロの叫び声が聞こえる。

「シロはなあ、魔界をより良くするためにここに来たんだよ! お前みたいに悪い事考えてんじゃ……」

「……違うよ、クロ。あの人の言う通りだよ」

 ぼそり、と蚊の鳴く様な声でシロは振り向かずに言った。

「……え?」

 戸惑う様子が伝わってくる。彼だけじゃない。イヴも、薫も、陽菜も結も、皆彼女の言葉を聞いて少なからず取り乱していた。

「おい、何の冗談だよ」

「冗談じゃないよ」

 彼女は顔を俯かせたまま続けた。

「……ごめんね。こんな形で知られちゃうなんて、思ってもみなかったよ……陽菜、結……私はね、悪魔なんだ。見えるでしょ? この背中の翼……文化祭の時は作り物だなんて嘘ついたけど、これ、私の背中から生えてるんだよ……私、人間じゃないんだ」

「……シロちゃんが、悪魔……?」

「うん。あの人の言ってる事はほんとだよ……私、この世界を侵略するために来たんだ」

「おいおい、何を考えてんだよ今の王家は」

 イヴが狼狽した様子で口を開いた。

「ごめんなさい。こんな大事な事、イヴさんにも、クロにも……黙ってて」

「……お前……何で……」

 クロの声はわずかに震えていた。

「だって、言える訳無いじゃない……言える訳無いじゃない」

 何度も聞いた事だ。天使と悪魔は敵同士。だがそれ以上の大きな理由。特に、クロにだけは嫌われたくなかった……そんな事、言える訳が無い。

「ごめんね。みんな私の事、嫌いになったよね……でもね……だから、今までみんなに嘘をついていた分、これから私に罪滅ぼしをさせて欲しいんだ」

「罪滅ぼし……?」

「今ははっきりと言えるよ。侵略なんてしないって。信じられないかもしれないけど、信じてくれなくてもいいけど、でも、これが確かな今の私の気持ち。私は、この街を守るよ」

「……は?」

 上空でガレインがわざとらしく顔を歪めた。

「……守る?」

「そうだよ」

 それが、この世界で一年近い時間を過ごした王女が選んだ道だった。

 彼女は人間を知った。そのコミュニティーに溶け込む事で、彼らと触れ合う事でその文明、文化、歴史を知った。境界に来る前なら人間などただの異世界の一生命体に過ぎなかった。だが彼女は知ってしまった。親しみを持った。経験を重ねた。思い出を作った。

 何より、この場所で愛しい人に巡り会えた。

「……私は、みんなと出会えたこの街が好き。だから、私はこの街を守る!」

「……ぷっ……! はーっはっはっはっはっは! ぎゃはは! ひひっ! ま、守る!? 誇り高き悪魔の王女が! 魔術も使えぬ下等な人間の世界を! ま、守る!? 守るだと!? がははははっ!」

「笑うなら笑いなさい。これが王女シエル・オ・エリシアとして下した決断です。王家の意向に背く者はこの場で私が、その名の下に然るべき処断をさせて頂きます」

「……ふーん、王女様がひとつ、大人の階段を上ったのかな」

 イヴが彼女の隣にとっと降り立った。翼が開いている。

「ドンパチやらかす前に札貸しな。持ってるんだろ?」

「へ? 札って……召喚札?」

「そ。どこかなどこかな~」

 楽しそうな声で彼女はシロの体中をさわさわと撫で始める。

「ひゃっ!? ちょちょっとイヴさん! くすぐったあ、変なとこ触っちゃ……!」

「みーっけ!」

「はわっ!? 勝手に取っちゃ……ていうか、それは王家の者しか使えないんだけど」

「細かい事はー気にするにゃー!」

 シロの上着の内ポケットから抜き出した七枚の召喚札の中からイヴはぴっと一枚を選び取る。

「ここは……まずはこいつかにゃー? 来な、アスモ」

 煙と共にぼわんと小さな兎が現れた。七聖獣の一匹(この場合は一羽と言うべきか)、幻影を操るアスモデウスである。

「あれ? 何でイヴさん使えるの?」

「よっ! 久し振り~アスモ」

「あら? シロじゃないと思ったらまた懐かしい顔ね」

「お? あたしの事覚えててくれてるんだ。嬉しいな~。長生きしてると知り合いはみんな死んじまうからね」

「あんた性格変わった?」

「そりゃー1000年も生きてれば人格ぐらい変わるって」

「え? え? 何でイヴさんとアスモが知り合いなの?」

「ほんじゃ『いつも通りの感じ』でお願い」

「わかったわ」

 もふんと小さく頷くと、アスモはぴょんぴょんと跳ねていきクロの頭にちょこんと収まった。

「あ? 何だよまた」

「あぁ、やっぱりここが一番落ち着くわ」

「? しょんべんはすんなよ?」

「あらあんた、レディーに対してそんな下品な事は言うものじゃないわよ」

 ぴん、と彼女の両耳が真っ直ぐ立つ。幻を作り出した仕草だ。

「……はい。これで周りはいつもの景色を『感じて』いるわ。視覚だけじゃなくて五感でね。ついでに適当な幻を見せてこの辺りからは追い払っておいたわ」

「サンキューアスモ」

「ね、ねえ、どうしてイヴさんが……」

「別に隠してた訳じゃないんだけどさ」

 イヴは左の袖をめくって二の腕をシロに見せた。そこに刻まれていたのは、シロが生まれた時から馴染みのある印……。

「!? しゅ、守護の印!? イヴさんに!? ……え!? あれ!? て事はイヴさん……!」

「守護の印? はっ! あんたまだこれをそんな物だと思ってんのかい?」

「え……?」

「まあいいや。これが終わった後にでもぼちぼち話してあげるよ。イヴちゃんの思い出」

「……ん? もういいのか?」

 ガレインはひとり空で肘を突いて横になっていた。

「貴様ら話が長い。待ちくたびれたぞ」

「わざわざ待ってくれてたんだ……」

「……お馬鹿さんだから……」

「何!? 貴様王女! 俺様の事を馬鹿だと言ったな!?」

「あ、ごめんなさい……イヴさん、じゃなかった、おばあ様、札返して」

「ほいほい……って何と!?」

「え? どうしたの?」

「お、おばあ様って何さ!」

「え、ご先祖様だから……」

「……あーそーかい! だったらおばあ様は地上したでゆっくり休んどきますよーだ!」

「あ、ふてくされた……」

「馬鹿と言う方が馬鹿なのだ! 馬鹿王女!」

「あーはいはい……」

 何か雰囲気が……シロは決戦に臨むべく、もう一度空を仰ぎ見た。

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