第10話 恋する少女

「サバス! 本当かい!」

 魔王は目を大きくして老執事に聞き返した。

「本当にシロからまた連絡が来たのかい!?」

「はい」

 サバスは落ち着いて答える。

「しかしでございますね……」

「? どうした? 何か問題でもあるのかい? ……はっ! まさか! けっ! 結婚! するとでもいうのかっ!」

「落ち着きください魔王様。フェイスにご相談があるそうで、他の者は鏡には近付けるなとの事でございます」

「相談? フェイスに? 父がここにいるのにかい? そんな、私はそれほど娘に信用されていないのか!」

「ですから落ち着きに! おそらく、女性にしかお話しになれないような事なのではと思うのでございますが」

「え? ……なるほど。シロももう、そういう年頃になってきたのか……嬉しい半面、少し淋しい気もするなあ……」

 しかし、魔王の推測は必ずしも外れてはいなかったのである。


わたくしにご相談とは、一体いかがな事でございましょうか」

 フェイスはひとり大鏡の前に立ち、幼い王女の顔を見つめていた。

〈その……本当にもうそこには誰もいない?〉

 シエルは入念に鏡の前に彼女以外の人物がいないかを確認してくる。

「はい。ご指示通りわたくし以外の者はこの部屋に入れておりません。魔王様も、サバスさんもおりません」

〈そう……なら話すわ……本当に?〉

「本当でございます! 信用なさってください!」

 シエルはよほど人に聞かれるのを気にしている。それほど重大な事をお話しになるのだろうか、と彼女はごくりと唾を飲み込んだ。しかし同時に、なぜ魔王様ではなくこのわたくしに? という疑問も持った。

〈……今から言う事は、その……フェイスにしか聞いて欲しくなくて。お父様には何ていうか話したくないの……〉

「そうでございますか。何なりとわたくしめにお話しください。不肖ながらもお答え差し上げられるよう尽力致します」

〈うん。ありがとう。あのね……その……えと……〉

 少女は一度うつむいた。もじもじしているお嬢様、超絶愛くるしゅうございます! フェイスは写真機を取り出すのを必死にこらえた。

〈その……フェイスは、その、こ、恋……って、した事ある?〉

「……」

 彼女はつい無言になる。彼女にしか話せない内容……恋愛相談だったというわけだ。

「……恋……でございますか……」

〈うん! その、鯉じゃないよ! あ! 今のは池にいる方の鯉! じゃなくて、その、恋、だよ! って、それじゃわかんないか。んっと、恋だよ恋! その、誰かをす、好きになる、とかの!〉

「くすくすくす。何度も仰らずとも理解しておりますよ。恋愛という事でございますね?」

〈そ! そう! 多分それ!〉

 王女は顔を真っ赤にして言った。

「これは驚きました。お嬢様、恋をなさっているのでございますか?」

〈そっ! それが……わかんなくて〉

「……と仰いますと?」

〈私、今まで恋なんてした事ないから、これが恋なのかどうかがわからないの〉

「なるほど……お父上であられる魔王様ではなくわたくしにご相談をされた事、納得致しました」

〈うん。これはフェイスにしか話したくなくて……〉

「好きなのでございますか? その方の事を」

〈だっ! だからわかんないからあなたに相談しているんじゃない!〉

「くすくすくす。では、一体どうしてそうお考えになっているのかお話しください」

〈うん。あのね、彼の顔をじっと見たりとかするとこう、心臓がどくどくするの。それからね、何でもない時に彼の事を考えるようになったり……とにかく、心が言う事を聞いてくれなくて。勝手に考えて、勝手に恥ずかしくなって、勝手にぼーっとして……テレビのチャンネルが全部彼の事しか映してくれないような……〉

「テレビ?」

 フェイスは首をかしげる。聞いた事のない単語が飛び出した。

〈あ! えっと! こっちにある機械の事! とにかく! その、彼の事でいっぱいいっぱいになって……! 恥ずかしい……!〉

 幼い少女は両手で顔を覆った。

「……お嬢様」

 フェイスはにっこりとしながら言う。

「それは、おそらく恋でしょう」

〈や! やっぱり?〉

 シエルは指の間から目を覗かせる。

「と申しますか、お嬢様が恋なのでは? とお考えになっているのであれば、それは恋なのでございます」

〈……どういう事?〉

「そのような事は、他人であるわたくしが決めるような事ではございません。お嬢様の御心の、お嬢様のお気持ちの事は、お嬢様にしかおわかりになりません。ですからお嬢様がこの気持ちが恋なのだと思ったら、それは恋なのです。たとえばお嬢様がお怒りになっている時、これは怒っているのかな、と疑問に思ったりはなさらないでしょう。それと同じでございます。楽しい時は楽しまれて、悲しい時は悲しまれて、恋している時は恋をなさっている。そういう事でございます」

〈……よくわからないけど、じゃあ、私が、その、彼の事を好きなのかもしれないって思ったら、それは好きって事なのね〉

わたくしにご相談なさらずとも、お嬢様ご自身でそう気付いていらっしゃるのではございませんか?」

〈……そうかもしれない……〉

 再びシエルは顔を見せた。

〈そっか……これが恋なんだね……ドキドキして、恥ずかしくって、ぎゅってなって……不思議な気持ち〉

「それにしても驚きました。お嬢様が恋をなさるとは」

〈私もその、よくわからない内に……〉

「くすくす。恋とはきっと、そういうものでございますよ」

〈そ、そうなの……?〉

「ええ」

 その時鏡面に波紋が広がり始めた。もうそろそろ時間のようだ。

〈今日はここまでかな。ありがとうフェイス。気持ちがちょっと楽になった気がする〉

「いえ。何かお困りの時は、またいつでもご相談ください」

〈ええ。お父様とサバス、城のみんなによろしく。またね〉

「はい。お伝えしておきます。もちろん今のお話は誰にもお話し致しませんので」

〈うん〉

「あ、それから来月、一度そちらに伺う事になりました。お嬢様のご様子を見てくるよう頼まれましたので」

〈ほんとに? わかった。楽しみにしておくね〉

 鏡は歪み、徐々にシエルの顔が見えなくなっていった。やがてただの鏡に戻ると、フェイスの姿がひとりきり映されているだけとなった。

「……」

 彼女は緩んでいた口元を元に戻し、鏡越しに己の背後にある遥か遠くの記憶を見据えていた。

 フェイスは、恋ってした事ある?

 先ほどのシエルの質問、答え損ねてしまった。

 ええ、わたくしもございますよお嬢様、恋をした事が。

 殺したいほどに。


 そっか、私、恋してるんだ。

 最も信頼出来る家臣の意見を聞き、王女の心は安定した。

 数日前に突如彼女の体を襲った感覚。あのびりっとした、電気が流れるような感覚。シエルの心に異変が起こったのはそれからだ。クロノと話したり、彼の顔を見たり、彼の事を考えたりする度に彼女の心は苦しくなって、だけどどこか気持ちよくなる。初めての感覚に彼女は戸惑ったが、この正体が恋だとわかると安心した。これが、誰かを好きになるって事なんだ。お父様がお母様の事を好きになったみたいに。

「……ふふ、ふふふふふ~……」

 何だか体がくすぐったい。彼女はベッドに寝そべり足をばたばたと動かした。なぜだかとっても幸せな気分だ。どんな事も忘れてしまいそうな、心地よい高揚感に包まれている。どんな事も……。

「……あ!」

 忘れてはいけない事があった事に気付く。

「そうだ。この間の男の人の事も伝えておくべきだった……」

 シエルは先日、恋に落ちた日の昼間に出会った悪魔の男の事を思い出す。

「……他にもこの街に悪魔がいるかもしれない……」

 仮にいるとして、それが全員急進派や悪さをするような者だとは限らない。だが下手に動かれては彼女の侵略行為が今後しづらくなるのは確かだ。何か手を打たなければならない。

「……よし、あれを使おう」

 彼女は起き上がると机の引き出しから七枚の札を取り出した。旅立つ前に父からもらった、七聖獣を召喚するための札だ。

「え~っと……どれだっけ……」

 札を一枚一枚見ていき、そこに書かれている術式を確認していく。

「え~っと……あっ、あった。これだ」

 目的の札を一枚抜き出した。

「来なさい、ベルゼ」

 その札から聖獣を一匹召喚する。札の中から現れたのは……。

「おっ、シロ。久々~」

 言語を話す一匹の蠅である。見た目はいたって普通の蠅だ。羽をぶんぶんいわせながら部屋に滞空している。

「久しぶりね、ベルゼ」

 彼女も蠅にあいさつを交わす。

 この蠅の名はベルゼブブ。七聖獣の一匹である。彼(?)に限らず、七聖獣は総じて言語を解す事が出来る。

「ここが境界か。何か魔界と全然雰囲気違うね~」

「そうね。私もここに来てまだ10日ぐらいだから知らない事だらけよ」

「そっか。楽しそうな顔してるね~王女様」

「えっ? そ、そう?」

「何かいい事あったの~?」

「そっ、それは……まあ……」

 シエルはふふふとにやける。

「って、そんな事より、あなたに頼みたい事があるの」

「お安いご用だよ! その代わり……」

「ええ、しっかりとご飯はあげるから」

「よしきた! で、その頼み事っていうのは一体?」

「この街に悪魔がいないかどうか調べて欲しいんだけど……大丈夫?」

「……う~ん……それはなかなか難しいねえ……ま、おいらの機動力を活かして飛び回ってみるけど、そもそも見た目は翼以外変わらないんだよね? 悪魔と人間って」

「ええ、まあ……それでも、一通りこの街……っていっても広すぎるわね……ここの最寄りの駅から半径10kmぐらいの範囲でいいから、とりあえず捜してみて。わからなくてもいいから」

「合点承知。もしかして、今から?」

「ええ。お願い。窓は少し開けておくから、疲れたりしたらいつでも帰ってきて。ただし、この家には同居人がいるからくれぐれもこの部屋から出ないように」

「了解。じゃあちょっくら行ってきま~す」

 ベルゼはぶ~んと窓から外へ飛び出していった。

「気を付けてね~」

 通常召喚獣は長くても二十四時間ほどで魔力の消耗のため召喚札の中へと戻ってしまうのであるが、七聖獣の場合は魔力の強さから長くて一週間ほどは大丈夫である。

「……んふふ~」

 王女は召喚札を引き出しの中に戻した後、再びベッドに寝転がった。

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