第5話 幸せの箱船

「駐日公使のハリーさんが、うちの高杉晋作に随分と入れあげてくれたお陰で、こういうことに相成りました」

 グラバー邸の応接室で開口一番、桂小五郎かつらこごろうが愚痴を言った。

「それは、大変なことでごわした」

 ガハハと大きな躰を揺すりながら西郷隆盛は笑った。小さなテーブルを挟んでの同盟後に初めてもたれた会談の席で、グラバーはアメリカから届いた手紙に夢中になっている。

「とは言え、今回の話がまとまらなければ、長州藩は討ち死にする覚悟でござった」

 桂小五郎はぼそりと呟いた。

「薩摩としても、長州が味方となってくれて嬉しい限りでごわす。武器の件は京都で決めた通りに、うちで買って長州へ貸し出す。これでよかですな」

「我が藩は倒幕派として有名になりすぎました。そのように取り計らって頂ければ有り難い。ところで、あんな正体のわからぬ若造が代理人で大丈夫ですか」

 と、グラバーへ視線を流す。手紙から顔をあげるや、「皆さん」とソファーから立ち上がった。

「アメリカの古い友人から、我がグラバー商会へ融資を頂きました。これで、どんな武器も皆さんへお届けできます。幕府の軍隊など、もはや敵ではありませんよ」

 そして、やや顔を強ばらせてから低い口調で続けた。

「ただし、わたしの名前もグラバー商会の名も一切出さないように。全ては坂本龍馬という日本人の青年が経営する亀山社中かめやましゃちゅうが独自に行うことです。良いですね、これだけは必ず守って下さい」

「幕府から睨まれるのは坂本龍馬ただ一人、そういう事ですか」

 桂の嫌みにも、グラバーは笑顔で答えた。

「わたしは、日本が気に入りました。長く留まっていたい。だから日本の元気な若者に託すのですよ。若いのだから、やり直しはいくらでも利く。この国の若者は素直だから好きです。もちろん多少のやんちゃは目をつぶってあげます。暴走し過ぎれば叱って元の道に戻してあげればいい。それが大人の役目だ。簡単なことですよ、大丈夫」

 そこまで一気に喋ると、紅茶を美味そうに飲んだ。西郷も桂も「あなたも十分に年若いはずだが」という言葉を飲み込み、テーブルに手を伸ばした。


「薩長と長州を仲直りさせるなんて、龍馬さんって凄いお人やったんどすな」

 おりょうは目をまん丸に見開いて、龍馬の逞しく鍛えられた躰に熱い視線を送った。

 温泉旅行も二日目だった。幕府の目を逃れて、怪我の療養に九州の温泉へやってきた。たった二人だけの旅は薩摩の計らいだった。

 今でいえばハネムーンといったところだ。むろん、この時代にそんな風習はない。だから日本で初めてハネムーンを行ったのは坂本龍馬と楢崎龍ということになっている。

「そんなに誉めるな。この程度で満足はしとらんぜ。日本をいまいちど洗濯する、そのための第一歩ぜよ」

 湯煙のなか、裸同士のふたりが天下国家について語る。少し滑稽に思えるこの状況も、おりょうにとって新鮮だった。

 しかも、龍馬という男は、松兵衛から聞いた印象とは随分違う。逞しくて頼もしくて、何よりも大きな夢を持っていた。

「わしはいずれ、メリケンへ行く。勝先生の話だとメリケンには日本が学ぶべきことが沢山あるそうじゃ。おりょう、おまんも一緒ぜよ」

 おりょうは龍馬の肩に頬を寄せた。ひょっとしたら、これが『幸せ』というものだろうか、そんな想いが逆に胸を苦しめた。

 涙が溢れてきた。

「どうしたんぜよ、どこか痛むのか」

 心配する龍馬に抱きつくと「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせるように呟く。この幸せは長くは続かないことをわかっていたから、だから悲しくなったのかもしれない。

「いや、このまま女房で居させて下さい」

 思わず口に出た。

「当たり前や、おまえはわしの女房ぜよ」


 おりょうは湯煙のなかぼんやり思い出していた……思えば幼い頃は大切に育てられた。

 父と母は仲が良く、とても愛し合っていた。何よりも母が父のことを尊敬していた。

 医者としての懸命な姿勢……そう、使命をやり遂げようとする態度は母ばかりでなく、妹や弟たちからも羨望の眼差しを浴びていた。

 長女として華道や茶道を学びながら、将来は父のような立派な医者のもとへ嫁ぐのだと、そう信じていた。

 ところが、これはどうしたことだ。

 全ては父の死から始まった。

 父を殺したのは大老の井伊直弼という男だ。

 登城途中で脱藩藩士から斬り殺されたと聞いた。

 ざまあみろ、だ。

 けれども、井伊直弼がどれほど悲惨な死に方をしたからとて、あの幸せが戻るはずもなかった。

 一家離散。

 悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。

 こんな人生、なんで、こんな人生なんだ。幸せはどこへ行った。この自分が何をしたというのだ。なんで、どうして、こんな目に遭わなきゃならない。


「おりょう!」

 龍馬の声に目を覚ました。

「あ、少しのぼせたみたい」

「それはいかん。どれ、部屋までわしが連れていってやるぜよ」

 いきなり抱き上げられた。

「あ、恥ずかしい。せめて着物を」

「なに言うとる。風呂場から素っ裸でわしを助けに来てくれた女が、今さらそれはないだろう」

「あの時は、龍馬さんを助けようと必死で」

「なら、今度はわしが必死になる番ぜよ。それに、これからもっと恥ずかしいことをするから、覚悟しておけ」

 おりょうの白い肌が赤く染まった。

 幸せは、今ここにあった。



  了

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龍馬の女〜幕末英雄群像伝より かいしげる @usanyan

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