第2話 人生の転換点

 大阪は『商人の町』だ。

 武士ばかり目立つ江戸に比べて商人の姿が目立った。江戸の文化とはまた少し違った風土がそこにはあった。

 江戸幕府が大阪を天領として直接河川などの土木工事を行い、年貢米ねんぐまいなどを運ぶ水路が整備されて『水の町』になると、日本全国から物資が集まる拠点となった。

『天下の台所』

 こう呼ばれるようになった元禄時代以降、経済は益々発展していった。

 町を仕切っていたのは『ヤクザ』だ。

 こう言い切ってしまうと語弊もあるが、役人だけで全てを仕切れるほど商人の世界は単純ではない。

 アキンドの道は、生白いキレイな手では開けない。両手を泥と汗で汚す覚悟のあるものだけが生き残る。

 その精神は現代と同じだ。

 地域の番人として余所者に目を光らせ、荷揚げ作業や配送の手配をしていたのはヤクザだ。

 興行があれば客引きを行い、不良者をつまみ出し、場内の秩序維持を行ったのもヤクザだ。

 江戸では有り余っている浪人が用心棒をやってくれるが、大阪では浪人武士を探すよりもヤクザに頼んだほうが早いし、何よりも安上がりで確実に仕事をしてくれた。

 ヤクザ、といっても現代のマフィア化した暴力団のことではない。任侠道に生きている人々のことである。

 むろん女郎屋もそんなヤクザが、あがりを受け取る大切なシノギのひとつとなっていた。


「新しい女はどうや」

「はい、躾もキチンと出来ている素直で従順な女でございます」

「初物やさかい、最初は例の旦那に差し上げるんやで」

「はい、承知致しております」

 女郎屋の主人は、うやうやしく小判の詰まった箱を金庫から出すと売人の前に置いた。

「では、こちらをお納め下さい」

 売人はにんまりと明るい表情で悪びれもせず言った。

「毎度、おおきに」


 現代の感覚でいえばあきらかな人身売買だが、この時代は普通だった。

 楢崎のように没落した名家のお嬢様が、生きるために男に躰を売るのもまた、仕方のないこととされた。

 そして楢崎光枝は、まだヤクザのもとにいた。売られる女郎屋は決まっていた。あとはカネの交渉だけだった。

「それにしても、楢崎家のお嬢様がねえ。まあ、心配せんでも取って食われるわけやない……ある意味、取って食われるのか」

 とゲスな笑い声をあげる。

「まあ、あれよ、客のやりたいようにやらせて、それで銭をもらう仕事や。最初はちいとばかり辛いやろうが、すぐに慣れる」

 光枝は畳敷きの狭いかこいのなかで震えていた。涙は不思議と流さなかったが、生娘の彼女がこのとき感じていた恐怖は底知れないだろう。

「売り物に手を出すんじゃねえ」

 組の若頭わかがしらが手を伸ばそうとしたところを、親父でもある組長が叱った。

「でもよお、すげえいい女だぜ」

「だから、カネになる。おめえが先にやっちまったら価値が下がるだろうが。座敷に出たあとで客として通え」

「ちっ、親父は融通が効かねえな」

 若頭が背を向けて立ち上がったとき、土間から若い衆の声が響いた。

「なんや、貴様!」

 若い衆を威圧しているのはひとりの女性。着ているものは安物だが、どこかしら気品を漂わせる美女。

「お姉ちゃん!」

 光枝が叫んだ。

「うちの妹を返してもらうよ」

 おりょうだった。

 短刀を構えて、それも女一人での殴り込みという予想すらしていなかった事態に、若い衆も戸惑う。

「おどりゃあ、ヤクザなめとったら承知せえへんど」

「タダとは言わないよ、あんたらも商売だろうからさ」

 ふところから小判を数枚ばらまいた。どこで、どうやって手に入れたのか、極貧生活にあった彼女にはとてつもない大金だ。

「おいおい、姉さん。こんな端金はしたがね水揚みずあげ出来るほど、おたくの妹さんは安くないぜ」

 若頭がへらへらと世間知らずのお嬢様を小馬鹿にした。

「ちょっと、邪魔するよ」

 修羅場に割って入ったのは、若頭よりも大柄な男だった。その腕の太さや肩幅から徒者ただものでないことはわかった。

「だれだい?」

 ヤクザより先におりょうが声をあげた。

「なんでえ、貴様。今取り込み中だ、見てわかんねえ……」

 若頭がいきまくのを、親分が叱った。

「やめねえか、甚平。こちらの方は……」

「ああ、いいんだ。今日はこっちのお嬢さんに用事があってな」

 言われたおりょうは憮然としたまま、その大男を見つめる。

「あんたが、楢崎龍さんだね」

 おりょうは、ドスを構えたままコクリと首だけで返事をする。

「西村松兵衛まつべえさんから伝言を頼まれたんだ」

 その名前を聞いておりょうは、ようやくドスを下ろした。瞳が潤んでいる。

「ったく、じゃじゃ馬の嬢さまと聞いてはいたが、まさかこいつら相手にやり合うなんてな。間に合って良かったぜ」

 大男が親分を見据えると、顎で何かしら合図をした。親分は「甚平、こっちへおいで」と若頭を自分の横に座らせる。

「理由はわかりませんが、そのお嬢さんは『かしら』のお知り合いなのですね」

「いや、おれと直接の面識はねえよ。だが、その金貨の出所は長崎だ」

 親分は顔色こそ変えなかったが、目を閉じるとすうっと息を吐いた。

「そういうことですか。わかりました。では、この金貨……五枚で取引成立です」

「オヤジ!」

「黙ってろ!」

 若頭の抗議に間髪入れず、親分は怒鳴りあげた。

「普段から格別の仁義じんぎを尽くしてくれるあの御方と知り合いならば、今宵は商売は抜きで結構でございます。ささ、妹さんをお連れなさい。姉妹仲良く、お暮らしなさい」

 親分は全く卑屈にはならず、堂々と胸を張った。

 おりょうには、わけがわからなかった。

 小判は、懇意にしてくれる大道商人の松兵衛から借りたものだ。

 京都の『寺田屋てらだや』という旅館に泊まっていた松兵衛に泣いてすがり、松兵衛はそれを当然のように聞き入れたのだ。

「いいよ、差し上げるよ。でも、危ないことはダメだよ。知り合いに案内させるから、今夜はここへ泊まっておいき」

 言いつけを破ってひとり乗り込んだのは、むろん妹の光枝が心配だったからだ。

「あんたが、松兵衛さんのお知り合いどすか」

「そうさ、おれは……伊碁蔵いごぞうとでも覚えておいてくれ。それからな、西村松兵衛さんから、これを寺田屋の主人に渡すよう頼まれた」

 手渡されたのは手紙だった。不思議な顔をするおりょうに、伊碁蔵はガハハと笑った。

「妹さんとふたり、住み込みで働かせてくれる。旅館の女中だから大金は稼げないが、暮らしは楽になるぞ。いずれ、松兵衛さんを通じて、ある御方からお願い事があるだろうから、それまでは静かにしておくんだ」

 急に恐ろしくなって、手紙を突き返す。

「心配することはない。それとも、松兵衛さんのことまで疑うのかい」

 おりょうは身を翻すと、囲いのなかに座らされていた光枝の手を取った。

「これから、姉ちゃんと一緒に旅館で働くかい?」

 光枝は黙って頷いた。

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