第2章:蜂の巣
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「聞いてよぉ、あいつら、あいつら……匿名だからって平気で人のこと詰りやがって!! なにがアラサーよ! あたしはまだ二十六よ、二十六!」
「ああもう、かなはん気にしたらあかんよ。まだ若いんやから、チャンスなんていくらでもある」
「そうよね! あたし、まだ若いわよね!」
ひし、と涙ぐむおさかなはきな粉に抱きつく。
――なんだろうこの茶番。
アズサは口には出さずに苦笑いを顔に張り付けていた。ああ、いや、おさかなの表情は
「それはそうと、あんた、そのエセ関西弁、まだ続けてたの?」
ピシッ、と割れるような緊張が走った。
それに気づかないほど無頓着なおさかなじゃないとアズサは思っていたが、おさかなの意地の悪そうな表情は明らかにきな粉を煽っている。ついさっきまで縋りついていたというのに随分と華麗な手のひら返しだ。
「エセやなんて、いややわぁ~」
きな粉の目は笑っていない。
イナバとアズサの二人が在中所に戻る最中に出くわしたのは、ススキノ最大の街『猫の目』を総べ、ススキノ四強の一角を担う女性、きな粉である。
それからきな粉の隣にはもう一人。シャツがはちきれんばかりの豪快な肉をスーツで押し込めた、ボディーガードのような男が隣に立っている。四角い顔にかけられたサングラスが一層その印象を強めている。名を千兵衛というらしい。
二人は「頼みたいことがあんねん」とここススキノ派出所までついてきた次第である。
「それにしてもまぁまぁ。随分ときれいになっとるやないの!」
「新人が入ってきやしたからね。お茶入れたっすよ、きな粉さん」
「はぁいー」
お茶を入れてきたイナバが、おさかなとじゃれるきな粉を客室に呼び戻した。念のため注釈すると、「新人が入ってきたから(イナバが)掃除した」のではなく「新人が入ってきたから(新人が)掃除した」のである。ちなみにアリスは客人が居ようとお構いなしにソファで寝ている。
「
「頂こう」
千兵衛の印象を一言で表せば堅物だ。駐在所に戻ってくるまでもほとんど喋っていなかったが、単に無口というよりは必要でないから喋っていないように思える。喋ったとしても口の周り以外の筋肉がまるで動かず、表情が変わらない。
「アズサさん、こちらへ」
イナバが手招きをし、アズサを自分が座っているソファの隣に呼び寄せる。
「改めまして、こちら、アズサさんっす。一昨日からうちの所で預からせていただいています」
「初めまして。アズサです」
――ススキノでは本名は役に立たない。
この街に来て初日、この場所でアズサは教えられた。ススキノでは本名を名乗る人間は珍しい。というのも、そもそも名乗るという行為自体を行う必要性があまりないからだ。四強の他の三人、ハチヤ、ゼニガメ、柳も同様であるように、これらの呼び名は彼らの本名ではない。便宜上というか通り名というか、そもそもススキノで本名を必要とすることがない。古式ゆかしく名乗りあって決闘をするような作法もなく、その人の印象や知り合いがその人を呼ぶ時の呼び名、あるいは本人が呼ばれたがっている名前であったり、この街での呼び名が本名であることはまれだという。きな粉もその例に漏れない。
「うちはきな粉。こっちの黒いのは千兵衛。よろしゅうしたってな」
きな粉が着物の袖が細い左手を出して握手を求めてくる。
それをアズサは一瞬躊躇した。
「ん?」
きな粉は可愛らしい顔を傾げるが、アズサはそれでも手を伸ばすことに躊躇していた。
きな粉は、魔術を行使している。
それもアズサたちと出会った時からずっとだ。
ススキノは安全とは言い難い街だ。防御魔術を行使している可能性は考えられる。だがそれにしては魔術の規模が大きすぎる。アズサでなくとも警戒して当然だ。
「ああ、なるほど。これを警戒してはるんか」
合点したようにきな粉はそう言うと、差し出していた左腕で右側の袖を捲り上げた。
「きれいなもんやあらへんのやけど、勘弁してな」
捲り上げた袖の下は、真っ白い腕――のようなものだった。
「義手……ですか」
「うん、まあ、そんなもんかいなぁ」
きな粉は苦笑いを浮かべるが、きな粉の右腕は驚くほど綺麗だった。
それは、人の腕とは思えないほど――いや、実際に人の腕ではないのだろうが、恐ろしいほど美しい義手だった。
「こっちん腕は亡くしてもうてな」
「戦争、ですか」
「そうどす」
肘の少し先までは、おそらく自身の腕だろう。目を凝らさないとそこだとは気付けないほど綺麗に繋がっているが、右腕周辺の魔力の集中具合が異常だ。そして意識してみれば境目も分かる。
「この腕は……魔術、ですよね」
きな粉は袖を下ろしながら、頷く。
「うち特製の式が組んであんねん。危害を加えたりはせえへんから、見逃したってえな」
魔女と呼ばれる魔術の名手であっても、きな粉は女性だ。男性ならいいというわけではないが、美への関心は男性のそれよりはるかに女性の方が大きいだろう。腕を失っている自分の姿へのコンプレックスが並大抵でないことは想像に難くない。
そんなきな粉の意を汲んでいるのか、イナバもおさかなも、きな粉の腕については一切触れようとしない。
左手を差し出して握手をすることを、アズサはもうためらわなかった。
よろしくお願いしますと頭を下げた。
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