2-2

「遅かったわね」


 イナバが引き戸の扉を開けると、ぼうっと青白い明かりが漏れてきた。

 声は女性の者だった。低めの声で、女性らしさよりも男勝りな印象すら受ける声だ。

 声の主はキャスター付きの椅子の上で体育座りをして、目まぐるしく変化していくディスプレイをじっと見つめている。


「いろいろありまして」


「いろいろって? 聖剣にでも見つかった?」


「それとシラユキさんにも」


「あっはっは、ススキノ三大悲劇コンプリートじゃん」


「三大悲劇ってなんですか?」


「問答無用のシラユキ、アホの聖剣(笑)、それからそこのロリババア」


「ろ、ロリババア……?」


「そこで寝てる、で…………ん?」


 そこでようやく、座ったままの女性がイナバとアズサの方を振り返り……アズサと目が合う。


「…………」


「……初めまして」


 素っ頓狂、という言葉をそのまま顔に張り付けたかのような表情で、その女性は硬直していた。アズサは声を掛けるべきか否か迷った末に挨拶をしたものの、彼女の目にアズサが写っているかどうかは怪しいと思った。


「イナバ」


「っす」


「今日って何日だっけ?」


「八日っすね」


「新人が来るのって、何日だっけ?」


「八日っす」


「…………」


「…………」


 沈黙。


「うわわあああああぁぁぁぁぁぁっぁあああぁぁぁっぁ!?」


 両手で髪をがっと挟みあげて、その女性は飛び上がった。


「なんでもっと早く言わないのよ!?」


「あっし、帰ってきたの今なんすけど」


「掃除も洗濯も何もやってないじゃない!!」


「そう言ってやったためしがないじゃないっすか」


「やろうとはしてるのよ! いつも!」


「おさかなさんはその前にその顔をどうにかした方がいいと思うっすけど」


「うっさいおバカ!!」


 女性は手元に置いてあった紙筒をハリセン代わりにイナバを殴る。ポカっ、と気の抜けた音がした。


 確かに彼女の言うとおり、部屋はひどいありさまだった。先ほどの客間も酷かったがこちらも負けず劣らずといった様子だ。イナバにここが駐在所だと先に教えられていなければ、駐在所に帰る前の寄り道だと思っていただろう。できることなら今もまだイナバが冗談を言ったのだとを信じたい。


「まぁ、いいわ」


 その一言で片づけるにはあまりに凄惨な部屋と、全身を真緑のジャージで包み前髪をカチューシャでたくし上げ額に冷却シートを張り付けた彼女のだらしない格好に、アズサは見て見ぬふりをした。


「あなたが今日からの新人さんね。えっと、名前は確か――」


「はい、久坂部梓です! よろしくお願いします!」


「そう! 久坂部さん、だったわね。呼び名は……後々考えるとして、嬉しいわ、かわいい子が入ってきてくれて。私は長部かな」


「長部さん。よろしくお願いします」


「おさかなでいいわ」


「……おさかな、さん?」


『おさかな』とは『お魚』のことだろうか。


「うんそれでよし! ん~、新人が入ってくるのなんて久々だから、お姉さん、テンション上がっちゃうわ」


「お姉さんで行くにはそろそろ無理が――」


「黙れくそウサギ!」


 曲がった紙筒でもう一度殴る。今度もあまりいい音は鳴らなかった。


「こいつはイナバね。稲葉紡。ここで一番偉いのはこいつ」


「っす!」


「え!?」


「え?」


 アズサが驚いたのはおさかなの方が上司だと思ったからだ。二人の言葉づかいを聞いていれば、アズサの反応は当然……という思考がおさかなに伝わったのか、彼女が付け足してくれた。


「いいのよ、こいつは。日がな一日遊び回ってるだけなんだから」


「そうなんですか?」


「否定はできないっすね」


「できないんですか!?」


「おかげで書類仕事は全部私の仕事なのよ。とんだブラック企業よね。公僕が聞いて呆れるわ」


「え、でも、ススキノ駐在所の職員は確か三人で――」


「ああ、カザミ? あいつはいないわよ」


「え? え? でもさっきあっちの部屋に人が……」


「それはアリスさんよ」


「……??」


 アズサにはおさかなが何を言っているのかよくわからない。


 稲葉紡。


 風見翔子。


 長部かな。


 アズサが前もって聞かされたススキノ駐在所の職員はこの三人だ。だがおさかなの話を聞く限りだと風見翔子は現在駐在所にはおらず、先ほどの話に出てきた「ロリババア」ことアリスさんがいるとのこと。想像以上な職場だとは思っていたが、職場にいる人間からして別人だとは思わなかった。


「少しずつ慣れて行けばいいっすよ」


 イナバががさごそとごみの山を漁り、何かを取り出したと思ったら、椅子だった。

 座る部分を手で払って、ここに座れと言わんばかりに手で示す。でもいかにも埃だらけのそれに座る気は起きなかった。


「とりあえず、久坂部ちゃん、ここに住み込みでいいのよね?」


「えっと、はい。でも、えっと荷物が送れないって聞いて、今日は用意できなかったんですけど……」


「ああ、そうね。外の業者はこっちに入りたがらないから。この辺りか札駅かで済ませるか、自力で持ってくるか、あるいはこの馬鹿に運ばせるって手もあるわね」


「じ、自分で運べますよ!!」


 イナバが職場でどのような扱いを受けているのかは理解できたが、それにしても先輩上司を顎で使えるほど、アズサの肝は太くない。

 それに荷物とはいってもせいぜい段ボール数個で収まる量だ。場所さえわかれば同僚の手を煩わせる必要もない。


「上が宿舎だから。三階の三〇四号室、使ってちょうだい。ベッドと枕くらいは多分あるはずだから」


「わかりました」


「それじゃ、明日はまず引っ越ししてもらうってことでいいかな?」


「その前に……」


 なにかな、首を傾げる二人に、アズサは真剣な面持ちで言った。


「ここの掃除をしてよろしいでしょうか」

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