2章 杖と蜃気楼

1 出だしから

 私は今、自分の部屋で本を読みながら、お手玉をしている。


 ポトっ。


 落ちたお手玉を拾って、また始める。

 物語は佳境に入っている。ついつい、のめり込み――


 ポトっ。


「…………」


 拾って、また続ける。

 そして――


 ポトっ。


「あああああっ! できないーっ!」


 お手玉を放り投げた。

 そもそもの話、私は本に没頭しすぎる癖がある。日常生活にも支障を来たすくらいなのに、同時に何かをするなんて、元から無理だったのだ。


 たとえ何か「見え」ても、目の前のことがおろそかにならないようにするためには、要は複数のことを同時に処理できればいいんだと、あれからいろいろやってみていた。


 将棋を打ちながら宿題をやったら、青筋を立てた青行燈あおあんどんが盤をひっくり返した。

 右手で漢字の書き取り、左手で計算の宿題をやったら、何を書いているか判別できず、やり直す羽目になった。

 ピアノなら大丈夫かと、右と左で違う曲を同時に弾いたけど、問題なく弾けてしまったので、これは何の意味もなかった。


 妖怪たちに手伝ってもらおうと思いつき、全員に好きな歌を歌ってもらって、それを聴き取ろうとしたけど、青行燈が「まーかーはんにゃーはーらーみーたー」と唱える般若心経だけが耳にこびりついて、それだけしか聞こえなかった。


「何で鬼がお経を唱えるんだ! 私の中の何かが打ち砕かれる!」と食って掛かったら、「小娘ごときが、聖徳太子を気取るからだ。そもそも、一度に十人の話を聞き分けたという説より、十人の話を次々に聞いてそれを覚えていたという、聞く力と記憶力に優れた人物であったとされる説の方が、よっぽど信憑性……」云々。

 うんちくお説教で、あえなく返り討ちにあっていた。


 他にもあれこれやったけど、とにかく何をやっても上手くいかない。

 方向性を間違えているんだろうか。


「はあーあ」


 ベッドにゴロンと転がると、盛大なため息が出た。

 子どもに戻ったりしなければ、こんなことで悩む必要はなかった。そんな考えが、頭をよぎる。


 でも、過去の何もかもを忘れて大人になっていた私は、自分には何の変哲も取り柄もないと思って、結局のところ行き詰まっていたのだ。何か大きなことをやり遂げたと実感したこともなかったし、取り立てて誰かの役に立った記憶もない。


「はあ……」


 やっぱりため息が出た。

 梅雨の明けないどんよりとした日曜の午後は、どうやっても気持ちが晴れない。


 珍しく来客があったのは、そんなときだった。


「ごめんください……」


 階下からの遠慮がちな声。

 何となく聞き覚えがある。そう感じて、階段を下りていく。


「あ」


 玄関で十岐ときが応対していたのは、私がまだ大人だった頃、隣に住んでいた少年、優一ゆういちくんだった。

 中学……いや、今年から高校生だっただろうか。一年ぶりに見る彼は、少しだけ大人に近づいていた。


「あ、あの……僕、塚原つかはらと言います。大家さんから、こちらに鷹山寧たかやまねいさんがいらっしゃると聞いて……」


 鷹山は、私の元の姓。

 彼は「私」を訪ねてきたのだ。


「お上がり。中で話を聞くとしよう」


 十岐がそう言って振り向く。その動作に誘導されるように、優一くんの視線も動いた。

 居間の入り口から覗いていた私と、目が合った。


「あ、こんにちは。お邪魔します」

「……こんにちは」


 それは、初対面の人へ向けた顔と、挨拶だった。

 気づく訳など、なかったのだ。今の私は……子どもなのだから。


 居間には、他に誰もいなかった。

 おぼろと赤鬼は残っていたはずだけど、どこかに隠れているのかもしれない。


「あの、母がこれを」


 紙袋から菓子折りを取り出し、十岐に渡す。


「すまないね。早速いただこうか。寧、お前もおいで」

「え? お姉さんと同じ名前……」


 入り口付近で迷っていた私に十岐が声をかけると、優一くんが驚いた。

 気づくはずなどないと分かっていても、焦る。


「鷹山の子は、母親に頼まれてわしが名づけたんだ。心やすらかにいられるようにと願いを込めてな。この子は遠い親戚の子だが、その名を両親が気に入ったようだね」


 十岐が、私の名前をつけた……?


 聞いたことがなかった。でも、遠い親戚うんぬんは作り話としても、十岐が名付け親だというのは、恐らく本当のことだと感じた。


 里の外で産んだ子どもが、あまねの後継ぎだったのだ。

 母はその有り得ない状況で、私の将来を心配したことだろう。だからきっと、偉大な存在である十岐に頼んだ。十岐にあやかり、少しでも弊害がなくなるよう、無事に目継ぎとしての道を歩んで行けるようにと願って。


 事情を知らない父も、そんな母の気持ちを察して受け入れたんじゃないのか。初めての子どもの名前を、きっと自分でつけたかっただろうのに。


 ああ、それなのに。

「心やすらかに」なんて、願いとは裏腹な、私の人生。


「そうなんですか。それで……あの、お姉さんは……」

「あの子は今、外国を旅して回ってるよ。連絡もほとんど寄越さんし、ひょっとしたら、どこか気に入ったところに住み着いちまうかもね」

「っ!?」

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