06/17/10:00――シュリ・根強い海への恐怖
さて、次はどこに向かおうか、なんてことを考えながら、宿場にて食事をしていた私、シュリ・エレア・フォウジィールは、どこに向かうかと問われたら海に行くんだと答えるのだから、それ以外に何があるというのだろう。つまり考えるだけ無駄だ。
無駄――だけれど。
何かの気の迷いってやつが私に訪れるとしたら、きっとそういうものになる。
ともあれ、ここはウェパード王国に近い港である。物流の拠点として、交易の中継地として繁栄したウェパード王国は、一番早くに海と交易を始めた拠点だ。海における物流を、船に出る者が多く出る前から準備をした場所。たったそれだけのことで好印象を抱けるのだから、私っていう人間もそれなりに単純なのだろう。
しばらくここでのんびりするのも悪くない、なんて思えてしまうのだから。
「失礼」
と、一人で食事をしていた私は顔を上げる。身動きしやすいきっちりとした服を着た、やや長身の女性がそこにいた。印象としては、なんというか鋭い。持っている雰囲気が緊張感を持ち――つまり、緊張を持つ職種なのだとわかる。そこまでわかった私は周囲を見て、船乗りたちがそこそこ賑わせていることを確認して、一つ頷いた。
「私?」
「そうだ。失礼ながら、シュリとは貴君のことで間違いないだろうか」
「そうだけど」
「お話を伺いたい――そう、海の話を聞きたいのだ」
「それなら、私じゃなくても……と、言いたいけど、その上で私なわけか。座ったら?」
「ありがたい。――と、これも失礼だ。名乗らせていただこう」
「どうぞ」
「元シャヴァ王国軍情報部中佐、イリカ・メドラートだ。よろしく頼む」
「いいけど」
さすがに元軍人、といったところか。私の視線が、彼女が腰に提げた軍刀を確認したのを察している。だからこそ、誤魔化さずに元軍人であることを名乗ったのだろうけれど。
「私みたいな小娘に、そんな畏まった態度を取らなくてもいいのに」
「以前、失敗してから、私は年齢や外観などで他人を判断しないようにしたのだ。最低限の礼は払う――のだが、勘違いされることも多い」
「だろうねえ。ちなみに、失敗する前はどうだったの?」
「積み重ねた経験こそ全てだと思っていた。年齢とは経験そのものでもある。一年、あるいは五年、そうした積み重ねは決して覆らない――と、とんだ視野狭窄に陥っていてな。今では苦笑いしかできん」
「じゃあその時に失敗した相手はまだガキで、――ある意味で敵わなかったわけだ」
「痛いところを突く。しかし、その通りだ。ほぼ同時期に、私の右腕とも呼べる若い部下が、一人立ちして私の元を離れ、その時にこう言った。私にはシャヴァ王国の軍人であることを誇る気持ちがあった。それは良い。であればこそ、ウェパード王国に行ってみてはどうか――とな」
「ふうん?」
「敵対はしていなかったが、まあ敵国のようなものだ。私は進言通り、行ってみて痛感したよ。私の世界は狭いとな。だから、問題を片付けて軍を辞めようと思っていたのだが、随分と時間がかかった。二階級も昇進してしまったくらいだからな……」
「その一環で私? というか、海に出たいの?」
「その決断は、未だ迷っている。見ての通り私は四十過ぎだ、動かない海をよく知っている。……知りすぎたくらいに、な。犠牲になった者も、覚えている」
「ああ」
あれは辛い。もっとも、海に出てからの犠牲者の方だけれど。
「海は怖いものだ。陸地に住む者であれば、きっとそれは感じるものなのだろう。だからこそ聞いてみたい。貴君は一人で海に出ているというからな」
「そうだけど」
「不躾な質問になるかと思う、容赦願いたい。そもそも、貴君は海が怖くないのか?」
「え、怖いよ。当たり前じゃん。――あ、うん、でも、きっとイリカとは違って、未知への恐怖とはちょっと違うよ」
「ふむ、知っているからこそ、怖いと?」
「そう。知っているってことは、対処もできる。でも、その対処が正解だとは限らないし、失敗とは常に隣りあわせ。その上、海の上での大失敗なんてのは――そのまま死に直結するから」
「たとえば、知っていても避けられないものというのは、あるのか?」
「あるよ。一番は嵐かな」
「それはつまり、天候が荒れ、結果として海も荒れる状況として捉えて、構わないだろうか」
「船乗りはね、嵐を体験していない人間に、その状況をいかに言葉を重ねて説明したところで、その怖さの片鱗しか伝わらない――なんて、揶揄するんだけどね。まず第一に船が転覆したら終わる。大波に対して無抵抗でいても、ひっくり返ることはあるから、推力そのものを発生させなくてはならない状況はあって――と、そこらの説明も難しいな」
「避けられないのならば、立ち向かうか、やり過ごすしかない――という判断は、間違いだろうか」
「ううん、当たってる。大抵はやり過ごすことを選択するし、それが生き残るためには必要。たとえばさ、
「ああ、その話は聞いたことがある。雪というのは、冷たいから発生するが、重ねれば断熱効果もあるという。そのため、雪を掘って穴倉を作り、そこで少しでも暖を取って吹雪をやり過ごす、だったか」
「そうそう、そんな感じ。それと、妖魔の襲撃もね――どちらかというと、怖いのは、襲撃そのものじゃなくて、いつ襲撃されるかわからないってところ」
「突発的なのか?」
「予兆を感じられる人は少ないし、難しいから、大きな客船でも必ず見張りを立てる」
「貴君はどうなのだ? 一人で海に出るのならば、不眠不休では、それこそ困難だろう――失礼、先にこう問うべきだった。一人で海に出て、どれほどの時間を過ごすのか、そこはどうなのだろう」
「人それぞれ。だいたいの目安として、ほかの大陸を目指す場合、未だと五日前後で到着するんだよね。私の場合だと、あー……どうだろ。一ヶ月くらい、海にいることもあるかな」
「一ヶ月? ――いや、到底想像できないな」
「うん、馬鹿ってよく言われる。知り合いでも、個人でそんなに海に出るのは……三人か、四人いるかなあってくらい」
「いるには、いるのだな。おそらくそれは、少ない部類なのだろう。先の質問に戻るが、見張りはどうしている?」
「基本的に夜間は寝ない。海でも妖魔の動きが活発化するのは、やっぱり夜だからね。昼間であっても、短期睡眠――浅い眠りを十五分くらい、それを断続的に、かな。この十五分ってのがネックでねー、私も最初に海に出た時、十五分を越して、嵐に気付かずに、手遅れになりそうになったことが一度あって、あんときは怖かったよ」
「それは……いや、そうだな。交代要員がいないのならば、短期的な睡眠を、それこそ一時間ごとに摂るか、あるいは浅い眠りを続けるしかない」
「軍の人なら、そういうこともあるかもね。でも、まあ、似たようなもの」
「……、これは貴君に対し、礼を欠いた問いになるかもしれないが、そもそも、貴君は何故、海へ出る?」
「それは、怖いのに――ってこと?」
「それも含めてだ。船乗りに多少の話は聞いたが、やはり一人で海に出る貴君のような人は珍しい。怖さを求めているのとは、きっと違うのだろう。そういった理由では、海に出られないと笑われたこともある。だとして、どうして陸地から出た?」
「んん……そうねえ。ただ海が好きだった――と」
本当にそれだけなんだろうけれど、理由としては足りないのだろう。
「最初は犠牲の一年。彼らにとっては未知の領域に対する冒険であり、ほかの大陸に辿りつけるという証明を得るためにやったと考えれば、妥当だろうけど。恐怖を感じてなお、得たいものがあるから海に出る。そりゃ、今じゃ、それが役目だーとか、橋渡しの仕事として誇りを持ってるとか、いろいろあるんだろうけど」
「貴君はそうではない、と?」
「そりゃ、心変わりはあるよ。海に出て五年、考えることもあったし……ただ、変わっていない本質の部分は、――海に出れば一人になること」
「……? どういう意味か、掴めないが」
「なんだろう。他者との隔絶? 陸地みたいに、人の〝気配〟ってのが、一切なくなるの」
「――待ってくれ。いや、おそらくそれは、隔絶であり孤独なのだろう。海では誰にも頼れない。己がそこに在るだけだ。ああ……そうだとも」
イリカは、それなのだと、頷く。
「きっと私にとって海の怖さとは、そこなのだろうと、今気付いた。一人でいることに慣れてはいても、孤独は怖いものだ。違うだろうか」
「耐性は必要かも。もちろん、陸地につけば誰かがいる。それは当たり前」
「だが、海ではそもそも、無事に陸地につけるかどうかが問題になる。歩いていればいつかたどり着く陸地とは違うだろう」
「まあ、そうかもね。でも――これ、経験だけど、一人にならないと、ちゃんと他人を感じられないよ?」
一人になりたいと、強く思っていたわけじゃない。一人になることは未知の領域だったので、それなりに期待していたが、私にとっては寂しさよりも、海を独り占めしているような錯覚に、高揚したものだ。けれどそれを過ぎて陸に戻れば――他人がいることの安堵を、きちんと感じることができたのである。
「なるほどな。しかし、先ほどは一ヶ月と言っていたが、貴君は一人で何をしているんだ?」
「んー、あんまり人には見せたくないことかな。鍛錬だったり、海図の精査、操船の練習とか――あ。うん、まあ、海賊と遭遇することもあるか」
「海賊? いや、盗賊がいるのだから、おかしくはないと思うが、実入りがあるのか、それは」
「大陸から大陸に運ぶ荷物ってのは貴重品が多いから、それなりの稼ぎになるらしいよ。どこからともなく沸いて出るから、一応ルールもあるんだけどね」
「なるほどな……」
笑い声がいくつか上がった。賑やかだったのは最初からだが、どこか一体感のあるような笑いだ。なんだと思えば、すぐに気付く。
「シュリさんの海賊談義だ」
「ははは! 遭遇率が半端ねえって話か!」
「冗談じゃねえんだって。下積み時代、シュリさんが乗ってた船の海賊遭遇率、いない時の五倍だぜ? いやマジで」
「海賊センサーでも搭載してんじゃね?」
そんなものがあったら、とっくに除去してるっての。
「うるさいぞ野郎ども!」
盛大に笑い声。かと思えば、あちらのお客様からです、なんて冗談交じりに、連中が注文した料理が私のテーブルに並んだ。
「海の治安に貢献してるってことへの報酬……? ばーか、ばーか!」
「ははは――失礼、いや、親しまれているのだな」
「陸地じゃ、まあ、こんなもんだよ」
「ふむ。しかし、一人で海に出ない者もいるのだろう?」
「あー、それは、ちょっと違う。一人で出れない人は船乗りじゃなくて、下積み。あるいはお手伝い。一人で出られる人は、必ず船長になってる。それが一人じゃなくて手伝いがいても、同じこと」
「なるほどな。であれば、手伝いで終わる人もそれなりにいるわけか」
「そだね。ああ、ちょっと量が多いから、適当に食べて」
「うむ、ご厚意に甘えよう。しかし、どのようにして海賊へは対処している?」
「一応、海賊避けのルールみたいなものはあるけど、あくまでも目安だし。私としては、救援を頼もうとしている船は、まことに遺憾ながら九割がた海賊だから」
本当に、どういう星回りなんだろう。それとも必要なのは御祓いのほうなのか。
「海の上じゃ、裁く人はいないからね。強いて言うなら船乗りなんだけど」
「どこにでも、そういう輩はいるものだな……。ふうむ」
「やっぱり海に出るには躊躇いがある?」
「そうだな、もちろんある。話を聞けば聞くほどに、どうやら私は、船乗りという人種への理解が及ばないのだと、そう気付かされた。そして、これは私自身の問題ではあるが、おそらく一度ならば耐えられるだろう。何事もなく別の大陸へ到着するかもしれない。だが、その〝次〟は耐えられるのだろうか――私は、ここへ戻ってこれるだろうかと、そんな不安もある」
「やっぱり戻りたいものかな?」
「――、貴君は、そうではないのか?」
「戻りたいのは〝海〟だから。いや戻りたいって表現はどうかと思うけど。それはきっと、イリカが陸地に戻りたいと思う気持ちと似たようなものかな」
「貴君は、私のような人を運んだことはあるのか?」
「イリカみたいな、なんていうかこう、一般の人みたいなのは、ないかな。私はこれまで人を乗せようと、それを仕事にしようとは思ってなかったし、どういう因果か、厄介な連中に目をつけられて、そういう馬鹿が乗るようなことが、ここのところ頻発してるんだけど」
「厄介――というと、化け物じみた連中のことか?」
「知ってるの?」
「知っている、というか、直接やり合ったことなどはないし、そう面識があるわけではないが、存在自体は疑っていない。言うなればそれは、謳われる五神のようなものだ。実際に逢ったことはないが、その存在が脅威であることは理解している。風説、俗説、それは噂程度のものでしかないのにも関わらず、その輪郭は明瞭だ。――曰く、人が至るには条件が厳し過ぎる、と」
「んー」
そうだろうか。
確かに条件は厳しいかもしれないが、むしろそれは――適性云云よりも。
「どちらかと言えば、捨てるものが多すぎる、かな」
「ほう……その見解の意図はなんだ?」
「人が人であるために必要なものって、そう簡単にはわからない。なんだろ、化け物なんて言われてる連中はさ、自分が自分であるために必要なもの以外を、自分であるためっていう目的のために、あっさり捨てられたりするんだよね」
「……? 自分であるために、捨てる?」
「そう。言葉にするのは難しいんだけど、一点特化――だろうけど、その一点っていうのがそもそも、大きすぎるっていうか。重すぎる制約を背負うことを代償にして、何かを得るというか……うーむ」
「あ、いや、すまない。考え込ませるために問うたわけではないのだ」
「ああうん、私もそういうの考えるのは面倒だから、あんまりしないんだよね。けど――考えてみれば、似てるのかも」
「似ている?」
「うん。私みたいに、海に出られればそれで良いってことと、同じ? 海に出るために努力は惜しまない――海に出ても、勉強は終わらない。そんな感じ」
「ふむ、なるほど……いや参考になる見解だ、ありがとう」
「いえいえ」
ただ、前提条件ってのも、確実にあるんだろうけど。
「ただまあ、連中にしたって海は初見みたいなとこ、あるけどね」
「そう――なのか?」
「あの人たちは〝海〟なんて、障害物くらいなものだから。陸地から陸地へ移動できるのに、海を渡る必要なんてないもん。で、厄介なことに、だから〝海は知らない〟なんてことは、ぜんぜんないってこと。知識があろうがなかろうが、即応してくる」
というか。
「なんでそんな連中が私の船に乗るんだろう……」
「いや、私にそう言われても困るが、推察するにそれは、貴君が海賊と遭遇するのと似たようなものではないのか?」
あ、それだ。間違いない。
「だが、そうだな。もしも私が海に出る時があっても、おそらく貴君に頼むことは、ないだろう」
「あー、乗せてあげてもいい相手だけど、行く先は風任せにはなるし、怖さは倍増するだろうね」
「そう思う。であればこそ、私は貴君を尊敬するよ」
「それはどうだろ……」
尊敬するのは勝手だが、私は好きに生きているだけだ。けれどこの様子を見る限り、軍と呼ばれる集合体が、海を戦場にするのは、まだ時間がかかりそうな感じもある。
そして、恐怖の味を教えてやれば、海に出る気もなくなるのではと、そんな楽観的な感想を抱くことにもなった。
余談である。
先に言ってしまえば、彼女の宣言通り、私がイリカを船に乗せることはなかった。しかし、海を知らない人の反応を間近にして、それなりに納得もしたのだ。
元軍人なんてのも、頭の固い馬鹿だと思っていたが、そうでもないんだ――などと思っていたが、しかし、それはイリカが特殊だったようで、まあ一悶着あったようななかったような、けれどそれは今ではなくもうちょっと先の話で。
ただ、私には珍しく、陸地で逢った人間の中で、イリカ・メドラートという人物は、また話しても良いと思えるほど、好印象な相手であった。
そして。
その、また、という機会は――妙な時に訪れるのだが、それもまた、先の話である。
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