04/25/04:00――コノミ・夢にうなされて

 荒くなった呼吸を整えることを、可能な限り早くする。欲を言えば呼吸が荒くなるような状況に陥らないことが第一。それでも〝必死〟の二文字を心に抱けば、そんな呑気なことは言っていられない。状況入りした中で、状況を作るな、なんてことは無理難題だ。

 休息を取ったのは二十時間前か。活動時間が長くなればなるほどに疲労は蓄積され、木木を縫うようにして傾斜を走る、いや、滑って落ちているような感覚が限りなく近く、すぐに呼吸は苦しくなる。それでも意識が一瞬でも飛べば大参事、足の踏み場と降下方向を間違えれば、怪我では済まない。

 逃げの一手だけを思考しながらも、逆転の手がまったく見つからない。有利とされる高い位置を保っていたはずなのに追い込まれ、逃走を余儀なくされたのは何度目か。背後からの追撃がないことが、かえって敵の存在を身近に感じさせられ、木を背にして立ち止まったところで、安心なんてほど遠く――。

 ぜぃ、と喉から何かが詰まったような音が煩わしくて、サバイバルナイフを口に咥えて、空も見えない山の中、視界を広く保つよう、背中の木に意識を向け、胸を上下させて少しでも呼吸を整えようとする。また同時に、ほんの少しでも休息を得ようと、緊張している意識と肉体を僅かに切り離すようにして、軽く瞳を瞑った。

 その――切り替えの刹那。

 油断はしていなくとも、視界が切れた一瞬に、ナイフのような薄い何かが挟まった。

「――っ」

 悲鳴は上がらない、うめき声もない。ベッドから飛び起きるように上半身を起こしたコノミ・タマモは、それが夢であることを一瞬にして理解すると、奥歯を噛みしめるようにして言葉を押し殺した。

 呼吸が、やや荒い。それを深呼吸一つで落ち着けてしまうのは、今だからこそできること。鼓動ではなく呼吸の制御、体内に取り入れる空気を、口ではなく躰全体で行うようにしてやれば、やがて鼓動も落ち着くだろうことを、経験として今は理解できていた。

 夢だ。

 改めて自覚すれば、手のひらの上にぽたぽたと汗が落ちた。ベッド脇にある小さなテーブルからタオルを取ると、立てた膝の上に置いて、そのまま顔をうずめた。

 昔の――夢だ。

 殺し合いに似た、父親と行っていた訓練の夢。たぶん、どんな戦場よりも、あの頃が一番怖かった。怖くて、苦しくて、涙が出そうなほどに辛くて、奥歯を噛みしめて耐えていた時間だったように思う。だがそれでも、嫌だと辞めることだけは、己に負けるような気がして、どうにか堪えていたのだ。

 だから、未だに覚えている。

「――安全確保はどうした」

 言葉が聞こえたと思えば、蹴り飛ばされて地面を、山を転げ落ちていた。

「呼吸を荒げ、足元もおぼつかず、休みたいと顔に書いてある。疲労が見えている。殺して欲しいと願っているのと何が違う?」

 仮眠の最中に襲われた。

「眠りたいなら隠れろ。隠れるために必要なことを考えて行え。眠っている相手へ攻めるのなら、自分が行う安全確保をしていると思え」

 だから休んでいる父親を襲撃して、返り討ちにあった。

「思い込みを排除しろ、可能性を模索しろ。自分にできることは相手もできると考えれば、それ以上の進歩が見えてくる。不可能だと思えたのなら、それを可能にする手立てを作れ」

 小動物にすら見つからないよう息を潜めていても、発見される。

「安全な場は存在しない。安全地帯は自分で作れ。危険を排除できないなら、危険を内包してなお、無事である確信を抱け。全てをやったと思えたのなら、休むことも終えろ」

 三十時間以上の戦闘訓練を終えれば、泥のように眠った。小川の近くにテントを張って、その間はずっと、父親が傍にいてくれたし、食料も確保してくれていて。

 たまには、空を見上げて、他愛のない話もした。

 汗を拭って顔を上げれば、窓に薄く映った己は、やや酷い顔をしている。金属のボトルに入った水を飲み、心を落ち着かせれば、やや火照った躰がだるさを伝えてきていた。どうやら医者というのは、この程度なら確実と言えるくらいに予想できるらしい。ここまで体調が良くないのは久しぶりだが、悪夢を見る可能性も伝えておいて欲しかったくらいだ。

 ――悪夢。

 いや、そうでもないかとコノミは小さく苦笑する。懐かしい思い出になるのだろう。当時は比較対象すらいなかったので、訓練自体が辛くても、それが一般的でないことを想像することもできなかった。かなりの無茶だと今ならわかるが、それでもなお、こうしてコノミが生きていられるよう上手く訓練を行った父親の技量の方が、途方もないもののように思える。

 教えられるということは、きちんと理解している証明だ。今のコノミは、かつての訓練を繰り返すことはできても、誰かを巻き込んで成長させることはできない。

 とにかくコノミの人生において、父親の影響は大きいのだ。なにしろ、人生の九割は、父親と過ごしていたから。

 逆に――旅において、街に入った時などの対応は、母親に教えてもらった。というか、戦闘以外はほとんど母親だったと思う。

 だが、戦闘において母親には敵わないこともまた、教わっている。なにせ、こちらに住む前に手合せをしたところで、母親の居合いに対してろくに応じることもできなかったのだ。加減してもらっても、それはただコノミ自身が死なずに傷を負わないというだけで――とにかく、両親という人間へのコンプレックスは、大きいのだ。

「……」

 頭に手を当てて少し考えたが、寝なおす気力もなかったので、ベッドから降りたコノミは汗を掻く前提で着ていた寝間着を脱いで、タオルで軽く体を拭ってから、躰にフィットする黒色のボディスーツを着る。外を見ればまだ暗いが、一時間もしない内に明るくなるだろうと思ってズボン、それからジャケットを羽織った。手入れしていた装備を持って、換気のために窓を開いてから、部屋を出る。

 久しぶりに七時間は眠っただろう、キリエとの約束は守った。節節が痛むような感覚はあるものの、発熱の名残りだ、仕方ない。まだ熱があるようにも感じるけれど、風に当たるくらいなら、文句も言われないだろう――そう思っていたのだが、居間にはランプをつけて読書をしているカイドウがいた。

 そのまま黙って外へ行くのは、あとでの追及が面倒そうだと思い、コップに水を入れてから対面に腰を下ろすと、カイドウは本を閉じて、テーブルの四方に配置した小石の一つを手に取ると、違うものと交換する。単純な結界だ、声だけを中範囲内にのみ伝わるようにする――つまり、眠っている人にまで声が届かないようにする処理だ。

「早いな、コノミ。それに珍しい。なんだかんだでお前、うちで寝てないだろ」

「三日に一度はこっちに来てるさ。別の宿を持ってるわけじゃない。昨日の無茶を引きずって、恢復に努めただけだ」

「こっちは直接見てねえし、聞いただけだな。深くは聞かないが、まだ本調子ってわけでもなさそうだぜ」

「うなされてる声でも聞こえたか?」

「……まあな」

「そりゃ悪かったな、心配はいらねえよ。峠は越した」

「珍しいことがあると驚くんだよ。悪く言うつもりはねえけどな。つーか、うなされるほど怖いものがコノミにあるって方が驚きだよ」

「……昔の、夢を見てね。あればっかりは、しょうがねえ」

「そういや、五年くらい前にも一時、うちに住んでたろ」

「ああ」

「それでも、一時だ。半年はいなかったっけな。んで、去年にまた逢って――お前、随分と変わってたろ。今まで何も言わなかったけど」

「だったらこれからも、言わないでおいてくれ」

 だとすれば、おおよそ四年くらいの歳月を、訓練に当てたのか。基礎訓練はそれ以前に、躰を作った後は経験を積む。それでも、現場よりも訓練の方が辛かった。生き方を決めたわけではないが、今の生き方になったのは、訓練があったからこそだろう。

 一度目の、人生の転機だ。

「オボロはどうだ?」

「よくやってるんじゃないか? 日雇いの仕事もやってたみたいだし、馴染みつつあるってところだろ。相談を持ち込まれたことはねえな」

「なるほどね」

「……コノミ、お前はこれからの仕事について、考えたことはあるか?」

「仕事を考えたいのなら、学校にでも行けよ」

「あのな……職業学校は、職業案内所じゃない。特定職業への志を持って入って、そこへ就くための学校だ」

「だったら尚更、お前は魔術師だろ、カイドウ。腰に刀を佩いてるけどな」

「今更、杓子定規な基礎でもやれってのかよ、ごめんだぜ。それに王宮勤めも遠慮願いたいもんだな。リクイスとは友人でいたいんでね」

「えり好みしてるようじゃ、まともな仕事が見つかるとは思えないね」

「最低限、そのくらいは言ってもいいだろ」

 鼻で一つ笑って、コノミは水を飲む。ほてった躰にはちょうど良い温度だったが、流れの先がわかるほどではなかった。

「カイドウ」

「なんだよ……らしくねえことを言ってんのは自覚してる」

「本気で考えるのなら、仕事じゃなくせ〝生活〟にしろ」

「――? あ、ああ、生活か」

「極端な話をしちまえば、連れ合いになれる女でも探せってことだ」

「相手に合わせろってか?」

「相手を、合わせてもいいだろ。クズハさんなんかは良い例だ。生活に拘りがねえのなら、それこそ日雇いの仕事でも受けて呑気に暮らしたっていい。元手が欲しいなら、今から一年間でもやりゃ、それなりには溜まるさ」

「……」

「ただなカイドウ、お前は理想が高すぎる。こいつは女じゃなくて生活の方だ」

「そう、か?」

「私から見りゃ、そうだ。あのな、一人で生きる最低条件なんてのはなカイドウ、その日の飯が食えりゃそれでいいんだよ」

「――……それは極端じゃね?」

「充分だろ。帰る家がなくたって、飢えに耐えるよりかは寒さを凌ぐ方が何倍もマシだ。確かに極端な話かもしれねえけどな――人間ってのは、ただそれだけで生きていけるんだよ」

「うーん……」

「目的や目標が欲しいってのは、理想だろ。求めるのが悪いわけじゃない。ないことが悪いわけでもなく、ありゃ良いってもんでもねえ。けどな、それが見つかった時に動けるような〝生活〟をしておくってのは、悪いことじゃねえよ。ついでに言えば、動こうっていう意志を持てることもだ」

「そこで後悔するのも俺自身ってか」

「後悔しねえ生き方なんてのは、想像もつかないね。それと、人生相談なら年下の私じゃなくて、大人連中にしろよ」

「違いねえ。ついでに、お前が年下だってことを忘れてた。コノミはどうなんだ?」

「お袋との約束でね、旅をしてもいいが必ずここへ戻れってことを厳命されてる。それが解禁されるのは、まだしばらく先のことだ。生活は基本的に変わらねえよ。根無し草の旅人であって、冒険者で、なんでも屋みたいなもんだ。軍人や騎士にはなれそうにない」

「羨ましいとは思わねえけどな」

「趣味を仕事にするなってのも事実だろうけど、実感はないね。今やりたいことを、どうやるかって問題を突き詰めりゃ、そのうちに見えてくるもんだろ。リンドウさんはなんて?」

「――二十歳を過ぎたところで、継ぎたいのならば、それは可能だろうってさ」

「好きにしろってことじゃねえか。オボロみたいに、槍を持ってりゃどこでもいい――ってのは、極論かもしれないが、そういうヤツだっている。楽しくやれてりゃそれでいいってヤツもな」

「お前はどうなんだ?」

「私は、今こうして生きてりゃ充分だ。その先に、親父やお袋に並べるようになるなら、尚更ハッピーだ」

「簡単だな……」

「難しけりゃいいってもんでもねえよ。やりたいことがあろうが、なかろうが、生活は続けなくちゃな。それが実家だろうが、その日暮らしだろうが、そう大差はない」

「言い切るなよ。考えてた俺が馬鹿みたいじゃねえか」

「だからそう言ってるだろ。んで、そういうことは馬鹿の方が上手くやる」

「おい、褒めてるのかそりゃ、どっちだ?」

「さあね」

 仕事にせよ人生にせよ、なるようになるというのが、今のコノミの見解だ。加えて言えば、オボロや自分よりも、カイドウの方がよっぽど上手くやると思う。普通だからではない、こうして考えて悩めているからだ。そうして出した結果がどんなものであれ、カイドウは選択に対して責任が持てるはず。だったら、一度の失敗でも次へ繋げられる。

「ともかくだ、他人を羨むなんてのは時間の無駄だろ。人生に迷ってんなら教会を叩け――と、そういやここに教会はなかったか」

「……そんなもんかね」

 かりかりと頭を掻いたカイドウは、手元の魔術書を軽く撫でる。それを見て、水を飲み干したコノミは立ち上がった。

「ありがとな」

「あ? なにがだ?」

「私の暇つぶしに付き合ってくれた礼だ。随分と落ち着いたからな、もう少し横になって休んでる」

「おう。こっちこそ、詰まらねえ話に付き合わせたな」

 ひらひらと手を振って自室へ戻れば、おそらく入れ違いになるようオボロが通りかかるだろう。そこまでの面倒は見きれないと自室へ戻ったコノミは、ベッドに腰掛けて吐息を一つ。軽く瞳を瞑ったら、平衡感覚が消失するようにぐるりと回り、気付けばベッドに倒れていた。

 疲労がまだ抜けていないことを自覚しながらも、ここまで引きずるようでは話にならない奥の手だとも思ってしまう。だが、あの時点で使わない選択肢はなかった。訓練だと強く思い込んでいたところで、瞬間的な死の匂いに反応してこその、切り札だ。

 起き上がるのも面倒なので、ぐるぐると躰ごと回るような感覚に委ね、瞳を瞑ったまま、しかし両手でシーツの存在だけは意識しておく。夢と現実の狭間に囚われるよりは、少しでも現実を意識しておいた方が良い。戦場では寝る時や休息時が一番危険だ、と付け加えたコノミは、こんな時にまでそれかよと、苦笑を刻む。

 コノミには、カイドウのように悩む時間はなかった。けれど、選択権はあったのだ。父親の訓練を受けるか否か、続けるか否か、そうした決定権は常にコノミが持っていたし、今にして思えば、持たされていたのだろう。

 ――お前は〝朝霧〟にはなれない。

 そう断言された時も、選択を得た瞬間だった。

 一人で生きている、その姿は、父親の方がより鮮明に見えた。それこそ、子供の目に映った父親は偽りなく、なんでもできると思えたし、そういう現実を見せつけられた。いや、見せていたのだろう。何故ならば、母親はできないことをコノミに見せていなかったが、印象は父親の方が強いのだから。

 あの二人は今も、旅の最中。お互いがお互いの後継者を探す旅。それ以上はまだ聞いていないが、少なくともコノミはその後継者に選ばれることはなかった。両親に言わせれば、不可能だと――適性がないと。

 つまり、二人が継ごうとしているのは〝そういう〟ものなのだ。技術や思考など、成長可能なものは完全に度外視して、適性の二文字だけを所持していれば、たったそれだけで全てが継承できる、そういう歪で、厄介なもの。母親なんかは笑って、適性がなくて本当に良かった、なんてことを、本心から伝えてきたのだから、当時はともかくも、今はまあ、納得できなくもない。

 なんだ、帰る家もないのにホームシックかと思えば、目が覚める。今逢ったところで、未だ届かないのは自覚しているのに。逢ってどうすると問われても、答える言葉を持っていないのに。

 躰をゆっくりと起こして、テーブルにある自動巻き腕時計を見れば、六時を回っていた。ジャケットのポケットに手を入れて探せば、小瓶が指先に当たり、コルクを抜いてから軽く匂いを嗅いで、ほとんど香りづけがないことを確認してから、一気に飲む。

 口の中に苦みが広がった。舌を刺すような感覚に顔をしかめつつも、吐き出すようなことはせずに飲み込む。本来なら味付けを前提にしそうな薬だが、もっと甘くしろと文句を言うほど子供ではない。

 子供ではない。だが、大人でもない。

 らしくない、妙なところで思考もまた、ぐるぐると回っている。こんな時は躰を動かしたいところだが――病み上がりには、少しばかり過ぎた望みか。

 ともかく今日は大人しくしておこう。そんな休息日がたまにあっても、まあ、良いんじゃないかと思って、夜明けの空を見るために、再びコノミは仰向けに寝転がった。


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