04/24/14:00――コノミ・断れない約束

 肉体的な疲労は、ほとんどない。

 酒を飲んで気分転換したこともあるが、そもそもコノミ・タマモという人間は、躰に疲労を蓄積させることを避けるようにできている。一時的な疲労の抜き方、あるいは疲労そのものを躰から外に出す方法、それらを効率的に行える躰の造り方――そうしたものを、自覚すらない幼少期に叩き込まれていた。それは言うなれば英才教育なのだろうけれど、経験に基づいた〝理屈〟から成るもので、決して軍人の訓練などで育まれるものとは違う。

 だから住居に足を向けた時も、万全であった。思えば嘘でも、疲れた様子でも見せておくべきだったのかもしれない。庭で槍を手にして待機しているオボロ・ロンデナンドに一声かけて中に入ろうとすれば、扉が開いて出てきたのはクズハである。買い物にでも出かけるのかと思えば。

「あ、おかあさんがね? オボロと一緒に王城へ行けって言ってたよ」

 などと言われた。昨日の今日というより、さっきの今だ。悪い予感ばかり当たるのは、一体どういうわけだ。

「カイドウはどうした」

「うちにはいないよ?」

 なんだそれはとため息を一つ。オボロに聞いても、何も知らないとのこと。いくつかの考えを巡らせながらも、トンボ返りにはなったが、再び王城へと向かう。

「コノミ殿は、不満ではないのですか?」

「私が? 不満があるならミヤコさんに言うさ。どうせ、その辺りも〝込み〟で私にも行くよう指示したんだろうしな」

 結局のところ、コノミが断らないのも織り込み済みなのだ。

「オボロ、こっちの生活はどうだ?」

「楽しく過ごさせていただいてます。こと鍛錬において、こうも新しい発見といいますか、着眼点の違いによって、多くのものが明確になって行くような現実を、一つ一つ確認しているような状況でしょうか」

「それが〝理屈〟を追い求める結果じゃなけりゃ、それでいいとは思うけどな」

 おそらく、今まではほぼ無意識に行ってきた戦闘行動が、意識的に見た場合における理由が明確になっていくのだろう。槍で突く、ただその動作だけでも、多くの種類があって、その内の何個を自分が習得していて、していないのかを、今は区別している最中か。コノミの場合は、最初がそこで、経験が次だったけれど、オボロは出来上がっていたものを崩していく。

「ただ、時間の使い方が難しいと、そう感じることもあります」

「割り切って、のんびりすりゃいい。かつては何してたんだ?」

「本を読んだり、ですね。しかし、言うなればそれは、休むことを強制されていたわけでして」

「過ぎて倒れろよオボロ」

「――カイドウ殿とは逆のことを言うのですね」

「野郎の言いそうなことくらいはわかるさ。休める時に休め、今と過去の生活を比較するな――どんな助言も、人に合う合わないはあるだろうけどな、一度でもぶっ倒れて経験した〝限界〟は、誰だって同じだ。きちんと受け止めて境界を把握すればな」

「コノミ殿もそうやって限界を見ましたか?」

「いいや、それ以前に気付くのが〝普通〟ってやつだろ。無防備なところを晒す相手は、これでも選ぶようにしてるんでね」

 そんな、適当な世間話をしながら王城へ向かう。

 しかし我ながら、面倒な生き方をしているとは思う。これについては自覚がある。意識するものも、無意識なものも、きっとそれは父親の影響であろう。娘として近くにいたところで、その全容はぼんやりとすら掴めていないし、連れ合いである母親だとて、苦笑しながら両手を上げるくらいだ。そんな人間を参考にすれば、こうなってしまうのは必然。つまり文句は親父に言うしかない。

 さて――今回のことで問題にすべきは、まず、どちらが先かということ。つまり、こちらが請うたのか、それともあちらから頼まれたのか、だ。実際に交渉をしたのはミヤコになるので、こちらの関与するところではないが、いずれにせよ態度を決めるためには、明確にしておいた方が、あとで楽になる。やることが変わらなくても、だ。

 王城の入り口は、オボロの顔パスで済んだ。コノミの姿を見かけたことはあっても、たった一度ですら門をくぐったことはないので、さすがに覚えられてはいない。

「コノミ殿は、何度かこちらへ?」

「いや、門をくぐったのは初めてだ。ここの住人の大半はそうだろ。大半が旅人や冒険者くらいなもんだ」

「そんなものでありますか……」

「住人一人ずつが顔を見せるようじゃ、業務が滞るばっかだろ。だからこそ、何かしらの理由があって王城に行けるのなら、望んで参加もするはずだ。つまり今回のことは、運が良かったと思っておけば間違いない」

「しかし――コノミ殿は、ここの住人ではないでしょう?」

「はは、確かにその通りだ」

 おう、と横から声がかけられた。腕を組みながら庭を見ていたカイドウ・リエールがこちらの姿に気づき、近づいてくる。

「なんだ、コノミも来たのかよ。いつ戻った?」

「午前中には。来たのは、ミヤコさんの命令だ」

「俺の方は直接本人が、何もしなくていいから連れて行けってな。俺は保護者じゃねえと言ったら、それくらいしかできることはない、なんて太鼓判が押された。リクイスにも逢いたかったから、まあいいかと」

「そこで納得するのが、お前らしいな」

「うるせえ。つーか……コノミ、初めてだったよな、確か」

「一応そうなるな」

 なんだその反応は、なんて言われるが返答せず、そのまま謁見の間へ。強い水気を感じながらも顔には出さず近づけば、玉座に腰を下ろしているのはワイズであり、その隣にいたリクイスが、目を丸くして驚いていた。

「よっ、リクイス。ワイズさんも、久しぶり。ミヤコさんに言われて来たよ。正式に、じゃなく、プライベイトって感じでいいのか?」

「お久しぶりです、カイドウさん。オボロさんは数日ぶりですね、以前とは違って正式な謁見ではありませんから、どうぞ気を緩めてください」

「は、ご配慮ありがとうございます、リクイス殿」

 ため息が、一つ。

 コノミは両手を軽く広げ、ワイズの笑顔に負けたことを認める。何もいわず、どこか嬉しそうに微笑まれれば、こちらから手を明かすしかない。それだけの貫録があるし、度量もあるのだ、このワイズ・ウェパードという男は。

 カイドウが振り向くけれど、無視して一歩前へ。

「――まずは、久しぶりだな、ワイズさん」

「ええ、確か五年ぶりになりますか」

 そのくらいだと返答すれば、リクイスは驚いたように横にいるワイズへ向く。

「おじい様、コノミ姉さんとはお知り合いだったのですか?」

「ん? 姉さん?」

「あ、失礼しました」

「失礼じゃねえよリクイス、それでいい。プライベイトで、たまには食事をするような間柄だってことだ。私に限った話じゃない。ついでに言えば、その五年前は、正式な顔合わせじゃないからな。表向きは知られていない。知っているとしたら、現団長とワイズさんくらいなものね」

「そうだったのですか……」

「初耳だぜ、おい」

「調べてないことへの不満なら、私じゃなくて己にしとけよ。ワイズさん、確認だ」

「はい。その団長からのお誘いですよ、コノミさん。それとオボロくん、お二人に。話し合いの結果、双方の利害が一致しただけで、理由も責任も双方にあるとご理解ください。言うなればお二方は招かれた客――となれば、招かれた場のルールを許容するしかないと、選択を狭められたような錯覚にも陥ることでしょう」

 これだ。

 こちらは、確認だとしか言っていないのに、コノミという人間をよく理解した上で、疑問に思っているだろうことの説明をしてくれる。かつてもそうだった――あまり話さない人だと勘違いしていたこともあったけれど、それは観察や場の流れを見定めるための時間なのだ。

「ただし、カイドウくんは加わらないこと――同時に、騎士団全員を相手にする訓練ではありません。おそらく我が国の騎士団、その錬度が気になっているだろうオボロくんへの訓練、そして団長自らのコノミさんへの訓練、そういったところで落ち着きました」

「私のメリットがないな」

「かつての雪辱が晴らせるとしても、ですか?」

「……諒解だ、ワイズさん」

 メリットがなくとも、かつての話題を持ち出されたのならばそれは、既に取り付けられたいた約束なのだろう。おそらくは、父親と団長との間で。

「カイドウ、質問はあとだ。訓練場に向かえばいいんだな? これ以上、ワイズさんと話していて、黙っていたことが露呈するのは避けたい」

「ははは、全てを理解しているわけではありませんよ、コノミさん。次に逢う時は二人……いえ、リクイスも一緒に三人で」

「そうしてくれ。それとリクイス」

「はい。あの件に関してはちょうど今、話していたところです。対応の詳細をお伝えしましょうか?」

「乗りかかった船だ、内容によっては私に振っても構わない」

「わかりました」

 釈然としねえ、と呟いたカイドウは、あとで合流すると言ってその場に留まった。一礼したオボロを連れて、王城内部の訓練場へと向かう。

「訓練場は個人訓練、あっても部隊訓練くらいなものだ。こっちじゃ、大部隊の行軍訓練などは、ほとんど行われない」

「あくまでも秘密裏に――ですか?」

「馬鹿、そもそも大部隊を指揮しなくちゃいけねえ状況を、国王が上手く避け続けてるってことだ」

「これは失礼しました」

 訓練場の控室を開けるが、中には誰もいない。周囲に散らばった武具は消耗品で、刃がついていないものもある。それらを横目に更に扉を開けば、外周がおおよそ二百メートルほどはある訓練場に出た。外壁は三メートルほど、その上には観覧のための椅子が並んでおり、地面は土だ。コノミにとっては、五年ぶりの場である。

 そうして、近くのベンチで談笑していた二人の男が立ち上がり、こちらへ来た。一人は副団長のファル、そして。

「おお、久しぶりだなあコノミ!」

 大きな声に、大きな体躯。顎にたくわえた髭を撫でながらこちらを見たかと思えば、笑いながら肩を叩こうとしたので、ひらりと回避。

「なんだ避けるな」

「あんたは力の加減を知らないから、軽く叩かれても痛いんだって、以前にも言っただろ」

「はっはっは! 変わらないなあ、おい! いや、五年もすりゃガキも女になるってもんだが、まだまだ、小娘のまんまだなあ! どうだファル、おい」

「おいって言われてもな。ファルイデラ・ケーニッヒだ、ファルでいい。一応、副団長をしている。握手は必要か?」

「力の加減を知っているのならな。コノミ・タマモだ」

 軽く握手を一度、挨拶はそれで済む。

「どうだコノミ、ファルは」

「ん……いや、言明は避ける。積み重ねてきた時間ってのは、そう簡単に見抜けやしねえって、私はよく知ってるからね。で? 団長、オボロへの挨拶はどうした」

「おお、忘れていたな、すまんすまん」

「――オボロ・ロンデナンドであります、サー!」

「元気でいいなあ、小僧。ははは、俺はウェパード王国軍騎士団長、マーク・ゼネットだ。いやしかし、話には聞いていたが、槍の扱いに関しちゃなかなかのモンらしいじゃないか」

「恐縮であります、ゼネット殿」

「団長、でいいぞ。さてコノミ」

「ああ……親父から何か、聞いてんのか」

「おう。こっちに住むようになったら、お前は一人前だと言っていた。そうなってからもう一年くらいになる――俺としては、随分と待ち遠しかった楽しみだが、そろそろいいだろうと思って、呼んだわけだ。ミヤコさんにも言われちまったしな」

「なるほどね……大きくは、予想していた通りだ」

「ってことだ。本当ならファルもオボロも一緒にかかって来てもいいんだが――」

 そうだ。この男は、言葉通り、それだけの実力を有している。

「――俺の楽しみだ、手ぇ出すなよ」

「出さないっての……ついでに言えば、騎士団の業務も、俺の手がいらないくらいに、こっちに常駐して欲しいんだけどな」

「そいつはお前の仕事だろうが」

「団長の仕事でしょうが……」

「つーか、なあコノミ、オボロの前で聞くのもなんだが、お前は〝本気〟になれるように、ちゃんとなったのか?」

「……返事は、しねえよ」

 オボロがいるからではない。それはすぐにわかることだ。

 そして――かつてと同様に、コノミは本気になれない。理解はしていて、理屈に納得はしていても、それが訓練である以上、相手を傷つけることを極力避けてしまう。そのためには追い詰めなくてはならないが、であれば逃走や回避に全力を尽くす。相手を倒すだけが戦闘の終わりでないことを知っているコノミが、先にある落としどころを作ることすらある。

 そうやって、曖昧に誤魔化し続けるのだ。オボロとやった時もそう――ミヤコは、コノミのその本質がどうなっているのかを確かめたかったのだろうけれど、やはり変わっていなかった。自分が傷ついても、相手を傷つけようとはしない。もちろん、それは〝できない〟のとは違うのだが。

「仕方ないね――」

 やるしかないのは、わかっている。納得もしている。だが、それを指示した父親の意図が見えてこない。今この時になって、マークを倒すことができればいいのか、それとも善戦した結果として問題点が新たに発覚するのか。

「――対応を見られたくはないが、そうも言ってられないか」

 ふらふらと歩いて距離を取り、振り向く。

「いいぜ、やろう」

「おう」

 マークもまた、ゆっくりとした動作で距離を空けると、腰にある大剣に手を伸ばす。本来ならば背負うことで扱うバスターソードだが、二メートル近い背丈を持つマークは、それを腰に提げていた。引き抜かれた剣は肉厚であり、鋭利。幅は二十センチ強という、凶悪な得物だ。厚みも四センチはあるだろう。コノミにとっては、あまり相手にしたことがない手合いでもある。

 左肩を突き出すようにした半身になり、両手で柄を握り、大剣の切っ先は後方へ。その姿勢だと、横に薙ぐのが一番早い行動になるし、どちらかといえば一度振り上げなければならない。

 かつてと同じ構え。そして、すぐに発生される威圧感――腹筋に力を入れるようにしてそれを受ければ、オボロが驚いたように、包みに入ったままの槍を構えたのが視界の端に映る。視線だけは逸らさないコノミは、左手をポケットに入れたままの自然体だ。

 そのまま、空気を押しのけるようにして巨体が動く。かつては母親の、今ではミヤコの速度をこの目にして、体験しているコノミにとっては、さほど速い動きではない。それはマークが加減していることも一因だが、ゆっくりとした動きそれ自体から、攻撃の種類を見極めるのは、それほど困難ではなかった。きっとオボロの目には、マークは一人にしか見えないだろう。

 だが、威圧感がいけない。

 ただの威圧ではないのだ。これは、マークが得意とする〝領域〟なのである。それにひとたび飲み込まれれば、手も足も出なくなる。いわゆる、相手の雰囲気に呑み込まれてしまう。何をしようとも裏目に出るならば不運を嘆きたくもなり、理由を探りたくもなるのだが、しかし、ただ圧倒され、見えていても〝避けられない〟攻撃が、現実になるのだ。

 かつては、これに対処しようとして、己の領域を広げることで――つまり、威圧に威圧をぶつけてもがいたコノミだが、マークの領域は柔らかく、そして強い。年齢に裏打ちされた経験が、子供を相手に遊ぶよう、軽くいなされる。

 肩の上まで持ち上げられた大剣が振り下ろしの動作に入るまで、コノミはきちんと視線で捉えていた。以前と違うのは、まったくもって焦りが浮かばないことと――相手の領域に呑み込まれた時の対処が、自分の中にあることだ。

 威圧に威圧では、負ける。それは当然だった。何故ならば、コノミ自身がマークのような戦闘を得意としないからだ。得手ではないことで、相手の得手と対しようなどと、理屈からして完全にアウト。相手の領域でさえ、なお有利に働くような、己の得手で対するしかないのである。

 衝撃波ソニックすらまとった一撃を回避しながら、オボロたちには見えない位置で右手が懐のナイフを引き抜く。いや、回避ではないか。

 受け流し――だ。

 もちろん、手で触れたりはしていないのだから、それは回避行動だけれど、受け流したのは攻撃を含めたマークの〝領域〟である。

 縦の斬戟をコノミから見て左側へ回避し、振り下ろしを壁にしつつ、右手は左の脇下付近からナイフを抜いたのだが、果たして彼らに見えたかどうかは、微妙なところだ。マークには視認されており、ぴたりと地面に振れる前に止まった大剣を、右足で叩くように外側へ移動させるが、抵抗はなし。むしろそれを助走にしたかのよう、振り戻しがあった。

 地面に伏せるよう、思い切り低姿勢になれば、ジャケットの裾がふわりと浮かび、大剣が布先をこする――いつしかポケットから抜いていた左手が拳銃を掴み、大剣が通り過ぎた瞬間に速射。

 だが、どういうわけか、そのタイミングであったのにも関わらず、二歩ほど後退しながら、マークはあろうことか、大剣を縦に構えるようにして防御した。速射の三発は肩狙い、それをどう感じたのかは知らないが、大剣の上から出たマークの目は、こちらを捉えて逃がさない。

 受け止められたのか、受けざるをえなかったのか――七分三分で負けだろう。結果としては、受けてやった、というのが現実だろう。しかし距離を取る選択をさせたのは、仕切りなおせるので良かったと、それなりに前向きな感想を抱きながら拳銃を戻し、けれど左手は出したまま、前傾姿勢を取る。

 後ろにした左足が踏み込みのための力を入れ、同じ力で右足の力が後ろ側へ。躰が波打つような動きはフェイク、これに〝踏み込み〟で対処する熟練者は多いが、冷静過ぎるマークは微動だにしなかった。

 これは想定済みである。

 騎士団長であるマークは、護ることに信念を置いた人間だ。展開される威圧の領域ですら、その領域の背後を護るためのもの。ただし、その上で一騎打ち――対一戦闘に特化している部分がある。それらは、団長という立場から培われた戦闘技術だ。それが悪いなんて言えない、そもそもコノミはマークには勝てていないのだから、批判などするものか。

 それでも、立場が理解できる今ならば、その対応を想定することはできるのだ。

 大剣を防御で構えた姿勢、おそらくフェイクを見抜いたマークは、だからこそ対応に一瞬の逡巡が生まれた。だから――左手首の袖口から放たれた、地面から跳ね上がるような軌跡を描く投擲専用スローイングナイフを、目の前に出現してからではないと視認できない。

 一瞬の硬直だ。驚き、とも取れる認識。しかし、マークほどの熟練者なら、目の前に見えてから動くこともできる。コノミが狙ったのは、その〝動き〟の選択だ。つまり、硬直それ自体を隙だとは見ない。その後に、マークがどうするかを見定める。

 選択は回避だった。

「――」

 僅かに躰を捻るようにして、目の前のナイフを避ける。

 ここにきて。

 ようやく。

 初めて、マークの視線が一瞬とはいえ、コノミから切れた。その瞬間に威圧感は膨れ上がり、呼吸が困難になるほどの警戒が周囲へと放たれる。コノミはその間、動かない。

 動けないのではなく、動かない。おそらくコノミの父親ならば、その瞬間的な隙ですべてを終わらすこともできるだろうが、この警戒の中をどう動こうとも、マークに把握されるだろうことは、やってみるまでもなく、わかりきっている結果だ。それでも、コノミとしては、最大級とは言わずとも、それに限りなく近い警戒を引き出せたこと。そして、その中でも自分は動けるのだという確信を抱けたことが、充分な収穫だった。

 この状況を簡単に一言で済ませるなら、マークが油断した、だ。たったそれだけの状況を引き出すのに、戦闘開始からここまでの流れを作ったと考えれば、やれやれ、かなりの労力である。

 ――術式を使わない、という不文律があるわけでもないが、コノミは使う気がない。以前もそうだった。いや、以前の場合は使用回数に制限があって、使えば後がないほどだったのだけれど、今はそうでもないが、それでもだ。

 オボロの気配がある。ファルもいる。カイドウはまだ来ていないのか、雑味はない。

 手の内は隠したいが、ことマークが相手ともなれば、それは無意味だろう。戦闘では第三者の視点を気にして、対策を練られることを避けろと教わってはいるが――状況によりけり、だ。

 隠していては、訓練にもならない。

 剣先を下げたマークに、今度はコノミが踏み込んだ。その先手に対し、牽制の意味合いを持つ十字斬り――斬戟を〝飛ばす〟なんて武術家じみた真似をこの男は行うが、そんなものは見飽きたほどに、今までコノミは食らってきた。であれば、その機先を封じる。

 金属がぶつかり合う音はなかった。しかし、コノミの右手に持ったナイフが、十字斬りの初動である、横薙ぎの一撃を止めている。そして、左のブーツから抜いたもう一本の大振りナイフが、左手に握られていた。

「……」

 視線が合う。

 力で止めているわけではない。コノミは女だ、腕力ならばオボロよりも劣ることを自覚している。ただ、力にも乗せ方があり、状況的には力が伝えにくい行動もあるのだ。そのわずかな刹那の隙間を狙う。力ではなく、女性が得意とするしなやかさ、柔らかさ、それらを使った瞬発力で。もちろん、それだけではなく、直立に限りなく近いような姿勢だが、コノミの体重は右側にかけられている。けれど、剣を引かれても姿勢が崩れないよう、絶妙な力加減で、しかも剣を止められるだけの力をかけて。

 左手のナイフがくるりと回り、逆手に持ち替わった。視線を合わせながらも、余裕を演出してやるのは、マークの次なる動きを誘うためでもあったが、やはり動かない。こういうところは、経験だろう。仮に左手が拳銃を握っていたところで、違う対処になっただけで、もしかしたら剣を止められなかった可能性もある。たらればの考えはこの際、無意味だ。

 さて――この均衡をどうするか。

 両手で構えたマークが不利と捉えたのならば、それは二流の目利きだ。右手を封じられているコノミが不利であるし、そもそもマークは両手が封じられていない。つまり、受け止めるために片手を使ってしまい、かつ、絶妙な力加減で均衡を演出しているコノミの方こそ、次なる行動に制限がかかってしまうのだ。

 マークの選択は、引くのではなく、構わずそのまま力任せに振り払う――だった。

 その兆候が見てとれた瞬間、両足が地面を蹴る。力加減を操作し、右のナイフが折られないよう、刃物と刃物の触れ合う場所を支点にして、くるりと斬戟そのものを舞うように回避した。のんびりとした動作ではない、どちらかといえば浮き上がって落下するような動きに限りなく近く、ともすれば浮いた姿が視認できたかどうかすら、怪しい速度だ。

 引かない、つまり退かないだろうことは、これも予想できていた。だから下ではなく、上での回避を選択した――しゃがめば視界が狭まる、きっと今のように踏み込みを赦してはもらえなかっただろうから。

 踏み込みざまに、蛇のようにうねった両腕が三度の斬戟を放つが、大剣を縦にして防がれる。この素早さには、ほとほと参る話であるが、防御に追い込めた。ようやく退くことで間合いを取ろうとするが、瞬発力で間合いを詰めて先手を取り続ける――が。

 それも二度まで。

 つまり、攻撃が許されたのはおおよそ七度だけ。

 三度目はなかったのだ。目の前に、いや、やや下の首元に、大剣の切っ先が向けられたから。

 このマークという男は――巨体で、オボロよりも強い力を持ちながらも、あろうことか、コノミよりも速い瞬発力を見せて、身を一度引いて間合いを取ったかと思えば、大剣の切っ先を喉元へ向け、そして。

 死の匂いがした。

 マークの躰には、既に〝溜め〟がある。初動はない、コンマ数秒先の死が現実になることは、疑いようがなかった。

 死ぬ――?

 否定があった。否だ、それは嫌だという感情ではなく、頭からの否定。ここだろうが、どこだろうが、コノミは死を拒絶する。

 お前は。

 ――お前は、一人で生きられると、太鼓判を押されたのだ。

 スイッチが、かちりと、落ちる。

 入ったのではない、落ちたのだ。

「団長!!」

 ファルの叫びが、半自動的な行動の理性に届いた。それはたぶん、二人ともに。

 聞こえた瞬間に、マークが全身から力を一気に抜いた。コンマ数秒先の未来を否定したのはマークも同じ、それよりも早く弛緩した結果、ゆるりと大剣の切っ先が地面へと落ちる。

 それよりも、先に。

 コノミが持っていたナイフが二つ、地面に落ちた。ぎりぎりの理性が、手にしたナイフを捨てることで、攻撃の意志だけを地に落としたのだ。

 波紋だった。

 大きな波紋が立つ。

 コノミの姿が、水辺に映った虚像のように波打ったかと思えば、それはマークの目の前で、落ちたナイフだけを残して、消えた。いくら全身から力を抜いたとはいえ、戦闘の余韻は未だそこに残る――間違いなく三秒間、マークはコノミの気配を見失った。

 ため息は背後から。

 コノミは、無防備とも思える背中を見て、そして。

「助かった。――副団長、良い仕事だ。酒は団長から奢ってもらえ」

 訓練は終わり、だ。

「む……まあ、それくらいはいいか。コノミ、次にやる時は俺も甲冑が必要だな」

「――次にやる時があるとすれば」

 たぶん、それはきっと、訪れないだろうと思いながら、コノミはナイフを拾って右手に両方持つ。

「そいつは、団長が敵になった時だ」

「ははは!」

 笑いごとじゃないんだけどなと、そのままコノミは控室へ向かった。観覧席側に顔を見せたカイドウに左手を挙げて挨拶だけしておく。

 誰も追ってはこない。察してくれて助かると、控室に入って一人になったコノミは、両方のナイフをしまってから、備え付けの古びたベンチに腰を下ろし、天井を仰いで両足を投げだす。

 ――そうして、一気に全身から汗が溢れ出し、視界がぐるりと回る。とっさに瞳を閉じれば、瞼の裏が赤と黒に点滅していた。

 クソッタレ、なんて毒づく余裕すらない。意識して呼吸だけは安定させているが、魔力を消費し過ぎた。枯渇とまでは言わないものの、限りなくそれに近い。もしここが戦場で、アレをもう一度使うことになったら、命が削られるか、腕の一本でも動かなくなるかもしれないくらいの疲労だ。

 最終ラインの、最後のスイッチ。〝残影シェイド〟の術式を使った、相手を必ず殺せるよう突き詰めた技。瞬間的にとはいえ、コノミはおそらく世界から認識されなくなる――いや、それは言いすぎか。

 造り出したもう一人の影であるコノミこそ、本物であると世界に誤認させ、本体は自由に動くことが可能な、技だ。死を意識して、その上で更にスイッチを落とさなければ使わないと決めた、二重の安全装置セイフティがかけられた先に、それはある。一度だけ父親に見せて、その危険性を一晩にわたって聞かされた、多用できない術式だ。

 お蔭で、使わなくて済むように状況を動かす技術を身に着けたが、さすがにマークのような相手では、それも難しく、それだけコノミがまだ未熟だったというだけの話だ。

 胃から逆流してくる何かを、強引に呑み込む。全身の血液が循環するイメージに意識を向け、己の呼吸をそれに同調させる。

 ウェパード王国の騎士団長、マーク・ゼネット。

 あまりやりたくない手合いだと、一度も対峙せずにそう言っていた父親の目利きは、本物だ。

 いや。

 本物なのは、マークの実力そのものか。


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