04/20/13:40――コノミ・湖服の行

 ジャケットとズボンを脱げば、下は躰に張り付くような黒色のボディスーツだ。リンドウ・リエールが使っているものと酷似しており、つけている理由も身動きを第一とするためのものと、理由も似ているが、実際には父親であるところのコウノ・朝霧が昔に着用していたものを進められた形になっている。ボディラインが見えるので、下着のような扱いだが、胸のふくらみも母親に似て小さいし、これからの成長に期待したいところだが、今のところそれほどの恥ずかしさはない。誰かに見られていなければ尚更だ。

 今まで、水を使った修行はしたことがなかったと思いながら、足の指先からゆるい流れの川の中へ入っていく。手前は深さが、ちょうど膝上くらいだと知っているので問題はない。ここではよく遊んでいたし、家のシャワーよりも水浴びで汚れを落とす方がコノミにとっては気楽だった。

 腹部には鈍痛があるけれど、表情には決して出さない。強い打撲で済んだのはコノミの回避行動が最低限発揮された結果であり、下手をすれば貫かれていただろう。最後の一手で、オボロが目を瞑ってからの突きが当たった結果だ。当たったというよりは、掠ったに近く、それが穂先ではなかったからこその打撲である。

 未熟だなという自己評価は、母親の口癖でもあった。それは紛れもない事実であり、そんなことは自覚し続けている。何しろここ一年であっても、傍にカイドウがいたのだから、意識せざるを得ない――と。

 人の気配を感じて、ほぼ無意識に伸びた左手が脱いだ服の中にある拳銃に伸びる。それを掴んだ直後。

「僕だよ」

 声がかかって、引き金トリガーから指が抜けた。しかし握ったまま、声のした方を見て五秒、リンドウ・リエールが外套を羽織った服装で姿を見せる。そこでようやく、服の下から手を抜いた。

「リンドウさん、隠れて近づくなんて冗談が過ぎる。覗き見に関しては、私が気付かなかった時点で文句は言えないけどね」

「隠れていても気付かれたから、お相子にしておこう。コノミにも、オボロにも興味があったから、立ち合いを見させてもらったよ」

「だったら対価くらいは払ってくれるんだろう?」

 意地悪く言いながら足だけ川につけた状態で腰を下ろせば、木を背もたれにしたリンドウは苦笑していた。

「コウノからね」

「親父が?」

「そう。コノミの〝残影シェイド〟には欠点があるから、気を付けるように言われていてね」

「それが親心なら、素直に受け取っておくべきなんだろうな。こっちも親父から聞いてる。リンドウさんに対して、それが術式のことなら、隠すだけ無駄だってな」

「過大評価だな、それは」

「私は、無駄だからやらないって意味じゃないと、そう受け取った。ついでに言えば、欠点に関しては重重承知してる。アドバイスでもくれるっていうんなら、頭を下げて頼むところだけど?」

「やれやれ……」

 皮肉じみた物言いだが、リンドウには正しく、これは誰かが解決するものではなく自分でやるものだと、そういう意図が伝わっている。婉曲した伝え方は、もうコノミにとって癖に近い。

「傷は?」

「身動きを見て問題があるようなら、私もそこで終わりだね」

「もう少し甘えてくれると、僕たちとしても助かるんだけど……」

「悪いな、甘えるのはお袋がとっくの昔に先行予約してる」

「うん、姉さんの役目を奪うと後で非常に面倒だから、よしておこう。聞かなかったことにしてくれ」

「そうするさ。私としても、一人で生きて行けるなんて微塵も思っちゃいないから、安心してくれ。見せる相手には、こうやって弱味を見せることもある」

「わかりにくいけれどね」

「あえて見せたいと思ったこともないね。で?」

「ん、ああ……君の対応が、さすがだと思ってね」

「そうか」

 褒められるようなことじゃないと、コノミは重石代わりにしていたナイフを引き寄せ、欠けていないかどうか確認しながら、気のない返事をする。

 オボロとやれ、といったミヤコの意図を推察するのに必要な時間は、会話を引き延ばしたぶんだけ。その上で、コノミはミヤコが対峙した時以外の何かを引き出した。それはつまり、対峙したコノミだけではなく、観客に対してのサーヴィスでもあった。それをリンドウは褒めているのである。

「ただ――」

「なんだよ」

「――〝本気〟はまったく出していなかったみたいだけど」

「いいだろ、最初の一発は術式を使ったんだ。そのくらいで納得してくれ」

 残影、と呼ばれる術式が、コノミが得意とする――魔術特性センスだ。影を残す、それは分裂に限りなく近い現象を引き起こすことができる。オボロの目にどう映っていたかは知らないが、それは本当に最初の一手だけで、それ以降は使っていない。ちなみに分裂した二つは〝自己〟であり、違う動作も可能だが、今回は作っただけで消した。それ以上を見せるつもりがなかったからだ。

「どこまで使えるのか、見せるつもりはないんだね」

「リンドウさんに? 冗談だろ。切り札エースは隠し通したいもんだ」

「それを切っても、コノミには鬼札ジョーカーがありそうなものだけれどね。付け加えれば、騙しイカサマも」

一か八かギャンブルはしねえよ」

「はは、そうだったね。――オボロは、どうかな」

「曖昧な物言いだな」

「だったらこう言い換えよう。武術家になれると思うか?」

「そいつは簡単だ」

「そうかな」

「そうだろ。身近にありすぎて見えてないのか? 武術家なんてものは、なれると思ってなるもんじゃない」

「だろうね」

「だが――なろうと、そう思って一歩でも前へ足を進める限り、そいつは武術家だ。どんなヘボだろうがヘタレだろうが、その意志があれば、それだけでいい。ただし、自分が武術家であることを他者に誇らなければ、だが」

「――そんなもの、かな?」

「少なくとも、それがお袋を見てきた私の見解だ。オボロがどうしようが関係がない……と、言い切るには、縁もできてるけどな。面倒なことだ」

「そうか。ありがとうコノミ、邪魔をしたね」

「たまにの帰宅なんだ、付き合うさ。酒は安いのでいい、カクテルなら高いのにしてくれ」

「お互いに酒を交わすには、まだ十年は必要だよ、コノミ」

 つれないなと、冗談交じりに笑って、去っていくリンドウを眺めてから、ふうと吐息を落として改めて腰まで水に浸かる。

 その〝理屈〟は理解できた。

 湖服こふくの行が水の中で行われる鍛錬であり、境界を意識しつつも自己を水と同化させ、流れを感じるものであると。それは感覚的なものであり、身についた時の結果も想定できる。ただし、前提条件として、水との相性にもよるとつく。

 魔術に関連することを、父親は頑なに教えようとはしなかった。教えるべきではないと伝えられていたし、何故と疑問を抱いたところで、事情があるんだろう、なんて曖昧な結論しか抱けず、それは今でもそうだが、そのためにここへ厄介になることを承諾したのも、間違いではない。カイドウには気付かれていないようだが、書庫へは何度か立ち入って調べものをしているし、王国の城下町にもそれを理由に行く場合もある。けれど、だからといってリンドウに何かを教わることは、カイドウの領域に立ち入ってしまうようで、躊躇いがあったのだ。

 大きく、一呼吸。

 瞳を閉じれば一気に感覚が広がる。警戒ではなく、ほぼ無意識にすべての感覚が外側へ向いてしまうのだ。それを警戒と呼ぶのかもしれないが、探りを入れたりしているのではない。普段ならば視界で補っている部分がなくなったことから、視覚に傾倒していた領域が、ほかの感覚へ流し込まれた結果である。こうした感覚の配分は、戦場に入る前に、父親に鍛えられたため、今では無駄なく、それこそ流れる水のように、切り替わってしまう。

 だから、今度はそれを内側へと向ける。川の中にいる己は、流れそのものを遮っている異物だ。水の流れを感じたのならば、それを遮る己の躰を把握する。その境界線が明確になるまでゆっくりと意識を伸ばしてから、瞳を瞑った世界の中、更に暗い部分へと意識を動かす。

 コノミ・タマモの欠点は、魔力の貯蓄量が極端に少ないことにある。――いや、厳密には回復量と呼ぶべきなのか。

 魔術の世界において、魔力のことを語るには、よく湯船の話でたとえられる。

 大きく三種だ。まずは魔力容量、つまり湯船の大きさ。大きいほど良いわけではないけれど、少なくとも大きければそれだけ魔力を溜めることができる。次に魔力消費量、湯船から水を抜く、底にある栓の大きさ。最後に、魔力そのものを流し込む蛇口である。

 この三種のパターンは、人によって違う。栓が大きければ術式の行使において有利に働くことが多いし、蛇口が大きければ連続使用にも耐えられる。湯船の大きさは器そのものであるため、大きければ大きいだけ、汎用性が高くなるとも言われている。

 だが、コノミは湯船そのものは大きいのに、蛇口が小さい。そして栓が大きい。

 栓を抜く――術式を使えば、湯船からごっそりと水がなくなってしまう。その上、次に使おうと思っても、蛇口から滴る水は、なかなか湯船の中に溜まらない。解決策としては、栓を抜いても、すぐに閉じることくらいしか思いついてはいなかった。

 川の中にいるからか、今日はよくわかる。体内の魔力が波打つように流れを持っているかのようだ。

 今まで術式を使っていなかったこともあって、あれだけの行使では枯渇するようには思えない。使いすぎて自然回復量が追い付かないと、気を失って倒れるどころか、失命の危険性すらある。もちろん、命の危険なんて、魔術の行使そのものに付きまとうものなのだが――。

「――、と」

 危ない、と思って目を開き、片手を地面へ。やや浅い場所へ移動しようとして、ふと、視線を下へ向ける。

 今の感覚は、少しおかしかった。

 まるで流れる水に押しつぶされ、溺れるような感覚。そこに危険性を感じたために手をついて、目を開くことで現実を視認したのだが、状況そのものは何も変化がない。

 ――水が私を抜けて流れた?

 入れたままの左手を上げて、水をすくう。手のひらからすり抜けて落ちる水が、小さな飛沫を立てるが、流れの一部となって消えていった。

「……」

 常に術式を使いたい、という思いはない。だが、いざという時に使えないようでは話にならないとも思っている。だから〝蓄積ヘキサ〟の術式を利用した魔力を溜め込んだ宝石、魔術品を所持し、場合によってはそれを利用することで、己の中の魔力を回復させることも視野には入れている。だが、そういった魔術品はそもそも高価であるし、自分で作るには向かない。何故なら、器から溢れそうな魔力を蓄積しておくのが本来の術式であるため、器に少ない魔力を外部に移したところで、意味を持たないからだ。

 そうであるのなら、自然界の魔力を蓄積させればいいとも考えたが、あまりにも時間がかかりすぎる。大規模集積陣アトモスノーズでも作れば別だが、それは居を構えることにもなるし、何よりも目立つ。

 誤魔化しながら、騙しだまし――というのは、あまり性に合わない。だからといって、一朝一夕に革命的な何かが発見できるとも思ってはいなかった。陽が出ているとはいえ、長時間の入水はこの時期では厳しい。寒さを感じる前に出るのが得策と、川から上がって服をかきよせ、軽い跳躍で流れを遮る岩を三つ蹴って、先ほどまでリンドウのいた対岸に着地。だいたい十メートル前後の幅になっているので、一跳躍では難しい距離だ。

 タオルで躰を軽く拭ってから、素早く服を着る。左側のナイフはブーツに、右のナイフは左の脇下で先端が上を向くように。腰裏の拳銃は握りが上へ突き出るようにして、左側から抜けるようにベルトで巻く。その上からジャケットを羽織れば着替え終了だ。

 しばらく木にもたれかかって、薄く目を開けたままのんびりしていると、羽音が聞こえた。風を切る音色に、相手が隠す気がないのがわかって、僅かに苦笑する。目を開けて頭上を仰げば、大鷹が一匹、枝にとまってこちらを見下ろしていた。

「どうしたレグホン、ついに主人がくたばって契約が切れたか? 意趣返しなら私じゃなくて、親父にしてくれ」

「――ふん」

 ややくぐもったような男声。魔術による契約で長命が約束された使い魔、その主はリンドウの父親、ジェイセク・リエールだ。かつてはジェイと名乗っており、今でもそう呼ばれることを嫌ってはいないが、それでも〝J〟はリンドウに引き継がれたため、二番目の名前という意味合いの、セクをつけているとの話だ。そんなものか、程度の理解で構わないだろう。

「相変わらず口の悪いヤツだ」

「どっちもどっち、くらいだろ。私みたいな未熟者は、こうやって去勢でも張らないとやっていけないんだ」

「自然体でやっているコウノとは違うと、私に主張したところで現実は変わらん」

「それが私の欠点だと言いたいなら、自覚してることをいちいち指摘するな、だ」

「やれやれ、お主は可愛げがないな」

「リンドウさんやお袋と一緒にしないでくれ。――なにかあったか?」

「仕事だ」

「またお前は連絡係か、よくやるよ。頼んだ覚えもないんだけどね」

 レグホンは基本的に、ここを住居としている。といっても、結界内部の森の中だ。けれど限られた人物は、レグホンとコンタクトを取ることが可能で、たまにはこうして仕事を持ってくる。

「どれだ?」

「緑だ。内容は調達」

 それほど緊急ではない色合いだ。期限はせいぜい五日、くらいなものでしかない。

「受けるか?」

「レグホンが持ってくる仕事を、私が断ったこと、あったか?」

「ないから聞いている」

 上から降ってきた何かは、避けるまでもなく、コノミの足元へ落ちる。煙草が入った紙の包みだ。

「それは、私からの土産だ。仕事とは関係ない」

「そりゃどうも。気遣うような間柄じゃないと思っていたけどな。それで?」

「ジークロスの葉、マガツの羽、リリー宝水の調達。かご一杯で構わない、とのことだ」

「あのクソ女、また適当な量の発注を出しやがって……」

 立ち上がったコノミは煙草を懐にしまい、さて在庫はどの程度あったかと考えを巡らす。三種類とも、魔術素材の部類にはなるが、使い道としては治療用のものであり、依頼主は見知った王国お抱えの医者だ。といっても、王国勤務ではなく、街に医院も持っており、若いながらもそれなりに人気のある医者である。もちろん、相応の腕も持っているが。

 ジークロスの葉は、いわゆる塗り薬の調合に多く使われるものだ。多くといっても分量は少なく、一般の薬草に明確な比率で混ぜ込むと、効果が上がるといった素材の類である。マガツの羽は麻酔剤として扱われるもので、特定の鳥類が落とす羽を指す。リリーの宝水は調合などの基本素材、つまり純度の高い水を作るために必要な水。どれも治療の観点からでは、必要なものだ。

「依頼主はキリエだろ」

「うむ」

 少なくとも、コノミに仕事を回したのなら、定期ルートでの仕入れが滞ったか、予定よりも消費が多かったかの、どちらかだ。断ったところで彼女ならどうにかするだろうが、その中でも手っ取り早い手段が、コノミへの依頼だった――それが、いつもの流れだ。そこに違いがあるようには思えないし、内容そのものも、今までと変わりはない。

 ただ、いつもの流れだからといって、油断はしないし、常に違う流れは想定しておかなくてはならないが。

「引き受けたと伝えてくれ。報酬は手付じゃ足りないから、きちんと用意しておけと言っておけよ。いつもの仕入れの七掛けでいい」

「吹っかけんのか」

「七割なら、仲介料抜きの値段とそう変わらないからな。どうせ自前の足で探すなら、全額儲けみたいなものだ」

「そんなものか……」

「ついでだレグホン、クークに伝えておいてくれ。仕事が入ったから、荷物の引き取りはまた今度ってな」

「そのくらいなら構わんだろう。ではな」

 ばさりと、羽ばたきの音を耳にしながら、再び川を渡って戻る。腹部の痛みが少し気になったが、身動きができないほどではなし。明日になれば回復しているだろうと判断。そのまま裏口から家に入ると、台所へ向かった。

「クズハさん」

「ん――なあに、コノミ。どうかした?」

「しばらく空ける、仕事が入った。心配はしなくていい」

「心配はする」

 お茶を入れる手を止め、真顔で言われたため、いつものことだったが、コノミは視線を逸らして頭を掻く。こういうところは、自分の両親とまったく変わらない。

「諒解だ、生きて戻る。といっても、調達の仕事だからそう危険はない。十日も戻らないようなら、墓の準備を始めてくれ」

「ばぁか」

 ――さて、いつも通り仕事だ。難易度は低い、何しろウェパード王国の管轄内で素材はすべて揃えることができる。ただし、どの程度の数が確保できるかは問題だ。幼少期には、山でサバイバル訓練のようなものもしたし――その実情は戦闘訓練だったが――魔術素材を探すことにも慣れている。

 自室に戻り、あまり使わないメイキングされたベッドに一瞥を投げ、簡易的なクローゼットを開いて、中にあるリュックサックを手に取る。行軍用のものを昔に購入したもので、かつてはよくこれを背負って移動していた。子供であっても大人サイズのものを使わせるのはどうかと思ったのも、今では懐かしい思い出だ。

 リュックの中に金属ボトルを二本、頑丈なロープ、あとは目的地周辺の街で買えばいい。多少の必要経費は仕方のないことだ。身軽であることが信条ならば、可能な限りそうした方がいい。念のためと考えるのは必要だが、荷物を背負って足取りが遅くなるのは避けるべきだ。

 それがわかっているのならば、とっとと背負って家を出るべきだ。寝ぼけ眼のカイドウに発見されて、あれこれ質問されれば、無駄な時間を食うことになるし、連れて行けなんて言われれば足手まといが増える。仕事とはいえ、気分転換の旅行みたいなものだ。子供連れで楽しむような年齢でもない。

 ただし。

 外に出て流れる雲を見たコノミは、ランニングでもするように森を抜ける。

 ――明日は雨だ。

 街道に出たら馬車を拾って、ひとまずは宿を探した方が賢明そうだった。


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