04/20/07:00――オボロ・すれ違った騙り

 眠ることは、嫌いだ。

 睡眠欲求に対して抗うことは難しく、また人間にとって睡眠そのものを度外視して動き続けることはできない。であれば、オボロ・ロンデナンドという個人が眠ることは拒絶できない。そこにおける感情が、たぶん苦手の延長として、嫌悪が浮かぶのである。

 オボロの睡眠は常日頃から、浅い。見張りが立つような状況でも、銅鑼が鳴ればすぐに起きて応戦しなくてはならない戦場を長く渡ってきたのも原因だが、昔からそうだったようにも思う。こればかりは訓練で教わることもなく、戦場の中で培われた癖のようなものだろうけれど、短時間でも熟睡を繰り返すタイプが羨ましく思うこともあったくらいだ。

 睡眠時間そのものは、そこそこ長くなる。宿舎で共同生活を行っていた頃は、就寝時間が二十二時、起床時間が四時と定められていたので、その間は眠るしかなく、それは問題ではなかった。――いや、その頃は、というべきか。

 浅い睡眠の難点は、いつも夢を見ることだ。色彩を欠いた夢であっても、いつだって内容は悪夢である。亡くなった仲間や過酷な戦場、誰かに責められることもあれば、自分で責めることもある――そんな想い出から、死地の空想まで、悪夢の種類は多岐にわたる。

 すっきりした寝起きなど、記憶にある限り、体験したことがない。ふっつりと意識が切れるような深い眠りが、特定条件下で訪れたとしても、寝起きには必ず悪夢で起こされる。そんな毎日を繰り返しながらも、慣れることがないのだから、悪夢というのは厄介だ。

 ベッドで横になるのではなく、オボロはベッドを背もたれにして、必ず槍を抱くようにして眠る。悪夢を見て飛び起きても、槍を持っている自分を認識すれば、現実の情報を素早く取り入れることが可能だからだ。もちろん、警戒の意味合いもそこに含まれてはいるが。

 その日は、落ち着いて起きることができたのが、おおよそ七時だった。窓から外を見れば、カーテンの隙間から陽光が入り込んできており、朝の薄暗い雰囲気を越えたことは明らかで、脂汗を濡れたタオルで拭いて服装を整えてから、ようやく時計を見た。まだ朝の時間だったのは幸いだが、昨夜は本当に酷かった。何度夜中に目覚め、また眠ることを繰り返したのかもわからない。お蔭で疲労したんじゃないかと思えるほど悪夢を見て起きるの連続だったのだけれど、負傷を抱えた日はそんなものだと、諦めるくらいには慣れている。

 宿を取ったのは、とりあえず一日だけ。もしかしたら今夜も同じ宿にするかもしれないが、まだ確定ではない。というのも、長期滞在するかどうかもわからなかったし、個人的に宿を手配することにもまだ慣れておらず、決めかねていた。だから槍に麻袋を括り付け、ある程度の金を懐に入れると、外に出る前に振り返って部屋を見た。

 ベッドと、調度品はテーブルくらいなもので、浴室は別にある。二十畳はないだろう広い間取りだと思える宿泊施設は、比較のしようもないのだけれど、過ごしやすいとは思う。どちらかといえば、オボロの方が使い切れていなかった感じだ。

 部屋を出て階下へ行けば、そこは大衆食堂のようになっていた。席の埋まり具合は、さすがに満席とは言わないが、そこそこである。八割がたは旅人のようで、武装も見てとれれば、服装も身動きを重視したものだとわかった。少し違うが、同業者といったところか。

 ウェパード王国にくるまでに経由した街でも、こうして食堂と一緒になっている宿はいくつかあった。こちらの方が客入りが良いらしいことは推察できるし、オボロ個人としても助かる。食事処に足を踏み入れるのを迷うほど臆病ではないが、探さなくて良いのは楽だ。

 宿代は先払いしておいたので問題なく、朝食にパンとスープ、追加でサラダも頼み、料金を支払えば、そう時間をおかずに料理が出る。そのトレイを持って空席に腰を下ろせば、ウエイトレスが忘れていたと、水の入ったカップを持ってきてくれた。感謝を伝えてから、ものの三分ほどで、ぺろりと平らげてしまった。少し足りないくらいだが、それを埋めるのは外でいいだろう。

 お代わりの打診に断りを入れ、オボロは昨日にもらったウェパード王国の地図を広げた。

 すべての施設を午前中だけで巡ることは難しいだろう。昨日は結局、繁華街と呼ばれる中でも、露店街を軽く見て回った程度と、オトガイ商店の位置を確認したくらいだ。住宅街、工業区は手つかずだし、店舗持ちの商店なども見ていない。地図も面積そのものは区切ってあるが、それが何の施設なのかの記入がないので、全体図としてはわかりやすいが、検索には向きではなかった。もしかしたら、オリジナルは詳細が書き込まれているのかもしれない。

 どちらにせよ、ここは王国なのだ。長く見積もって――はて、長くとは一体どれくらいの時間だろうと考えながらも、まあ一ヶ月くらいは滞在してもいいのかなと、大まかに区切りをつけた。もちろん、必要があればそれ以上もありうるが、今のところはその程度の意識で良いだろうと自己完結しておく。

 昨日の手合せで、槍自体に損傷はない。一般的に槍がどのくらい出回っているのか、そしてオトガイが用意してくれるという槍はどんなものかは、確認しておいた方がいいのかもしれない。ここで生活する上で、ほかに調べておくことはあるかと考えていたら、テーブルにカップが一つ、置かれた。

 中身が珈琲であることを確認して、そのまま視線を上げれば、対面に。

 仏頂面、とでも呼べばいいのだろうか、オボロと似たようなカーゴパンツに、ポケットが四つはついているだろう革のジャケットを羽織った女性が、対面に同じく珈琲を手にして腰を下ろすところだった。髪は肩に触れるか否かといったくらいの長さで、左右を三つ編みにしておさげにしている。やや細い瞳だが顔は丸めで、両足を横に出して右の肘をテーブルに乗せるような態度だ。

「奢りだ、飲めよ」

「――ありがとう、コノミ殿」

 昨日逢った、そして一年半前に遭遇した、コノミ・タマモの言葉に応えたオボロは、どうすべきかを迷ってから、まずは珈琲に手を伸ばす。昨日に尾行の気配はなかった。傷を負っていたからといって、いや、だからこそ、張りつめていたオボロが尾行に気付かない可能性は低い。もちろん、こちらの警戒の網をくぐるだけの実力をコノミが有している可能性は度外視できないが、そこまで考えてしまっては疑心暗鬼になる。であれば、探りを入れたのか、あるいは虱潰しに宿を当たったのか、どちらかだ。仮に、あたりをつけていたとしても、後者では労力が大きすぎる――となれば。

「自分を探していたのでありますか?」

「旅人の行動はそれなりに目立つ。銅貨一枚でも上手く使えば、望みの情報は手に入るだけ、この国は人通りも多い。隠れていない相手なら尚更ね」

「そんなものですか」

「冗談だ、真に受けるな。お前を探していたのは、依頼を見回るついでだ」

「なるほど、そうでありましたか」

「その堅苦しい言葉遣いが癖じゃなけりゃやめてもいい」

「昔からこうですから、お気にせず。自分に用事でありますか?」

「昨日はろくに話せなかったからな――釘を刺すことも、ままならなかった」

「……昼に窺う予定でしたが、その時では駄目だった理由が、あるのですね」

「そういうことだ。私とカイドウは従兄妹で、あそこに私が住んで一年になるが、胸襟を開いてすべてを話しているわけじゃない。たとえば――あの時、お前と遭遇したこととかな」

「覚えています」

「忘れてりゃ、お互いに初対面で通せた。……ま、途中で思い出して面倒にならなかったと、前向きに捉えてもいい。けど、よく覚えていたな」

「あの時に行われた、遠距離からの精密狙撃と、コノミ殿の対応は、自分の中でも記憶に残るほど鮮烈なものでしたから」

「ありゃ――私の負けだろう、どう見ても」

「そうでしょうか。自分は見逃されたと、そう思ったものですが。現に自分は補給物資を抱えて逃走しました」

「お互いに見ているものが違えば、そうなるか。お前の目には、どこまで映った」

「それは、どういった意味でありますか?」

「どういう理屈かは、あえてはっきりさせてないが、予測ができるんだろう。昨日の戦闘では、試みたが上手くいかなかったようだけどね」

「……そこまで、わかるのですか」

「私と直接やってたのなら、ここまで深く掘り下げることはできなかっただろうな。圧倒的とも思える相手との手合せは、ただそれだけで己を裸にする結果になる。それがたとえ、観客に対してでもな。そのくらいのこと、理解していると思ってたけど?」

 確かに、その通りだ。特に上官との訓練であることの可愛がりでは、可能な限り第三者のいない場で行ってきたのは、そういう配慮でもあった。けれど、どこまで見抜けたなど、上官は一度も教えてはくれなかったように思う。

「当ててやろうか。お前にはあの時、私が〝三人〟に見えたんじゃないか?」

 肯定すべきかどうか、逡巡したが、しかし、ここは戦場ではない。それにコノミが敵であるわけでもなし――逡巡の時間は、敵になる可能性を考えた。

「自分に見えたのは二人までであります」

「だったらそれは、私の実力不足ってところだ」

「そうでしょうか」

 そうは思えない。まるで手の内のカードを半分しか切っていないような感じだ。慎重さというよりも、怪しさの演出――とでも考えれば良いのだろうか。対外交渉は役目として振られたことはないが、そういう含みのある話術なのだろう。

「敵対するつもりはない。ミヤコさんからも、本気でお前とは戦うなと厳命を受けてる。だから――そうね、落としどころとしては、今はただの私と、ただのお前がここにいるってことで、どうだ」

「はい。今の自分は、王国軍の兵士ではありません。ただの個人であります。つまり、それはあなたも変わらない、と?」

「そういうことだ。そして、たまには昔話をこうして持ち出して話題にする、その程度でいい」

「なるほど、諒解しました。あれはお互いに仕事だった。今はそうではない――とのことですね」

「物分りが良くて助かるね」

 しかし、逆にしてみれば、お互いに仕事ならば今後も敵対する可能性がある――だ。その示唆に気付かないほど、オボロは間抜けではない。ないが、その時はその時だと割り切るのが度量のはず。

「怪我はもういいのか?」

「ええ、大事だいじありません」

「だったら出よう。時間はあるんだろ、街の案内くらいなら私だってできる」

「助かります」

 珈琲を飲み終えた二人は外へ。先導するコノミは自然体のまま、どこかふらふらとしつつ、直線移動を好まず、一つの道であっても曲線を描くように歩行する。オボロは癖もあって、真っ直ぐに歩くのだけれど。

「――こちらに来て、もう長いのですか?」

「言わなかったか? せいぜい、一年くらいなもんだ。両親が旅人だから、私だけ預けられた形だな。ここからは好きに生きろと言われてる」

 ジャケットの裾が臀部まであるためわかりにくいが、後ろから見ると腰裏には拳銃らしき〝重さ〟が見て取れた。ほかの武装はと、視線を動かすと、振り向かれる。

「女の躰をじろじろと見定めるもんじゃねえよ」

「失礼しました」

「いいさ、職業病だろ。私も戦場をそれなりに経験してきたし、あそこに住んではいるが旅人みたいなもんだ。最低限の武装はしてる」

「最低限でありますか。自分には、やや重く見えますが」

「重い、軽いってのも、女には禁句だ。隠してるものにも目を瞑るのが、男の役目だな」

 つまり、外から見抜けるものもあれば〝仕込み〟になっている武装もあるのだ。オボロのように、槍一本ではない。

「どっか、行きたいところはあるか?」

「いえ――自分はまだ、何もわかっていないような状況です。何があるのかも調べておりませんので」

「だったら、店を出るのが早かったと、私が責められる場面だな」

 小さく鼻で笑うような気配があり、そのまま歩いていくと、噴水に出た。周囲にあるベンチの一つに腰掛けたコノミは足を組み、片腕をベンチの背もたれに乗せ、こちらを見る。視線が動いたので、僅かに距離を置いてオボロも腰を下ろした。

「中央噴水広場――ま、ほかに大きなところはないから、噴水って単語だけでも、ここを示すことができる。まずはそうだな……質問はあるか、一番槍」

「あなたから見て、武術家と呼ばれる者は、一体どういう存在ですか?」

「そっちの話か。いちいち対価を要求するような真似はしないが、私の訓練にお前を使ってやろうと思っているくらいは、覚えておいてくれ」

「その機会があれば、是非。自分も腕を鈍らせるわけにはいきませんので」

「あくまでも私が聞いた話だ、信憑性はその程度と思ってくれ」

「しかし、あなたの――ご両親でしたか。その方が楠木だと」

「鵜呑みにするなってことだ。実際、うちのお袋は楠木だが、その実態を掴んでいない。結論から言ってしまえば、武術家なんてのはただの〝生き様〟でしかないからだ」

「その在り様、ですか」

「古い文献を開けば、こうある。武術家とは、あらゆる得物の中から得意なものを手にして、技術を高め、得物を担う者だ。しかし、苦手である得物を扱えないのならば、それは武術家ではなく武道家でしかない。これに対する私の見解は、得物がなくなったらそこで死を選ぶしかない馬鹿は、最初から足手まといでしかないってことだ」

「頷ける話ではありますが、しかし、一つを貫くこともまた、必要では?」

「どっちつかずが一番危ういなんてのは、大前提だろ。けどミヤコさんだって、槍を持てばそれなりに〝できる〟はずだ。そうは思わないか?」

「……確かに」

 たとえ使ったことがなくとも、オボロの槍を見て、軽く凌いだ体術は、決して刀を持っているからという理由だけのものではない。何故なら、刀で防がれたことはなく、ただ、刀で攻撃されただけだから。その攻撃の部分が槍に変わったところで、オボロはあの速度に対応できないし、見切りは難しいと思う。

「私はまだその領域まで至ってないが、聞いた話によれば、なにか一つでも得意なものがあれば、それを基準にして、ほかのものの理解も得られるんだと。でだ、文献じゃなく――これはうちの親父に聞いた話になる。武術家とはなんだ? それは、本当の意味での武術家を体現する存在に、ただ一つの得物で突破することだ」

「――それは、もしや、レーグネン殿のことでは?」

「おそらくな。そういう存在がいるのかどうか、名前がどうとか、親父は言わなかったし、言えないことだと理解した。正直、半信半疑だったし、今でもそうだ。しかし、その可能性は高い。少なくとも昔――うちのお袋は、ミヤコさんと一緒に、レーグネンに教えてもらったことがあるらしい。これも私の推測、いや推論なんだが、たぶんあったんだろう。もちろんその時、レーグネンは刀を持ち、居合いで対峙したはずだ」

 けれど。

「お前の時は〝槍〟だったんだろう?」

「そうです。槍の技を見せていただきました。そして、槍の本質も」

「ここで考えられるのは、あらゆる得物を〝得意〟としてしまった存在が一つあったと、そういう可能性だ。どっちつかずの典型でありながらも、いずれも〝突破〟している。現実的にそんなことはありえないと、否定したくもなるだろ。だから、武術家ってのは、刀を持ち、楠木の名と共に、そんな〝化け物〟に挑んで越えようとする。それはきっと、相手への挑戦と共に、自分への問答なんだろうとは思うけどな」

 わかるだろうと、コノミは苦笑する。その程度の信憑性と言った意味がと、そう続けた。

「その、これを問うのは筋違いかもしれませんが、そもそも〝楠木〟とは一体、どんなものなのでしょう」

「どう見えた」

「自分には、ただ〝速い〟と」

「それは正解だ、間違いない。だったら、お前が見た槍の本質とは、槍とはなんだ?」

「ただ一突き。槍とは、それだけのものであると、自分は理解させられました」

 それを聞いたコノミは、視線を空へ上げてから、右下へと落とす。それが思考の間であると共に、彼女はオボロと会話をして、こういう細かい情報を引き出しながら、今までの疑問や、これからの態度、そういったものを決めるために、こうして逢いにきたのだと、遅く気付いた。

 何故ならば、すべてが知っていることと、断言していない。推測や推論と言っているし、それらはつまり、小さな情報であっても、確定する一因になりうるはず。知らない情報を引き出そうと躍起になるのではなく、あくまでも自然な流れでいろいろな情報を知ろうと、そういうことだ――けれど、でも。

 だったら、それはなんのために?

 その答えはオボロも知っている。

 生きるためだ。生き残るためと言ってもいい。足元の地盤を確認するための一歩でしかない。

「だとすれば〝楠木〟の居合いは――極限まで速度を求めたその先にあるのは、たぶん、限りなく〝一撃〟に近い、数撃なんだろうな。――そうか、考え方が違うのか」

「考え方でありますか?」

「ただ突く。お前が見たその槍は、その技は、突くために必要なもの……たとえば、突きを成功させるために場を整えるための技、とでも言えばいいのか、そういったものじゃないか?」

「――はい」

 どういう思考回路をしているのだろう。情報量だろうか、それとも推理に近い考え方なのか。

「自分はそう捉えましたし、レーグネン殿も、それに近いことを言っていました。一突きのための技であると」

「逆なんだろうと、私は思うね。いや、槍はそうだ。技を積み重ねた先に、突くことができる。逆に言えば、そもそも一突きというのは、語弊はあるけど、誰にだってできることだろう。あたるかどうかは、べつにして」

「ええ、それを別にしたのなら、可能でしょう」

「たぶん〝楠木〟の場合は、できないんだ。一つずつじゃないにせよ、技を得て、それらを使いこなせた先に、楠木がそう呼ばれることになった、何かが、あるいは技……奥義みたいなものが、ある。つまり、同じ過程であっても、違う」

「つまり……戦闘において、一突きのために始める槍と、初めから奥義が使える楠木……でしょうか」

「簡単に言えばそうなる。速度を重視した先にあるのは、究極的な先手だ。私が見た限りで、うちのお袋が〝後手〟に回らざるを得なかったことはあっても、自ら選んだことは一度もない。ミヤコさんは相手の出方を待つ、くらいの行動はしたが、攻撃的になった際には常に先手だ」

「確かに、昨日は常に後手であったと、そう反省しました」

「――厄介だ。得物を壊しても止まらない。本気で武術家を止めたいのなら、相手の領分で越えなくちゃいけない、なんてのは、冗談にしても性質が悪い。少しばかり考えを改めるか……」

 相手のことをよく見て、考える人だと思う。それと気遣いも上手い。軍部ではあまり見かけなかった人種だ。もちろん、似たようなケースでは、軍師などがいたけれど、そういう指揮を前提とした考えとも違っていて。

 簡単に総じてしまえば、大人びている、とでも言えばいいのだろうか――。

「――」

 くすり、という小さな笑い声が耳に届き、思わず左側に立てかけておいた槍を掴んだ。だが、続く動きを制するようにして、コノミが左手を出してくる。気付いていたのかと見れば、しかし。

 表情に出さず、態度にも見せず、けれどそれは。

 強い警戒を体内にだけ、押しとどめたような姿のコノミが、右側にあるベンチに視線を向けている。この時点でコノミの姿は、オボロの目には五人に見えた。

「いつから、そこにいた?」

「ははは、いつからだろうね。少なくとも俺は、隣のベンチに君たちが座ったところを目撃している。いや、盗み聞きになってしまったけれど、なかなか有意義な話だと思うぜ」

 彼は。

 その青年は、膝の上で広げていた本を閉じると、こちらを見た。ややほっそりとした顔つきもそうだが、実に平凡そうな服装も、街中ですれ違ってもわからないようなそれで、印象操作かとも考えたけれど、そういう違和感は存在しない。

 気付かなかったのは、オボロとコノミの落ち度だと、そう思えてしまう。なんというか、彼はそれだけ、普通だったのだ。

「シセンだ」

 オボロは会話をコノミに任せ、口を挟まない。コノミは何の直感か、問い返すような真似はしなかった。それを見て、青年は嬉しそうに相好を崩す。

「楠木流抜刀術、七ノ段〝志閃シセン〟だよ。速度を求めた楠木は、一ノ段から技を磨き、そのすべての技術を七ノ段に詰め込んだ。その結果を目の当たりにすれば、刹那の隙間で四つの居合いが、そう、ありえないけれど〝同時〟に発揮される。けれど、訂正を入れるのならば、槍もまた同じだということだ。何しろその槍は、〝壱の槍〟は、一ノ極意〝槍〟とは、中るものだ。外れては極意ではない。貫けぬ槍は、ただのがらくたも同然であるのと同様にね」

「そりゃ親切に訂正をどうも」

「ところで、これからウェパード王国の門を叩こうかと思っているんだけれど、旅人であっても面会は可能かな」

「少なくとも、よっぽどの馬鹿が派手なトラブルを起こしたんじゃなけりゃ、断ったという話は聞いた覚えがないね」

「うん。そして君は、俺に質問を投げないんだな。唐突にぺらぺらと、我がもの顔で会話に首を突っ込んで、さも事情通であるという態度を取ったのに、大して警戒しているようにも見えない。俺の問いには答えたしね」

「わかっていることを問うのは馬鹿のやることだ。間抜けは、自分で考えてわかることを問うヤツのことだろう。そして、知らないことを問うのならば相手を選べと、教育されてるんでね」

「君の皮肉と、俺の問いと、そして君たちの会話に見合った対価として、一つだけ質問に答えよう。――果たして君は、何を問う?」

「とっとと失せろと言うのは質問にはならねえな。だったらこうだ、あんたの名前はなんだ」

「――うん」

 うん、うんと、何度も青年は頷き、立ち上がって本を小脇に抱えた。

「さすがだね。そして、それは対価が必要ない。何故ならば君が知らないことであっても、それは俺自身のことだからだ。だからまず、対価を返そうコノミ。魔力消費の効率化を目指す前に、君の母親が気付かなくて、あるいは父親に放り投げていたからこそ、今まで君自身が見いだせなかった可能性の提示だ。ミヤコ・楠木に対してこう訊ねるといい。〝湖服こふくの行〟とは何であるか、とね。きっとそこからだ」

 気になる点がいくつかあっただろうに、コノミは黙ったまま、視線だけを向けている。その態度も良いのか、やはり彼は笑った。

「そして、答えよう。俺の名はエンデ、あるいはヌル」

「――〝ハジマリの場ヌル〟に〝オワリの所エンデ〟か。私よりも皮肉は利いてる」

「あははは、面白いね、まったく。けれど次は、きっと先になるんだろう。じゃあね一番槍、今度は君とも話せると良いけれど。コノミ、一応慣例に倣って伝言を頼むよ。リンドウとイザミには逢うつもりだったけれど、辞めておくと言っておいてくれ。それからコウノには、ただ、よろしくと伝えてくれればいいさ。君たちの幸先が良いことを」

 ほとんど一方的に言った彼の姿が完全に見えなくなって数秒間、ずっとそのままの姿勢だったコノミが、外見からはわからない警戒を沈めたのを見て、オボロもまた、強く槍を握っていたことに気付いて手を離した。

「オボロ、どう見た」

「普通の人でありました、コノミ殿」

「だろうな。警戒を表に出せば間抜けと言われるのを許容しなくちゃならんくらいに、だ」

「しかし……おかしな話かもしれませんが、殺せませんでした」

「物騒な物言いだな」

「化け物とは違っていたのは確かです。ただ……なんというか、届かないと、そう感じたのです」

「なるほどね。ま、実際はどうであれ、厄介な手合いだ。こちらの知ってることしか答えない。知らないことには対価が必要――そういう〝ルール〟を持っていやがった。ほとんど直感的な判断だったが、正解だったみたいだ」

 まあいいと、そう言ってコノミは立ち上がった。

「時間はあるんだろう?」

「あります」

「これから配送の仕事がある。二時間もしない内に終わるだろうから、手を貸せよ。報酬は山分け、ついでに主要施設なんかも把握できる良い仕事だ。どうだ?」

「――はい」

 もしかして、ここまで見越して仕事を引き受けたのだろうかと思いながらも、オボロは立ち上がる。

「足手まといにならぬよう、ご厚意に甘えます」

 ついでに依頼がどのような形式で行われているのかも把握できるのなら、報酬なんていらないくらいだ。観光のようにふらふらと各地を歩くよりも、オボロにとっては、よっぽど有意義な時間の使い方であった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る