04/19/14:30――オボロ・本物の武術家

 王国の西口から出れば、石畳の街道が長く続いている。一般的な馬車が二台が横並びになったところで、歩行者の邪魔にならないほどの広さで、こうした整備が行えていることは、国が豊かな証拠でもある。地面を見れば雑草も生えており、芝が混じった平原は見通しも良く、環境は良い。しかし、オボロが向かう先は街道を外れた森を越え、山に近づく方向だ。

 森に入る前に見上げた空は青く、雨の気配は遠かった。そういえばと考えてみれば、旅の途中で雨に降られたことはまだない。とはいえ、宿で寝ている時に雨音を聞いているので、夜間に降る時期なのかもしれないとは思う。シャヴァ王国でも、そういう時期はあった。

 森に足を踏み入れても、通り抜ける風が僅かに木木を揺らすが、気になるほどではない。木の間隔はさまざまだが、雑草が生える程度には陽の光が届いている。こちらも環境は良く、それこそ木の上にスペースさえあれば、昼寝でもできそうなくらいだった。

 そんなことを考えている自分に、オボロは小さく苦笑した。普段ならば行軍経路、周囲の偵察、退路の確保など、生き残るために必要なことを優先して行っていたのに、今は居心地の良さなんてものを感じてしまっている。それが良いのか悪いのかはわからないが、日中というのも危機感を薄れさせているのか。

 ぴたり、と足を止めたのは、薄れていたその危機感が表層に浮かび上がってきたからだ。細かい糸で組み上げられたような網――小鳥ならば通り抜けられそうなものだけれど、人では必ず引っ掛かる網目が、物理的なものではないと気付く時間は必要ない。これが術式であることは、オボロにとって〝見れば〟わかることだ。

 空を仰ぐようにして目を細めれば、随分と広範囲に張ってある。ここが隠れ家であり、であれば隠れるに必要なものかとも思ったが、警戒や警告、という単語が頭に浮かび、これは侵入者の察知を行うものだと気付く。あくまでも気付いただけで、実際に読み取ることはできない。あくまでも想像だ。

 けれど、危険はないと思う。直感だ。であれば、気にせず通り抜けるしか方法はない。解除することも、すり抜けることも、オボロには不可能だ。そういう点に関しては、軍部の中でもやや劣っていたか。だとすればやりたいこと、やるべきことは山積みだ。軍の仕事がなくなったからといって、暇になることはなさそうである。

 結界を抜けても、目的地は思ったよりも近くなかった。であればこそ、範囲の広さに舌を巻く。陣を敷いての展開ではなく、中心地点を決めての展開だとわかるし、ドーム状にはしてあるようだけれど、どうやら内部そのものには存在していないらしい。つまり、網を抜ける際の〝出入り〟だけを感知するもののはずだ。

 森を抜ければ、やや広い高原――いや、庭だ。ぽつんと小さくある家を発見したそちらに足を進めれば、家の前に置かれた木のテーブルに、女性と一人の少女が対面に座って話をしており、オボロに気付いて顔を上げた。

 十メートルの距離で立ち止まる。けれど、あまり声を立てないように気を付けて。

「失礼します。こちら、リエール殿の家で間違いなかったでしょうか」

「うん、そうだけど、なあに?」

「自分はオボロ・ロンデナンドと言います。リクイス殿の指示により、こちらに楠木殿がいらっしゃると聞いて参じました」

「へ? リクイスがそう言ったの?」

「はっ、そう言われました」

「ふうん、そう。おかあさんの客かあ……でもなんでうちなんだろ、ねえ?」

「さあ?」

「ちょっと待っててね。レグホンさーん! 聞いてた? ちょっと、おかあさん呼んできて!」

 庭に向けて声を上げれば、木木の隙間から何かが飛び立つ音がした。肩越しに振り向くが、姿は見えなかったので、すぐに戻す――と。

 視線が合った。

「――失礼。以前……おそらく一年と半ほど前に、お逢いしたことがありませんでしたか」

「気のせいだろ」

「そう、でしょうか」

 いや、気のせいではない。素っ気なく言った彼女の言葉を否定こそしないが、一年半ならば記憶もそれほど古くはないのだ。それに、危機的状況であったため、覚えている。

「冗談だ。気のせいにして突っ込むなって遠まわしに言ってんだよ」

「それは失礼しました」

「え、なあにコノミ、知り合い?」

「道ですれ違って、軽く視線が合った相手を知り合いと呼ぶならね」

「あんた……そういう物言い、本当にコウノさんそっくり。あ、私はクズハね。クズハ・リエール。今は裏の川に行ってる子の母親で、コノミは息子の従兄妹。ちょっとした事情があってうちに住んでるの」

「ご丁寧にありがとうございます。自分は、元シャヴァ王国軍であります。このたび、レーグネン殿の誘いもあり、武術家なるものが何なのかを知るため、こうして旅を始めました。王城へ挨拶に伺った際、こちらを教えていただいた流れとなっております」

「あー、確かに武術家って言えば、うちなのかなあ。うちっていうより、コノミの方よね?」

「お袋のことを言っているのなら、イエスだ。私のことならノーね」

 武術家というのは、遺伝なのか、継承なのか、そういったことを疑問には思うが、質問をする相手が違うだろうと飲み込む。

「あ、荷物置いたら? お茶持ってくるから、座ってていいよ」

「お気遣い、ありがとうございますクズハ殿。お言葉に甘え、荷物は下ろさせていただきますが、お茶は結構であります」

「そう? ふうん、なんか……元軍人って、みんなこんなもん?」

「私に聞かないでくれ……あんた、長いのか」

「は、自分は軍での生き方しか知らない、世間知らずであります。七歳の頃よりつい数日前の六年間、ずっと軍に所属しておりました。王国軍内部でも珍しい部類であります」

「規律の中で生きてきた堅物じゃなけりゃ、私はそれでいい」

「まったくもう――あ、お帰り、カイドウ」

「ただいま。お客さん?」

「お邪魔しております」

「おっす」

「おかあさんに逢いにきた子だってさ」

「オボロ・ロンデナンドであります」

「俺はカイドウ・リエールだ。カイドウでいい、よろしくな。もう知ってるかもしれないが、こいつはコノミ・タマモだ」

「おいカイドウ」

「なんだよ。どうせコノミのことだ、必要ねえとか、面倒だとか、そういうので名乗ってもないんだろ。会話が面倒になるから、そんくらいはいいじゃないか」

「それで失敗したことのねえ野郎の言いそうなことだな」

「うるせえ」

 袴装束に、左腰に刀が一振り――だが。

「失礼、カイドウ殿」

「お、なんだ? 母さん、お茶くれ、お茶。美味しいやつ」

「その――カイドウ殿は、武術家なのでありますか?」

「へ? なんでよ?」

「服装であります」

「それと、腰の刀ってところか。いやいや、憧れは今でもあるし、恰好はそれっぽいが、俺はただの魔術師だよ。多少は使えるが、使えるだけ。今日日きょうび、魔術師だってそのくらい躰を動かせないと話にならんって、親父の教育なんだ」

「そうでありましたか、失礼しました」

「失礼じゃねえけど」

 言いながら、カイドウは腰を下ろし、クズハのカップをそのまま受け取ってお茶を飲む。

「武術家と逢ったこと、ないのか?」

「軍を出る前に、一度遭いました。武術家というよりも――自分にとっては〝化け物〟でしたが」

「軍?」

「いなかったお前に丁寧に私が説明してやると、元シャヴァ王国軍所属だ。七歳から六年間も現役で一線に出てたって話ね」

「へえ、そりゃ……すげえな。すげえけど、コノミのその、親切の押し付けはどうかと思うぜ」

「だから宣言してやっただろ。黙ってやられるのと、どっちがいいか、その足りない頭で考えてから話せ」

「一言多いっつーか、まあ慣れたけど。悪いなオボロ、こいつ口悪いから」

「いえ――気になりません」

 というか、口が悪いと思わなかったオボロは、もしかしてどこか、おかしいのだろうか。

「ん? ってことは、コノミと同い年か」

「おい馬鹿」

「馬鹿とは何だ、馬鹿とは」

「女の年齢を軽軽しく口にするな」

「まだ女って年齢でもないだろ。俺だって母さんの年齢だったら黙るくらいの分別は持ってるぜ」

「いい子ね」

「クズハさん……褒めるところじゃない」

 呆れたようにコノミは空を仰ぐ。僅かに警戒しているのもわかるし、だからこそ、オボロもそれ以上は足を踏み入れない。けれどお互いに、もう過去のことだという認識は持っているし、それを掘り返すこともしないが、ほぼ初対面なのだから〝間合い〟にも気を遣う。

「俺は一個上だけどなー……一年違うのに、コノミにゃ勝てねえし、ちょっと落ち込みたくもなるぜ。軍じゃそういうの、どうなんだ? やっぱ階級か?」

「はい、年齢よりも階級が重視されます――が、自分は若すぎることもあって、新兵であっても素直に従う者は珍しくありました。仕方のないことだとは思っていましたが」

「ちなみに階級は?」

「最終的には伍長であります」

「へえ、そりゃあ――どうなんだ? おいコノミ」

「知るか。ちなみに、伍長になって何年だ」

「二年であります」

「ふん。どうせ、年齢あたりの理由で、それ以上の階級にゃ上げられなかったんだろ。成果があっても、それを上が認めるにゃ若すぎる。違うか〝一番槍〟」

「いえ、違いありません」

「――? なんだコノミ、知り合いか?」

「知らねえよ」

 会話の切れ目、言葉の終わり。荷物を置いたオボロは袋に入ったままの槍を片手に、数歩離れるようにして振り向く。

 そこに、居た。

 武術家がこちらへ歩いてきている。

 間違いない。袴装束に刀といった格好はカイドウと同じだが、相手はやや小柄な女性。袴の裾には大きく一つの紋様が描かれていることが違っていて――けれど、その本質が、まるで違うことがわかる。袖口から取り出したコイン、おそらくラミル銀貨を指で大きく弾くと、大鷹が飛来して口に咥えて飛び去った。

「――お待たせ」

「あなたが……楠木殿で、ありますか?」

「うん、そう。あたしがミヤコ・楠木。名前は?」

「オボロ・ロンデナンドであります、マァム!」

「よろし」

 十五メートルの距離になってから、ミヤコは迂回するようにして位置を変える。オボロの背中側にクズハたちがいることを気にしてだろう。怖さは感じない――だが、それは諦めに似た感情だ。

 勝てない。

 積み重ねてきた何もかもが違うのだと、本能的に悟る。

「師匠――あ、レーグネンのことね。あたしの師匠なんだけど、つい数日前にやってきて、槍を持った男が訪ねたら、ちょっと見てやれって言われてさ。見ての通り、あたしは居合いを使うから、槍は門外なんだけど」

 雰囲気を悟って、オボロは袋の口を縛っていた紐をほどき、槍を抜く。

「それに、娘が現役の楠木だから、あたしはどうかなーとか思ったんだけど、断れなくて。あ、ちなみに娘の子供が、そっちにいるコノミね」

 とても、そんな年齢に見えない風貌だ。それこそ、クズハと並んでも、どちらが若いか悩むくらいの姿であり、少なくともオボロには衰えている部分が見抜けない。

 ぴたり、と足が止まった。向かい合って、やはり距離は十五メートル――いや、もう少しだけ近い。

「ん。じゃあとりあえず、一手交えようか」

「どうすればよろしいですか」

「どうって?」

「訓練ならば、相応の気を遣います」

「じゃあこれからは、戦場だと思って。あたしはねオボロ、鍛錬や訓練で死ぬのも、戦場で死ぬのも、どちらも〝同じもの〟だと思って生きてきた」

「はっ、諒解であります」

「でも、あたしは殺さない」

「自分にそれだけの余裕があれば、そうします、マァム」

「よろしい」

 それ以上の言葉は、なかった。オボロは槍を構え、左足を前に出す半身。対するミヤコは柄の上部に置いていた左手を離し、それを柄へと移動する。

 呼吸は一度と、半分だけ。その間に、オボロはいくつかの判断を下す。

 レーグネンと対峙した時と、似たようなものが目の前に見えている。

 それはおそらく、魔術の分類になるのだろうけれど、オボロには戦場や、対峙した相手の行動が予測できる。相手の狙いとでも言うべき行動が、残像のようにして視界の中に映るのだ。そのため、その行動を前提として、オボロはカウンターを行うことが容易く、そうした戦術を訓練ではよく行っていた。

 けれど、ミヤコは違う。多くてせいぜい三つ程度、それも時間の経過で収束し、一つになり、行動として示される未来予測の現実化が、数えきれないほど無数にあった。レーグネンの時はそれに翻弄され、失敗ばかりを繰り返していたように思う。

 だから、今回はそれが見えていながらも、徹底して無視を決め込んだ。けれど、その中のどれかが、現実になる瞬間だけを強く意識する。

 ――そうして。

 呼吸を止めた瞬間に、オボロは思い切り後方に飛んでいた。跳んでいた。直感ではない、見えていた――いや、速度がありすぎて捉えられなかったが、現実になる瞬間を、未来予測が収束して一つの現実になるのを確認した瞬間、それしか行動できなかったのだ。以前までなら、踏み込んでいただろう。相手の裏を掻くために。けれど、それでは何もできないのだとわかった。

 そう、わかったのだ。

 レーグネンと対峙した経験が、そうさせた。

 足が地面から離れると共に、両手を軽く離すようにして、握り位置を変える。穂先を向けるには、一度振り上げて下ろさなくてはならないが、手を離して移動させ、穂先近くを掴めば、そのまま柄尻で突くことができる――時間との勝負だ、一秒にも満たない時間が必要だと、オボロは理解していた。

 ――居合い。

 放たれた居合いは、先ほどまでオボロが居た位置に一度だけ。それが終わった位置に、ミヤコが〝出現〟する。それほどの速度だった。けれど、終えた姿は目に捉えられる。そこへ柄尻を叩き込めばいい。距離はほぼゼロ、顎を跳ね上げるような動きになるが、こればかりは仕方ない――が。

 けれど、ミヤコの視線は先ほどのまま、間違いなくオボロを捉えていた。

 こうなることを、それこそ予測していたかのように。

 柄尻が空を切る、そこに驚きはない。ミヤコの表情から、回避されるだろうことはわかった。これは未来予測ではない、確信だ。そして続く、するりと伸びた右手がオボロの胸元に触れるよう移動してくるのは、予測である。

 衝撃が〝止まる〟ような感覚が放たれたと感じた刹那の間に、オボロは躰を強く一回転させながら大地に足をつく。肘が曲がらないような状況での手から放たれるのならば、暴力的な一撃ではないとの判断は、正解だったが、さすがにすべてを受け流すには、タイミングが遅れた。――相手が、速すぎるのだ。

 ミヤコの手が再び柄に戻るのを、回転を終えたオボロの視界が捉える。ミヤコの後ろで、最初の一撃の銀光が走った。実害はなし。であれば次だと、地面に伏せるよう後方跳躍の勢いを強引に転換し、頭を下げる。次の居合いの回避手段ではない――柄尻を地面に叩きつけ、握り位置を正すための行動だ。

 そして、やはりここでも、後手を取った。

 完成した居合いに対し、避けきれなかった左肩口から後方に血飛沫が弾ける。おそらく加減されたものだ、ここが本当の戦場ならば、首が飛んでいたと思う。だからその加減に甘んじて、三度の突きを行えば――既にミヤコは間合いの外、ただ空に三点を穿つだけで終わってしまう。

 ここで、オボロは意識して息を吸った。ともすれば隙になるその空白も、誘いの意味合いを含めたものだが、ミヤコは動かない。それもまた一秒にも満たない鋭い呼吸だったが、おそらくこれも〝手加減〟の内なのだろう。

 ――速いなら、認めろ。

 それはかつて、名も知らぬ男が放った言葉だ。槍使い――オボロに、槍の基礎を教え込んだ男。こうして、特に対一戦闘の中、男の教えはよく思い出す。

 ――速さに対抗できる速さがねえなら、別のもんを出せ。

 そう、認めるのだ。忘れるのでもなく、見ないのでもない。自分の速さを捨てるのでもなく、ただ認める。その上で対抗するものを、己の中から導き出す。そんなものがない、なんて状況は意志だけで拒絶すればいい。

 ふいに、ミヤコが後方宙返りを行った。不意ではない、予測はできている。けれどそこから先は分裂するように数が増えたため、予測に推測を重ねて二歩下がれば、あろうことか空中でミヤコが着地点を変えるのが〝現在〟として映った。どういう体術だと思いながら、距離を空けたミヤコから放たれた居合いは二度――遠すぎる、なんて考えは最初から浮かばせない。

 〝斬戟〟と呼ばれる現象が飛来する。縦横で十字を描くようにして、距離はおおよそ十メートル。速度を重ねれば一息、といったところだ。悠長に構えている時間はない、ないのだが。

 ――詰みだ。

 常に五人以上、七人以下に見えるミヤコの姿、未来予測はこれが牽制の初撃であることを明らかにしている。だが、その結果が見えているからといって、諦めるなんて選択肢は浮かばなかった。

 盾もない。鎧もない。逃げ道はない、範囲に対しての回避は難しく、その手段がないのならば、オボロは。

 前へ出る以外に、考えはない。

 強く奥歯を噛みしめれば、全身が凝縮するように固くなる。そこから一気に力を抜けば脱力、斬戟の現象を眼前にしたオボロは、思い切り槍を投擲した。

 点での攻撃、しかも手を離した一撃ならば、愚行と呼ばれても仕方ない。点は避けやすく、次がないとなれば、その一撃を回避する労力を割いてもお釣りがくる。

「――っ!」

 槍を捨てて身軽になったオボロが〝瞬発力〟で追いつく。訓練ということもあってか、ミヤコが投げられた槍に一瞬でも注視したのが助かった。お蔭で、こうしてぎりぎりのタイミングで追いつくまで、ミヤコの追撃がなかったのだから。十字斬戟の空白を飛び越える際に、左足を傷つけたが、浅手だ。問題は、ない。あったとすればそれは――本当にぎりぎりで、飛来する槍の柄尻を、強引に伸ばした右手が、ミヤコが回避する前に触れて、勢いを僅かに殺した点にて左手が追い付いたこと。

 既に間合いの中なのだ。ここからでは、引かなければ突けない。

 だから、突きではなく、薙いだ。薙ぎながら自ら一歩を踏み込み、後退したミヤコに対して一突きを繰り出す。

 ――腹部に、強い衝撃を受けた。

 眼前にはミヤコの姿がなく、納刀における鍔鳴りが背後で聞こえる。肺の中の空気が強引に押し出され、胃から逆流する何かを強引に呑み込めば、奥歯を噛むことになり、躰がやはり固くなる。だが、そうでなくては、震える膝から崩れ落ちてしまいそうで。

 それでも、倒れることと、槍を杖代わりにすることを拒絶して振り向けば、小首をかしげるように苦笑したミヤコが、刀の柄に左手を置いて、こちらを見ていた。

「その気があるなら、明日また同じくらいの時間に、ここへおいで。あたしもちょっと、考えておくから」

 それが終わりの合図。終了の挨拶。であるのならば、オボロは緊張を保ったまま、槍を上空に向けるように直立し、敬礼――しそうになって、頭を下げた。

「ありがとうございます、ミヤコ殿」

「ん。クズハー、今日こっち泊まるからよろしくー」

「はいはい。たまには、おかあさんのご飯も食べたいなあ」

「横着しないの」

 そんな会話を横目に、オボロは普段と変わらぬ態度を貫き、槍をしまって荷物を手にする。

「――おい、オボロ」

「なんでしょう、カイドウ殿」

「……いや、手はいらねえみたいだな。また来いよ」

「はい」

 槍にくくりつけ、それを肩に背負い、全員に対してもう一度頭を下げてから、森へ戻る。

 ――結界の網目が見えるまでの距離は、今までの行軍の中で、四番目に厳しいものとなった。

「は――」

 結界を抜けて一キロの距離、まだ森の中でオボロは倒れた。額に浮かんだ脂汗と共に、腹部の痛みが強くなる。どうやら、刀の峰で打たれたようだが、かなり強い衝撃が背中へと抜けていた。内臓にダメージはさほどなさそうだけれど、痛みはある。荷物から取り出した簡易治療キットで肩と足の止血を行う。服で見えにくくなってはいたが、ここまで歩いてきて、服が血色に染まる程度には出血があったのだ。

 見栄を張っていたわけではない。ただオボロにとって、動けなくなることを誰かに悟られえていても、こうして倒れ込み治療を行うような状況は、見られたくなかったのである。敵に見られれば隙になるし、同僚に見られれば士気に関わる。何しろオボロは一番槍、それは都合の良い旗印。弱音を吐くところなど、誰にも見せずに今まで生きてきた。

 だから、誰かの前で倒れる時はたぶん、死ぬ時だ。気絶して倒れ、無事でいられる保証はどこにもない。

 あれほど短時間の戦闘だったのに、日の出まで前線にいた時と同じような疲労がある。特に目の疲れ、そこから頭痛へと発展しそうな、そんな分水嶺まで頭を酷使した。それでもここまで歩いてこられたのは、手加減してくれたこともあるし、レーグネンとの戦闘が熾烈であり、印象深かったからこそ、乗り越えられたのだと思う。

 化け物、ではなかった。感覚の問題で、本気ではなかったかもしれないが、それでも、オボロには想像すらできない人としての一線を越えていないように感じた。

 ――あれが武術家か。

 そう思えば、しっくりとその単語が馴染む。刀一振りで、あの姿。きっと槍が貫くことを目指したのならば、あの刀は、居合いは、速度を追い求めた結果ではないのだろうか。あるいは速度というよりも、先手の追求かもしれない。いずれにせよ、その差がわかるほど、オボロは成熟してはいなかった。

 二度目の、そして二人目の武術家を前にして、感想としては、それくらいだ。果たして本気で、武術家になりたいのかと問われた時、肯定できるかどうかはわからない。わからないが、しかし。

 レーグネンに挑みたいのならば、まずはミヤコに挑むのが先なのかとは、思っている。そして、それが今の自分では不可能なことも。

 明日、聞いてみようと思う。これからウェパード王国に戻り、宿を取って、しばしの休息を取ったあとに、問おう。可能不可能は度外視して、挑むための道しるべがそこにあるのならば、オボロはその道を歩きたいと思っているのだから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る