03/08/09:00――リンドウ・拒絶の意志
空は快晴。腹部まで伝わる雷鳴は近くもあり遠くもあり、そこには七番目の大陸の日常があった。雨の日も当然のように落ちる雷への対処法は、雷の直撃を想定したものであり、誘雷針を持って歩く行為に近しい。
もうそろそろ、この大陸にきてから、一年になるのかと、リンドウ・リエールは思う。既にここでの日常には慣れてしまい、街道を高速で走る機械馬に轢かれる可能性を考慮し、やや外れた位置ではあるものの、こうして本を開いて読みながら歩けるくらいだ。
そして、魔術王国クインティを出てから、そろそろ十日になる。当然、振り返っても見えはしないし、あれからどうなったのかも、リンドウの知るところではなく、ただ隠されていた魔術書を読破したら、結果的に一番最後に出ることになってしまっただけだ。ちなみに、その魔術書は同じ場所に戻し、リンドウの封印を重ねておいた。持続時間までは計算していないが、一年持てば、まあいいだろうとも思っている。
どうしたものかな、とも考えていた。さすがにここ一年で、大陸中を回ったなんてことは豪語できないが、次の大陸へ行くことも視野に入れ始めている。姉とは違って、そもそも明確な目的がないため、留まるのにも出て行くのにも、大した理由が必要ない。それが停止でなければ、それで良いのだ。
黒猫のメイは、リンドウの影の中で休んでいる。というか、街に入れば出てくることも多いのだが、基本的には影の中で寝ていた。雷が嫌いなのもあるが――いや、そもそもが猫なのだ、それでいいと思う。
年齢を気にしても仕方ないと、再び本に意識を戻す。普段は外套の中、脇の下あたりに留めてあるこの本は、リンドウが今まで行ってきた研究内容などが記されている。そのすべてが〝
これが魔術の基本だ――と、父に半ば騙される形で、一番最初に習得したのが、これである。一文字だけで莫大な情報量を持つ字だが、それらは必ず〝記憶〟と関連付けされており、本来では文字だけを他者が読んでも解読できるものではない。
記憶を無数の引き出しとするのならば、その引き出しの番号が圧縮言語そのものだ。言うなれば、風化するはずの記憶を、この言語で記すことで記録に変換しているような形であり、厳密に言えばその両者の中間になるのだろう。けれど、少なくとも十六年の人生の中で、知らない第三者がこの文字を使っていたことなど、今までなかった。
そういうものなのだろう、と思う。時代が流れるに従って風化してしまった技術、技法なのか、それとも――最初から、特殊性が高く、迎合可能な適正を持つ者が少なかったのか。いずれにせよ、教えた父は、圧縮言語を使えなかったのだから、どうかと思う。理念だけを教わって現実にしたリンドウの実力とも思いがちだが、この技法はかつてよりあったのだから、それを擬えたことが成果になるはずもない。
――でも、なんのために?
十六年の歳月をすべて記してはいないが、未だに一冊は終わろうとしない。自分一人の人生ならば、いわゆる日記のようなものなら、この一冊で終わるのではないかと、そう思うほどだ。文字通りの圧縮された言語、それが技術として確立していたとして、一体何を記すために使われていたのだろう。
そんな疑問は随分と前に抱き、そして結論が出ていない。
一度、実家に戻ろうかな、なんてことを考える。こうして旅をしているのは知識を蓄えるのが第一で、術式の研究そのものにはあまり没頭していない。というのも、研究をするのならば居を構えたいと考えていて、それならば実家でやった方が都合が良いのだ。もちろん、だからといって研究していない、なんてことはないけれど。ともあれ三年は旅を続けているのだ、そろそろ親を安心させるべきか。
歩行速度は、それほど早くはない。むしろのんびりと、周囲から見れば散歩に近い。視線こそ本に落ちているものの、周囲を探りながらだ。大きな目的がないというのは、それだけで肩の力を抜ける。しかし、夜間ですら雷の襲来があるので、そろそろ屋根のある場所で眠りたい、と思うのも確かだ。急ぎはしないが、そういう欲求もある。
だったら。
「次の目的は街、かな」
ぱたん、と閉じた本を外套の中へ。〝
顔を上げて、周囲を見渡しで街道を探す。街へ行きたいのならば、街道に沿うのが一番楽だ。リンドウの方向感覚が狂っていないのならば、それほど遠くない位置に――。
「……ん?」
視界の隅に、なにか、赤色のようなものが映った。岩陰……とはいっても、それほど大きくはないので、隠れるには適さないが、小動物ならありえるのかと、そちらに足を向けて。
慌てなくてはならない一瞬を忘れ、目を見開き、リンドウは、あまりにも場違いな感想を抱いた。
――綺麗だ。
美しいと、思う。それは怪我をしており、血を流した猫がいることではなく、その状況ではなく、珍しい赤色の毛並が、そう、とても、綺麗だったのだ。
血で――汚れてしまっていると、強く思うくらいに。
小走りで駆け寄ったリンドウは、膝をつくようにして視線を落とす。手を出さなかったのは、その美しい毛並に触れてはならないと、そう思ったのが第一であり、第二として、猫自身が、呼吸を荒げながらも、リンドウを視認したからだった。
「僕の手が必要か?」
強い意志を、見た。
拒絶、その二文字に尽きる。声が出せれば、消えろとでも言いそうだ。
――だったら。
リンドウは立ち上がりながら、可能性を列挙していく。一歩だけ離れれば
何故ならば、リンドウの手は拒絶されたのだから。
「いた――」
おそらく、と当てをつけて疾走を開始する。上半身を思い切り倒し、大地を思い切り蹴るその姿は、疾走というよりも飛翔に近かったかもしれない。そしてまた、鎧武者はリンドウの動きを追随しなかった。
四十秒の時間をかけて移動した先、岩場の近くでうろうろと、旧型のAAの周囲を回るようにして移動している少年を発見。二歩で速度を緩め、近づくと、こちらに気付き――。
「待て」
逃げようとする少年に制止をかけた。
「緊急事態だ、僕の言うことを聞いてくれ」
「な、なんだあんた――」
説明している時間が惜しいとの判断は、正しい。けれどリンドウは、この時は自覚していなかったけれど、珍しくも、そして間違いなく。
焦っていた。
急いていた。
珍しいのは、それを自覚していなかったことだ。
戦闘時と同じ踏み込みで間合いを詰め、左手で少年の右腕をとる。そして、そのまま右手で視界を覆った。
「なんだ、離せよ!」
「黙って見るんだ――」
強く抑え込みながらも、手のひらで覆った視界の中に、鎧武者が見ている光景を投影する。びっくりしたように体を震わせた少年は、しかし。
「――姉貴!?」
「移動するから、驚かないでくれよ」
深呼吸を一度。
同じことだ。鎧武者の持っていた剣を、自分の手に移し替えるのと同じこと。質量が違うのならば、剣の方の質量を増やして均等にしてやれば、三キロ程度の距離ならば――。
できる、と思った直後には実行しており、成功の安堵ではなく、全身から魔力がごっそりと抜け落ちたような虚脱感。それを悟られないよう、両手を離してやると、少年は周囲を見て、すぐに彼女を発見した。
「姉貴!」
「時間がない――」
リンドウは、やはり少年の肩を持って、振り向かせる。
「――僕の手は、必要か」
逡巡は、文字通り一瞬。奥歯を噛みしめるようにして、けれど少年は目を合わせて、やはり強い意志を見せた。
「……――頼む、手を貸してくれ」
「わかった。人間の医者では、たぶん足りない。どうする?」
「俺たちの集落まで行けば……」
「なら行こう」
格納倉庫から取り出した三枚のタオルを少年に渡す。
「君が持ってくれ」
「ああ……すまん姉貴、ちょっと動かすぞ」
丁寧に、けれど素早く、タオルでくるんだ猫を両手で抱えた少年を見て、リンドウは頷く。
「どっちの方向かな?」
「あっち――東だ」
「わかった。君は、彼女をちゃんと抱いていてくれ」
得物を持たない鎧武者が、ゆっくりと少年を抱き上げる。さすがに驚いた少年だったが、奥歯を噛みしめ、小さくリンドウに向けて頷きを返した。
深呼吸を、もう一度。
「僕が可能な最大速度で向かうよ」
そうして、今度こそ、飛翔が開始された。
二歩で三メートルは上空に移動したリンドウは、周囲の空気を凝縮して足場にすると、そこに爆発を発生させるよう作用させた術式で、空中を移動し始めた。一歩ごとに躰が軋むが、そんなことは気にしていられない。そして今度は、その速度に合わせるよう、糸でもついているかのように鎧武者がついてきた。
最大加速してからも、定期的に空中を蹴り続ける。速度の維持――八十秒をかけた空中移動の結果、視界の中に森が見えた。
「あそこだ!」
だから、その目前に着地する。ゆっくりと少年を下ろせば、鎧武者は消えた。
――消えて、ほぼ同時に、リンドウは目の前が真っ暗になるのを感じた。安全装置が落ちたのだ。
「あ、あんた、大丈夫か!? 顔色が――」
「僕のことはどうでもいい!」
あえて声を上げれば、少年は口を噤む。その気配を感じながらも、リンドウは肩から近くの木にぶつかった。
「ここから先は、君一人の方が早い。行け。助けるんだろう?」
「――、わかった。だから、あんたは後できてくれ。俺の名はアキハだ。ちゃんと、後できてくれよな!」
森の中に入る足音を聞きながらも、リンドウは閉じた瞼の裏に、赤と黒との点滅を感じながら、ずるずると身を落とし、肩で呼吸をする。
無茶をした――。
たった八十秒の時間で、下手をすれば何かしらの代償を負ってもおかしくはない状況を作ってしまった。後悔はないが、危うかったのは事実だ。
魔術の行使。
ただでさえ魔力を使う影複具現魔術に加え、足場の生成、速度によって発生する衝撃そのものの緩和を、少年側に強くかけ、その上で疾走という全身運動。元より魔力量の少ないリンドウが、ただでさえ難しい術式の並行発動、そして肉体を酷使――八十秒持ったことが、今までの成果だとするのならば、それを誇るべきかもしれない。
呼吸が落ち着くのに、二十分も使った。それでもまだ戻らない暗闇の中、二度ほど地面を叩くようにして影の中にいるメイを呼ぶ。
「――馬鹿者」
第一声がそれだった。
「無茶をしおって……後遺症が出たら、どうするつもりじゃ」
「見てたんだ。眠っていたらと、そう思ってもいたんだけどね」
「あれだけの術式を行使すれば、
「神経が焼き切れるほどの持続を、したわけじゃないよ。気を遣っていたのは確かだけれど……戦闘中はそうでもなかったのに、持続がこれほど困難だとは思わなかった」
「戦闘中はスイッチのオンオフが激しいだけで、戦況は持続しようとも、術式の持続とはまた違うものじゃからの。して、なんじゃ? 周囲の警戒を変わって欲しいのならば、構わんが」
「――ははは。確かに今の僕は無防備で、こうして会話でもしていないと意識が落ちそうだけれど、そうじゃない。メイ、ここから先は、猫族の集落だろう?」
「何故、そう思う」
「彼女も、彼も、猫族だったから」
「さすがに、あんな未熟な迷彩では見破るか」
「四つ耳を見たのは初めてだったけれどね。メイ、――僕の手助けはしなくていい」
「警戒を妾がする、という点に対しての発言ならば断わるが、猫族の集落に入ることならば、条件付きで頷こう」
「条件は?」
「なあに、妾の存在を妾自身は隠さんだけじゃ。お主を助けたりはせんとも」
「うん、それでいい」
「まったく――小僧が、一丁前の態度をする。良い、良い、警戒はしてやるから、休め」
「ん……わかったよ、僕の術式は、解く。……負担が一つ減ったよ、ありがとうメイ」
「いいように使われるのも癪じゃが、頼られんのも複雑じゃのう」
「頼りにはしてるんだけどね――」
まばたきを何度かすると、ようやくぼんやりとした視界を取り戻せた。そうして見れば、地面がすぐそこにあり、痛みと共に曖昧になっていた躰の感覚が戻れば、地面に横たわり、黒猫のメイが自分の頭に手を添えているのがわかった。
「――何故、助けた」
「なんでだろう。ただ、義務感じゃない。僕が、ただ、助けたいと、そう思って最善を尽くした。それだけだよ」
「お主が術式を使えば、恢復とはいかずとも、活性化くらいはさせられたじゃろ」
「駄目だ。それはできないよ」
それは。
「彼女の意志を無碍にはできなかったから」
あの強い意志を挫くのならば、正当な理由と、万全な彼女を前にしなくてはならない。それこそ、正正堂堂と真正面から、向き合わなくてはならないと、そう思った。
「……ごめん、そろそろ限界かも」
今度は違う意味で、視界が安定しなくなった。
「良いから休め、リンドウ。それほど妾の守りに不安があるならば、せいぜい、早く回復させて早く起きることじゃな」
「信頼してるし、信用してるから――」
それでも、それが過ぎてはいけないことを、よく知っているから。
「――だから、頼むよ」
そう言って、ふつりと、意識が途切れた。
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