09/18/11:00――雨天紅音・性格が悪い話し方

 さて、ここらで僕が七日の時間を利用して何をしていたかを詳しく話しておこう。とはいえ、周辺環境に慣れるのが第一であったため、現時点ではそれほど多くのことはわかっていないし、やってもいないのが実際だ。

 まず僕がやるべきことは、レッド端末の改造だ。理想としては独自にレッド端末を一つ製作することだったが、さすがにそれは断念した。何しろレッドの特性上、それを利用する前提であるのならば、ログが管理課に残ってしまうからで、となれば次点で、管理課からレッド端末そのものを独立させつつも、日常的に利用可能な状態に細工をしなければならない。

 つまり、簡単に言ってしまえばレッド内部に相応のプログラムを仕込ませたい、ないし組み上げておきたいのだ。けれど、それをレッドで行ってしまえば、必ず管理課に嗅ぎつけられる。だからこそ、似たような端末をもう一台造り、そちらで組み上げておいてレッドに保存する形式をとらなくてはならない。

 とにかく電化製品が必要になる。集めるのには苦労しなかったが、さすがに工具類は難しい。特にハンダ関連を手に入れるのに、その理由を考えるのには苦労させられた。こちらはまだ完成しておらず、進捗状況だけならば八割がた、といったところだ。

 もう一つは、転移の考察にある。それによってエンジシニ全体のことも、ある程度理解できるのではないか、という試みもあるけれど、何よりも僕の研究者体質がその疑問を放置することに対して看過できなかったのだ。

 現象としてはそう難しいものではない。僕が元いた時間をA点として、現状をB点とした場合、転移装置によってAからBにまで移動した。ただ、それだけのことである。

 僕はまだ、転移に際してどのくらいの時間経過があったのかを知らないし、おそらく調べても明確な数値は出てこないだろうと思っている。体感時間はほんの三分にも満たない程度のものだが、あくまでも体感であって実質の時間とイコールではない。ただ外見や記憶、知識など、老化現象もなく目立った疲労もなかったことから、転移における時間経過はほとんどなかった、と考えられる。

 しかし――経過しているのは事実だ。一歩を踏み出した先だとて限りなく近しい未来なのだから、移動すること自体が現実の積み重ねであり、過去へ戻れないのと同様に、そこに時間経過をなくして転移など事象として確定はしないだろう。

 もっとも、転移が成功したところで僕は報告に戻れないのだから、観測記録しか残せない。やや残念ではある。この結果を持ち帰ればかなり発展しただろうけれど、そこはそれ、無理なものは無理。

 今のところわかっているのは、因果関係――いや、時間関係に変化が生じていることだ。混ざっている。およそ同い年であろうリイディや正晴、古宮は第二世代なので除外するとして、本来ならば同じ年代から転移していてもおかしくはないのに――実際には違っている。

 二○三○年に十五歳の人間と、二○六○年に十五歳の人間がここへ来たとしよう。同じ転移装置を使ったと仮定しても、同時期に出現する可能性もあれば、六○年の人物が先に転移している可能性もある。これは確認がとれた事実であって、予想ではない。だとすればだ、B点が固定されており、先に進んでいながらも、A点が流動していると考えられるものの、順序が逆転する理屈まではさすがに考えが及ばなかった。

 何かがあるのは、確かだ。

 時間軸に干渉、ないし影響を与え、このエンジシニを特異点としている何か。

 固定という観念は、いわゆるアンカーのようなもので、転移先の確定だ。かくして、どこぞの誰かが言っていた、時間は常に不可逆であり、タイムマシンなど存在しない、なんて言葉が立証されたわけだが、転移装置とはエンジシニにおけるスフィアと同じ、入り口と出口を繋げる装置でしかなかったわけだ。B点、つまり出口を確定されているため、時間をかけて入り口を改良したところで、出る場所は最初から決まっていたのだ。

 そこまで考えて、ふと思いついた僕が昨夜にマップを確認したところ、どうやら転移における時間そのものは、距離によって誤差が生じていた。

 誤差だ。それは一秒未満、ないし一秒程度のもの。けれど距離が遠くなればなるほど――これは時間的な距離ではなく移動距離だ――時間がかかる、あるいは誤差が出る。距離と時間、だからこそ速度が絡むと考えるのは算数レベルの思考で当然だが、さすがに数日だけで公式が浮かぶほどに僕は賢くはないし、ほかにやることもあった。

 ただうっすらと、光年なんて時間を距離にして示すように、A点とB点の間が大きければ大きいほどに、何かしらの影響があるのではと――まあ、これも仮定でしかないか。

 どちらにせよ、以上を踏まえたところで、僕がどのようにして転移したのかを想像することはできるけれど、しかし、それは想像の領域を出ない。加えて、あくまでも体感なのだ。論証を組み立てるのが難しく、立証なんてほど遠い。それこそ一年は研究したいものだと思う。

 ――だから、スフィア関係の本はあるのだろうかと思って、僕は図書館へ足を運んだ。結構な広さがあって、品ぞろえも名に憚ることなく良好だ。僕は背表紙を眺めながらあちこちを歩いているのだが、ジャンル別けはある程度されているものの、そうした技術関連の専門書は見当たらない。大半は娯楽系が占めており、いわゆる勉学に使うような歴史書なども見当たらなかった。

 出入り口付近に張ってあった紙には、貸し出しは基本的に不可能だが、ここにある本ならばレッドに転送することで、一応の持ち出しは可能らしいが、娯楽関係はいらないな。好き嫌いではなく、今の僕が読むようなものではなし、だ。そういう本も読む、なんて態度を作るのならば、それこそ内容を理解した上でないとボロが出るし、だったら最初からしない方が賢明だ。

「――湯浅さん」

 その言葉は間違いなく僕へ向けられたものであり、声色から誰かを推察しつつも、僕は反応せずに適当な一冊を抜き出す。紙の質感は変わらないものだ。実はここで、僕のことじゃないよな、みたいな反応で振り返ることも可能だが、それはそれで面白くない。睨みつけるように、僕の名前は違うんだが、と口に出して言うようなキャラでもないし。

「湯浅さん」

 もちろん、二度目も反応せずに、ぱらぱらと内容を確認。なんだこれ、愛を感じる性行為……女性向けの本か、クソッ、なんの試練なんだこれは。僕にどうしろってんだ。

「……雨天さん」

 三度目、名を変えられたが、もちろん反応しない。ここで振り返れば聞こえていることが相手に知られてしまうからだ。つまり、それはわざとらしい態度にもなる。だから四度目に、かなり傍に来て放たれた声に、僕は顔を上げた。

「雨天さん?」

「――ん、あれ? ああ、こんにちは、総合管理課責任者殿」

 小さく微笑んで頭を軽く下げる会釈を一つ。けれど伏見こゆきは相変わらず不動の、冷たい表情のまま、小さく肩の力を抜いたようだった。

 何故? さて、どうしてだろう。僕が湯浅でなかったことを確認できたからか、それともできずに僕が反応をしたからか。

「プライベイトなので、その呼び方はやめていただけますか」

「だとするのならば、その命令に従う必要もありませんね?」

「ビジネスであっても、一般の方には命令などしません。どうぞ、こゆきとお呼びください」

「それは構いませんが……どうか、なさいましたか」

「いえ、ちょうど見かけたものですから、お話でもと。ご迷惑でしたのならばお断り下さい」

 そう言われて正面から断るのには、勇気と理由が必要だ。今の僕にはそのどちらもない。ただし、偶然を装った態度に疑問を浮かべる程度には猜疑的だ。まさか、こんな偶然などあるはずがない。

「何を探しておられたのですか?」

「ここでの生活に馴染めてきたのか、暇な時間ができるようになりましたので、そんな折に何か読むものはないかと、こうして足を運んでみただけです」

「なるほど。しかし、その本の内容は感心しませんね」

「それとこの服装も?」

 僕は笑いながらスルーして本をしまう。さすがに内容を主題にされると、適当に抜いたことがわかってしまうので避けたい。というか、なんで別の意味で実用的な本が、この文芸コーナーに置いてあるんだ。どうかしてる。やっぱり僕への試練なのか。

「服装はリイディの趣味ですよ。僕は被害者……ではありませんが、拒絶していないだけで、同じような意味合いです。あるいは被験者かもしれない。それとも腰のポーチが女性物ではないことが? 中身が気になるようなら、さすがに手順を踏んでいただかないと」

「……人の趣味にとやかく言うつもりはありません」

 ただ趣味を疑いはしますが、なんて面白くもない表情で彼女は言う。ちなみに、腰にはベルトのように装着する小型のポーチがあり、中身は簡易工具が底に敷かれ、非常用の食料などが上に乗っている。どちらも、日常的には使わないものだ。こう言ってはいるものの、実際に調べられたら言い訳には苦労しそうなので、勘弁願いたい。

「プライベイト、ということは休憩中ですか?」

「ええ。私もたまにはこうして休めと、ディに言われるので仕方なく。出歩いても避けられることの方が多いので、就業中を狙って身動きすることが多くあります」

「そういえば、ディさんの名称ですが、アルファベットのディですか? それとも愛称や略称を? ――おっと、プライベイトで堪えられる範囲内で結構ですが」

「その通りです。私はエースと呼ばれることもありますが、ディは序列として、一応は私の次になります。もっとも、担当がそれぞれ違うので序列はほとんど意識しませんが。ほかにはジェイ、ケイ、エル、アールの五名が管理課の主だった人材です」

「なるほど、効率的ですね。しかし管理課の席を離れても問題ない様子には、さすがに驚きました――失礼、今はビジネスではなくプライベイトなのだから、こうした話題に長く触れるのは避けた方が良いですね」

 小さく笑う僕に、彼女は少しだけ警戒を表に出した。先ほどからビジネスとプライベイトを混合させるような問いをしながらも、仕切り直しとばかりに二つを彼女に意識させ、区分けさせるような話術を構築しながら、線引きをさせようとしていることに気付かれたのだろう。

 ビジネスならば訂正しなくてはならないことも、プライベイトではしなくても良い場合は多くあるものだ。けれど、間違いなく伏見こゆきは一人なのである。二つを内包していたところで、彼女自身の判断はいつだとて彼女のものであって、二つは関係がない。

 いわゆる、これは簡単な揺さぶりだ。押し引きではなく、左右へ揺らす。安心と警戒を連続して与えて混乱を誘発させるのと似ている手法で、これによって得られるのはつまり、伏見こゆきがどの点で線引きを行っているか、またどこまでは行えていないか、だ。

 警戒が顔に出るようでは、事務仕事はともかくも、やはり交渉ごとには向いていないらしい。

「――同室の方から悪影響を受けているようですね」

「それはビジネスの方で?」

 表情を元に戻しての言葉だったが、続く僕の問いに対しては更に警戒が発生する。表情が締まる、空気が張りつめる、そういう感覚に気付かない振りをした僕は続けた。

「その悪影響というと、たとえば、あなたがた管理課を嫌っていることに関してでしょうか」

 警戒のレベルは上がる――か。とっくに察知していながらも、まだ七日程度しか過ごしていない僕が、そこまで理解していることに安心はできないだろう。けれど、でも。

「――あんな子供の遊びに付き合ってはいられませんよ」

 僕は失笑を浮かべ、そう吐き捨てた。

「こゆきさんも、そうは思いませんか? そうでなくては放置しておくはずがない。まあリイディは悪知恵が働くので厄介ですが、境界線を見せてやれば、それ以上は不用意に突っかからないだけの思慮を持ち合わせている。遊びならば、好きにさせておくのが一番だ。違いますか」

「あなたは……そうではないと?」

「うん? ええと、何がですか? それほど悪影響は受けていないと思いますけど……ただまあ、僕にとって教えを請うのは大抵が正晴なので、間違ったことを教えられているかもしれませんね」

 それは困るなあと、警戒させておきながらも、僕はその空気をあっさり取り消すように身を引く。とぼけたような態度に毒気でも抜かれたのか、数秒をおいて警戒を解こうとした瞬間に、僕は改めて踏み込む。

「――けれど甘く見ないほうがいい」

「え?」

「子供はいつだって、遊びに限度を見出さない。それを知るのは誰かに怒られてからだ。中には怒られたからこそ、限度を越えようとする子供だっている。見つからないよう、隠れて、こっそりと」

「それは……そうですが、彼らがそうであると?」

「それはプライベイトの質問ですか? ビジネスの質問ですか?」

 クッと喉の奥で笑いながら言ってやると、何かを言おうとした彼女はしかし、首を振って吐息を小さく落として、口を噤んでしまった。さすがに踏み込んではこないか、良い判断だ。けれど僕ならば逆に、プライベイトで話せる範囲を口にするけれど。

 まあ、それでも感情が自分で制御できているのは良いことだ。女性は論理よりも先に感情で動く場合が多いのだけれど、さすがは管理課の責任者だ、自分よりも状況を優先させている。

「よく――」

「――わからない人だ、そう言われることもあります」

 会話の流れを掴み、主導権を握って流れそのものを僕が作ってしまえば、次の言葉はだいたいわかる。わからなくても、よほど的外れでなければ否定はされない。

「ディさんもそう言っていたでしょう?」

「……」

「言っていないかもしれませんが」

 小さく笑ってから僕は両手を広げる。何も知りません、のアピールだが、さてどう受け取るだろうか。ディの尾行が何度かあったのは既に、ショーウインドウで確認している。こちらの様子を見ているだけで、ほかには何もしてこなかったので放置していたし、僕が気付いていることを、気付かれるような下手は打っていないはずだ。

 けれどまあ、あまり苛めるものでもないかな。

「あ、そうだ。ビジネスの話になりそうですが一つ、聞いてもいいですか?」

「……なんでしょう」

「あれ、おかしいな。なんか警戒されてるんだけど、僕なにかしましたっけ。……まあいいや、リイディのところに情報端末がありますよね。大きいのが」

「それはこちらでも確認しております。いわゆるレッドで行う掲示板で、本来はこちらが所有しているのですが、繋がりを持たない単独の個人所有サーバになります。それが、どうかしましたか」

「たとえば僕のレッドで、リイディの情報端末に不正アクセスをした場合、その処罰を管理課――そちらが行うのでしょうか」

「やるつもりなのですか」

「え? いや、リイディはそういう対処もしてるだろうけど、実害があったら大変じゃないかなあと思ったので」

「……そうですね。その場合はリイディさんから被害申告があり、その内容がルールに違反していたものならば、管理課で処罰することもあります」

「なら、たとえばリイディの承諾があって、情報処理学科の人たちが腕試しに不正アクセスを試させてくれと、そうやって挑んだ場合は手出しをしないんですね?」

「そうなります。最低ラインとして、リイディさんが被害申告をしなければ、私どもが手を出すことはありません。もちろん、それが管理課が担っているサーバへの不正アクセスならば、話しは別になりますが」

「実例がありそうですね、それ」

「はい、前例はあります」

 レッドを使うことが前提なら、発見から拘束までは実に簡単だろう。行動を封じたいならレッドを管理課側から停止させてしまえば、移動すらままならないのだから。

「そんな問題が発生しそうな状況であっても、休めと言われるほどに職務熱心なんですね」

「当然です。それが私の役目ですから」

「義務感で?」

「あなたは自分の代わりがいたのならば、席を譲れるのですか?」

「――なるほど」

 譲ったのだからここにいるのだけれど、僕は頷くにとどめる。自分しかできないことなど、世には多くないし、責任感を持つのは当然だけれど、背負い込むのとは別である上、義務感など思い込みでしかない。それは、ただの拘泥なのだから。

 ……擁護するわけじゃないけれど、それは悪いことじゃない。どちらかといえば、僕のように拘泥しない方がおかしいのだ。ある意味で無責任だろう。席を譲るのと後を任せることは別なのだから。

 けれど、僕は、自分の代わりがいたのなら、間違いなく席を譲るけれどね。

「体調には気をつけてください。無理とは自覚できるものと、無自覚なものとありますから。僕が言うのもおかしな話ですが、他者の声に耳を傾けることも、たまには必要かと……いや、そうじゃないな。ええと、なんだったか――そう、ご自愛ください」

「ええ、ありがとうございます。それよりも、どのような本をお探しでしたか?」

「ああ、あれは嘘です。こゆきさんを待っていたんですよ」

 いや、本当はこの言葉が嘘だ。でも、一度は言ってみたい台詞なのは間違いあるまい、男性諸君。

「授業科目も部活動も決めていない内から暇を持て余すなんて、あまりにも現実が見えていないし、僕はこう見えても躰を動かすのも嫌いじゃないんです」

 読書も嫌いってわけじゃないけれどね。

「あなたは……一体、どれが本当のことですか?」

「嘘は苦手ですよ」

「ゼノンのパラドクスを思いだします」

「それは失礼、難しい顔をさせるために会話をしているわけではありませんでした。だったら……そうですね、こゆきさんはギャンブルは嗜みますか?」

「え、ああ、そうですね。施設にはギャンブル場も設けてありますが……私はあまり足を運びません」

「警備部が根城にしているようなことを聴きました。こゆきさんが行くと委縮されるかもしれませんね」

「それもそうなのですが」

「おっと失礼、プライベイトでしたね。いや僕はよく忘れる――」

 わざとだ。それにしても、僕ってかなり嫌な人間を演じてるなあ。誰か褒めてくれないかなあ……。

「ということは、あまり好まない?」

「そうですね、どちらかといえば苦手……でしょうか。以前、一時期だけ通っていたこともありましたが、ディに止められました。プライベイトの時間を取らないせいか、金銭も溜まる一方で、その消費にと思っていたのですが」

 どこか困ったような表情で、彼女は少しだけ僕から視線を逸らして言う。

「負けると、その、悔しくて」

「――ふ、くく……通い詰めてしまったと?」

 そうですと返答するこゆきの頬が少し赤い。演技だとしたら大したものだ――が、感情に身を委ねることもできるのならば、プライベイトであることを加味して、おそらく演技ではないだろう。

「ならば、それなりに腕前も上がったでしょう?」

「公共ギャンブルとはいえ、彼らも仕事です」

「それはそうでしょうけれど……いや、興味がわきました。暇があれば顔を出してみましょう。経験しておくのも悪くはない」

「ほどほどになさって下さい」

「わかっていますよ」

「――失礼、そろそろ職務に戻ります」

「もてなすこともできませんでしたが、少しでも息抜きになったのならば何よりです」

 まったく、疲れさせるようなことを僕が仕掛けているのに、その顔でよく言ったものだ。

「では、最後にビジネスの話ですが、こちらへいらっしゃった時の所持品の検査が済みましたので、後ほど部屋に送っておきます。しかし、ポケットに入っていたあの工具は?」

「それはビジネスの質問ですか、それともプライベイトで?」

「ビジネスです」

 さすがにこれは即答するか。

「あれは僕の友人の形見です。数少ない友人でしたので、返していただけるのならば、それ以上に良好なことはありませんね」

 これは嘘ではなく事実だ。小型ナイフも組み込んである自作ツールであり、ドライバーやレンチは当然のこと、整備だけではなく幅広い使い道がある。サイズは小さい癖に、ポーチに入っている工具全部を足しても、そのツールの方が使い勝手が良いくらいだ。彼女は勝手にくたばってしまったので、以前に渡されたそれが結果的に形見になってしまったのだけれど。

 僕の問いに満足したのか、失礼しますと頭を下げてから彼女は去った。僕は本棚に寄り掛かるようにして見送ったのち、小さく肩を揺らす。

 ――様子見なのは間違いない。ただ、僕に対して探りを入れることはわかったが、危機感を持っているかどうかは別で、湯浅と呼んだことから何かしらの確証でも持っているのかとは推察できるものの、今まで僕が得た情報の中に、その確証に至るだけの要素はない。となると、彼女が持っている何かがあって、それに僕が気付いていないのか、それとも別の要因なのか。

 まったく、新天地とはこれほど面倒なものなのか。僕が考えすぎなのかもしれないけれど、地盤を固めることが困難な状況が、不安定なつり橋のようで、失敗を失敗として受け取れない場面が多くある。それが致命傷にならなければ良いけれど。

「さてと。……見つからなくて良かったと、とりあえずはそう言うべきかな? もう出て行ったから顔を出してもいい頃合いだろう、古宮。それとも知らない振りで僕も行った方がいいかな」

 どんなものか――なんて思っていると、隣の本棚からゆっくりと顔を見せた古宮は、強張った表情のまま五歩の距離で立ち止まって僕を見る。そんなに怖がらなくてもいいのに。

「いつから……気付いてたのよ」

「最初から、なんて言えば古宮はもっと警戒しちゃうかな? だとすれば僕はここで、彼女と会話をしている最中に気付いたと、あるいは当てずっぽうであって予想してみただけだと、そう言った方が安心するかもしれないね」

「どっちよ、それ」

「どちらでも同じってことさ。遠慮せずに顔を出しても、僕は気にしなかったのに」

「や……私、伏見さんが苦手なのよ。それにここへ来たのも偶然だから」

「緊張もするし?」

「まあ、ね。でもあんなに感情を見せた伏見さんは初めてかも。いつも固いっていうか……あの人も女性だったんだ――あ、これは失礼ね、うん。どこからどう見ても女性だもの」

「プライベイトだったからね」

「そう? いちいち確認みたいに口にしてたけど、伏見さんとしてはどうだったのかしら」

「少なくともゆっくり休めたようには見えなかったね」

 プライベイトなら割り切ればいいのに、なんて冗談交じりで付け加える。これに懲りて、二度と僕には逢いに来ないなら、それはそれで楽だが、どうかは彼女次第だ。

「紅音は緊張してなかったみたいね」

「うん? そうでもないよ。プライベイトとはいえ、彼女は責任者だからね」

 とりあえず座ろうかと、隅にある読書スペースに古宮を誘い、向き合う形で腰を下ろす。その際に古宮はさりげなく周囲を窺っていたようだが、監視カメラの死角までは考えていないらしく、平和ボケの一種だな、なんて思って苦笑する。

「――私たちのやってることは、子供の遊びだって?」

「不満かな。でも、大人の遊びじゃなさそうだよ」

「ちょっと、そういういやらしいこと言わないでよね」

「わかった、わかった――あれ? 僕、女遊びとは言ってない気がするんだけど」

 視線を逸らした古宮は顔が赤く、思春期真っ盛りだ。悪いことではないし、僕もそう思わせるような言葉を選択したのだから、同い年の反応としては、古宮が圧倒的に正しい。

 ――僕が、間違っているのだ。

「じゃなくって、真面目な話よ」

「心外だなあ。僕はこれでも真面目なんだけれど」

「え、どこが? リイディの選んだ服が似合いすぎてる」

 真顔で問い返されても困るな。不真面目を気取っているわけではないのだけれど、そう見えるか。けれど、古宮みたいな手合いと真面目な会話をするのは、馬鹿らしいというか面倒というか。

「僕はべつに八方美人ってわけでもないからね。もしも、子供の遊びだと言われて何かに気付いたか、何かしらの感情を抱いたのならば、どうしてそう思ったのかを自分なりに考えるといい。どうしてそんなことを言ったのか? なんて、そんな安直な問いには答えたくないし、たぶん答えてもためにならないよ」

 自分の意見も持たない相手と長話ができるほど、僕も大人ではないのだ。忍耐強いとは言われる方だし、逆手に取って掌で転がすのは簡単で助かるけれど。

「雑談ならともかくも、真面目な話ならなおさらだね」

「厳しいわねえ」

「だかって、不真面目な話をしてるつもりもないよ? どこまでのレベルかってのは永遠の問題だね。でもまあ――疑いはする」

「え? なにが?」

「いくら思春期真っ盛りでも、ちょっと反応が良すぎると思うんだけれどね」

「うっさい」

「――気配の隠し方が上手い。鼓動制御まで習得してるのかな? もしそうなら、疑うよ」

「あんたって……なんでそう緩急があるかな」

 仕方なさそうにため息を落とされるけれど、これは作っているだけだ。動揺を誘う手口の初歩……なるほど、古宮はそんな技術までは学んでいないらしい。

「わっかんない。なんでリイディはそんなに気に入ってるのかしら」

「え、僕ってリイディに気に入られてるわけ?」

「なんかね……と、言ってなかったかもしれないけれど、リイディとは同室なのよ。なんだかんだで、気にしてるみたい」

「ふうん。古宮は?」

「私はべつに……気にはしてるけど、気に入ってるのとは別だと思うし。あ、正晴と付き合ってるとかそういう話もないわよ?」

「そこまで聞いてないけど、ちょっと残念」

「ちっとも残念そうな顔をしてない」

「睨まれても……元からこういう顔だよ。それよりもだ、偶然ってことは古宮も何か本を探しに?」

「や、私はここの手伝いをしてるから。図書管理部に所属してるの。とはいっても、今日はシフト確認で寄っただけだから、偶然ってことね」

 偶然、ねえ。となると、こゆきはそれも見越していたことになる。なんだ、やっぱりビジネスじゃないか。

「そういうことだったんだ。正晴も今日は部活だって喜んでたけど……あれは勉強が好きじゃないってタイプかなあ。ん、違うな、椅子に座ってじっとしてんのが嫌いなのか。それだけじゃないかもしれないけれど」

「紅音はそろそろ決めた?」

「まだかな。授業にせよ部活にせよ、やった方がいいとは思っているけれど、まだそれをやってる自分が想像できない」

「そっかあ、確かにまだ早いかもね。……いや早いわよ。まだ七日よ? なんでこう、あれよ、もう馴染んでんのよあんたは」

「責められても困るなあ」

 郷に入っては郷に従え。

 僕は一週間もあればそこのルールを――もちろん教えてくれればだが――遵守しながら生活することができる。それがどんな場所であっても、順応するための演技を行えるわけだ。それでも、やはり僕は僕という自己を変えようだなんて思わないけれど。

「そういえば今日、リイディは?」

「あの子はたぶん、自分の研究室じゃない?」

「個人の研究室なんて持ってるんだ、凄いな」

「いやいや、部屋が余ってるだけで、リイディの専門をやろうとしてる人がほかにいないのよ。多くは生産系の研究で、リイディは工学に近いこともしてるらしくて」

「職種が違うってやつか」

 ということは、リイディが僕を掴まえたのは意図的ではあるものの、古宮には伝えていなかったのか。単独行動での接触……とは思えないな。あの性格だ、いくら他人をいじって遊ぶのが趣味でも、僕という個人が絡んでいるのならば、古宮に一言くらい伝えてあってもおかしくはない。同室ならなおさらだ。

 ならば、今日に接触することを知らされてないのか。同時に、古宮もまたその情報を僕に教えないようにしているはず。だから、逢っていないのかとは問えない。

 三人で攻略してもいいと思うんだけれど、それを選ばないのは古宮が言った通り、僕がまだここへ来て一週間だからだ。でも逆に気付いてないのかなあ……だからこそ、たった七日だからこそ、――あまりにも僕というプライベイトを把握できないことが、おかしいってことに、気付かなければ。

 環境が変わった直後、人は必ず無防備になる。右も左もわからない状況ならば、習慣を隠すことすらできず、誰かを頼ることで己を晒すものだ。もちろん僕だって、頼ってはいる。ただし、他人に頼るのは二番目だ。

「図書の管理ってのは、どういうことをしているの?」

「基本的には優良図書の整理や分別から、作家先生の検閲と校正、場合によってはデジタライズ。レッドで読みやすい形式にする作業とか、プログラムは作れないけど意見は出せるしね」

「そこらはプログラムで自動化できないの?」

「できないっていうか、しないっていうか……同時作業みたいなのもあって、デジタライズだけするってわけでもないから」

「手作業でするメリットもあるってことだね。欲しい本があるようなら、検索も頼める?」

「もちろん。そういうデータベース化も私らの仕事だからね」

「まさに図書室……いや、図書館だ。とはいえ、僕はこれといって読みたい本もないから、いいんだけどさ」

「じゃ、なんで聞いたのよ。っていうか、なんで図書館にいるわけ?」

「そりゃもちろん、古宮に逢いに」

 台詞は違うが二度目の言葉に、かなり疑わしい視線を向けられた。これは嘘だとしても、正晴から図書管理部に古宮が所属していることは聞いていたため、いるかなとは思っていたのだ。つまり、気配云云は別にして、事前情報から状況を察したのであって、さすがに近くに人がいるのはわかっても、それが誰か特定できるほど僕は技能を持っていない。いわゆるハッタリにも近い技術だ。もちろん失敗しても冗談で済ませられる状況で使うことが効果的であるし、それなりの確証もあったのだけれど。

「あんた、誰にでもそういうこと言ってんでしょ」

「まさか。ちゃんとリイディに逢ったら、奇遇だね嬉しいよ。どうだろう食事でもと、対応するよ」

「じゃ、私なら?」

「だから、古宮に逢いにきたんだと、そう言ったじゃないか」

「んー……正晴の場合は」

「え? 買い置きの茶菓子はまだあるけど、茶葉が減ってきたよと」

「正晴の和菓子好きに付き合うと太るわよ」

「僕は運動が嫌いじゃないからね。運動は嫌なくせにダイエットをしたい、だなんて戯言を口にするようなら――……うん古宮、運動しようね」

「うっさい。ってか、リイディに興味あるの?」

「興味なら古宮にも、もちろんあるよ」

 ただしその場合は正晴にも該当するタイプの興味だが。

「や、だからそうじゃなくて」

「そうだね、リイディは性格も含めて僕の好みのタイプではあるかな。躰もね。でもリイディの方はどうだろう」

「ん? だから気に入ってるって――」

「それ以上に、警戒しているのが実際だろ。古宮もね」

「……そういうこと、本人の目の前で言う?」

「僕は普通じゃないからさ、事実確認はきちんとするよ」

 僕がそれを察しているのだと伝えておくのも、悪くはない。黙っておいて反応を窺うのも手だが、どちらにせよ反応はしてくれる。どちらの方が情報を引出せるかを考えるものだ――が、さすがにこの程度のことで、そこまで意識はしない。

「紅音って、本当に掴みどころがないわね」

「お腹の肉も古宮と比べて――……うん、そうだね、気にしてるんだ。そうか、よし、今度僕と一緒に運動しよう。大丈夫、僕の知っているダイエット方法を試せば、間違いなく痩せられるよ。そうとも――二日ほど流動食になるけど」

「最後なにを小声で付け足したの!?」

 僕が初めて経験した時が二日だったから、もしかしたら三日以上引きずるかもしれない。ベッドから起き上がるどころか、お手洗いに行くことすら困難な状況だったのは記憶に新しい。しかも体罰ありで尻をさんざん鉄の棒みたいなので叩かれたので、寝るにもうつ伏せじゃないと無理だったというか……。

「興味と暇があるなら、言ってくれれば付き合うよ。あ、そうそう、覚悟も必要かもしれない。うん、覚悟ね……僕の時はそんな暇すら与えられなかったけど……ああそっか、その方がいいのかもね、うん、きっとそうだ……」

「ちょ、ちょっと、なんで遠い目をしてんの」

「え……? ああ、懐かしんでただけだよ。それだけだ。本格的に思い出すと気持ち悪くなって胃液が逆流するから、さすがにしないけどさ」

「紅音、あの、……だいじょぶ?」

 おっと、いかん。思い出す前にやめておこう。とりあえず会話の流れは消えたようだし。

 掴みどころがない、その感想は頷ける。誤魔化さずに済むことも誤魔化し、嘘を吐かなくてもいいところで嘘を言えば、大抵の人間は掴みきれなくなるものだ。何故ならばそこに言動の一致、ないし本質が見えないからで、そうかと思えば一致している部分も見せる。そうして嘘ではないけれど本当のことでもない会話を交えて会話を行えば、嫌な人間が一人できあがるわけだ。

 とはいえ、半分以上は演技だけれど。というか、演技じゃなければ相当嫌な人間だ。騙される側はとんでもない。もしも僕がそんな人物と出逢ったら、間違いなく殴ってるぞ。……うん? つまり、まだ殴られてない僕は大丈夫ってことだ。オーケイ、上手くやろう。

「そういえば、形見とか言ってたけど……どういう意味?」

「どうって?」

「形見ってなんだろうと思って」

「亡くなった人物の遺品だよ。それを受け取ったんだ」

「うん、それは辞書で調べた。形見分け……でも、葬儀って形式だし、故人の所持品って普通は親とか、せいぜい親戚とかが貰うもんじゃないの?」

「親や親戚にも形見分けはするけれど、仲間にだってするさ。僕とその友人には、そういう繋がりがあったからね。だから僕にとっては大事なものだ、返してくれるってのは助かるよ」

「ふうん……? なんか、よくわからないけど、そうなんだ」

「そうなんだよ。とはいえ、僕の形見分けは期待しない方がいい。大事にしてるのはその形見くらいなもので、僕はあまり荷物を持たない主義だから」

「や、それはしないけどね。ただ人が死ぬっていうのも、なんかこう、ピンとこないし」

 それは――重症だぞ。

「人は、死ぬよ。死なない人はいない」

「その人がいなくなるってことでしょう?」

「まあね」

 死に対しての隠匿か――クソッタレ。聞きたくはなかったな。実に気に入らないが、だとすれば屍体への対応を一度見ておかないと、危機感を煽ることすら困難になる。けれど、だとするのならば、鼻の利く連中がすぐさま発見して処理という流れが必ずあるわけだ。

 なるほどね。

 なるほど――怒りでどうにかなってしまいそうだ。

「なに、笑って」

「――え? 僕、笑ってた?」

「なんか嬉しそうにしてたじゃない。自覚ないの?」

「なかったね。そうか、嬉しいか……僕はあまり感情が表に出ないから、難しいな。面白いと思うことはあるけれどね。ほら、正晴なんかは結構面白いよ」

「正晴が? ……そうかなあ。あ、面白くないってわけじゃないよ」

「……んあ、噂の当人からメールだ。荷物が届いたってさ」

「そろそろお昼ね。一緒する? リイディも誘おうか?」

「いやいや、今日は自室に戻ってから、改めて部活動なんかのリストとにらめっこしてるよ。そろそろ決めようと思ってたところだからね。一緒するのはまた今度に」

「そう。なら、夕方に顔を出すかもしれないから、先に正晴と逢うようなら伝えておいて」

「諒解」

 利害の一致した関係、か。

 人付き合いも含めて、確かに彼ら三人は違う方面から情報が集まるんだろう。鮮度が命と言われる情報も、使い方を間違えれば無駄になることを、さて、彼らは知っているのだろうか。


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