04/15/11:00――ミヤコ・帰郷
吹き抜ける強い風に肩ほどまでに伸びた髪を抑えれば、袴装束の裾を揺らしながら抑えた髪ではなく足元をすり抜けるようにして遠ざかって行く。落ち着くのを待って大きく空気を吸い込めば、そこに含まれる湿度のなんと多いことか。
風が来る方向は北西、視界に見える街は南側なのだから逆方向から、つまり追い風になるはずが、強すぎる突風は人を飛ばしかねない。数秒後、遠くの森が通り過ぎた風に揺らされてざわざわと音を立てるのすら聞こえた。
懐かしいなとミヤコ・楠木は口元を小さく綻ばせる。風が強い土地であり、また海に面したノザメエリアは海上の雨雲を寄せやすく雨も多い。今日は雲が流れているだけで雨雲のは見られないが、これは珍しいことだ。
故郷に戻ってきた。生まれた土地、過ごした場所。いつか戻るだろうと思っていたのに、随分と時間がかかってしまったように思う。変わっているはずだ、という思いと変わっていてほしくはないという思いが内面で同居し、今にも走り出したい足を抑えながらも、確実な一歩をミヤコは踏み出した。
「うっわー、おっきい! ねえねえ、これって国じゃなくて街なんでしょ?」
「姉さん、落ち着いて」
「えー?」
騒がしい声にミヤコの笑みの質が変わる。ミヤコよりも走り出したい気持ちで一杯なのは、同じ袴装束に身を包んでいる女の子だ。見るものすべてに新鮮味を感じているのか、それを躰全体で表現している。おかっぱ頭が跳ねるたびに揺れるが気にしていないらしい。
対照的に落ち着いているのは大きめの黒衣を肩にかけた男の子。それでも好奇心は抑えきれないのか視線はあちこちに飛び、足元が疎かになって転びそうになったこともう数度、そのたびに頷いて己を戒めているようだが、それがまた微笑ましい。
二人はミヤコの子だ。双子でありもう十歳になる、女の子はイザミ・楠木。男の子は父親の姓を継いでリンドウ・リエール。今回の帰郷に同行させたのは、昔に十歳になったらと約束していたからだ。
まだ元服も迎えていない二人にとって、それでもこの状況は新鮮だろう。初めて旅をした時のことを思い出せば――いや、状況が違いすぎるか。
「あそこはノザメエリア。あたしの生まれ故郷ね。もちろん街よ」
「へえー、ウェパード王国も大きいけど、街でもあんなになるんだ」
「母さん、風も強いけど水気がだいぶあるね」
「あ、それだ。すっごい水気ある! でも地面は硬いよ?」
「さあ何故でしょう?」
問うと、うーんと唸りながらイザミは首を捻る。
「風は乾いてるよね。でも気温としてはちょっと寒いかな。それで空気や地面に水気が残ってるんだけど……ねえリンドウ」
「うん。水が残留しにくい環境ってことかな。ここは四番目だから、僕は雨だと思う。背の低い草が多くて芝生みたいになってるだろう? 水の吸収率が高いんじゃないかな」
「雨を呼んで、追い払うのも風かあ」
「街に入ってみればもっとわかるかもしれない」
「よーし!」
行くぞ、と拳を突き上げるイザミの左腰に佩かれている刀は模造ではない。さすがにミヤコの持つ村時雨のような業物ではないにせよ、人を殺すに十分な得物だ。そして技術もある――が、幼い女の子が持つものではないとミヤコは否定して来なかった。
どのような得物、武器であれ問題となるのは使い方だ。かつてミヤコがそうであったように、扱い方はよく教えてある。
「それで、どれくらい戻ってないの?」
「ん? そうねえ、だいたい十五年前くらいになるのかな。といっても、前に話したかもしれないけどあたしは孤児だったから、厳密にはここで生まれたわけじゃないのよ。物心ついてからはずっとここだったけどね」
「母さんは、出生を探るために旅をしてた――わけじゃないんだよね? 父さんがそう言ってたけれど」
「そうね、昔も今もそんなに拘りはないよ。旅をしてたのはあたしの友達がいたから」
「えっと、リウさんだったっけか」
「そう。あたしの目標みたいな友達だったけど――」
たぶんきっと、もう逢えない。そんな確信があるのだけれど、それを口にしても二人にはわからないだろう。それで良いと思えてしまっている気持ちも、きっと理解できまい。
「――影響されたってのが一番かな。あ、一度街に入ったらしばらく外には出ないつもりだから、何かあったら今のうちにね」
「はあい! ――あ、妖魔だ」
「ん、どこ姉さん」
「空だって、空。飛んでる。あれ? でも妖魔よりはワイバーンに近いかな?」
「……もしかしてあの黒いの? さすがに僕には見えないよ」
「そっかあ。ねえかーちゃん、もしかしてここって妖魔が多いの?」
「んー、
「姉さん、何か感じる?」
「うん。あちこちに妖魔が動いた形跡がある。街の近くなのに。でも規則性がなくって、途中で途切れてたり方向も定まらない……けど、戻る先もいろいろ違うんだよねえ」
「――そうか。姉さん、風の特性は〝気まぐれ〟だよ」
「そうだっけ?」
「そうなの。母さん、ちょっと待って。草と土を採取したいから」
「あはは、いいよ」
「勤勉だよねえリンドウって。それよりお腹すいたかも」
「そうね。街に入ったらまず食事にしましょうか」
急ぐことはない。そもそもミヤコには時間制限もないのだし、問題がなければ一年と滞在しても良いわけだ。夫の了解も受けているし、何よりあの旦那のことだ、逢いたければ自分から来るだろう。
――それでも、心の隅にはいきたくない理由もあった。
行けば確実にわかってしまう。ほんの半年前に訪れたあの感覚を言葉にするのは難しいが、それでも直感的に事実だとわかっていて、それを理解しながらもまだ、現実として突きつけられていないから――行けば。
突きつけられる。
受け止めなくてはならない。
それでも、ああ、こんな自分をリウが見たら笑うだろうか。
そんなこと、わかりきってるのに止まってどうするのよ――ああ彼女の言いそうな台詞だ。だからわかってるとミヤコは苦笑した。
「――っと、ちょい待って。こっち」
「んー?」
ノザメエリアが確認できる範囲。街道からは外れたその――岩場は。
「あー、懐かしいな」
「岩場……? 距離はそうでもないけど、射線は隠れる、か」
「そう。昔、あたしが鍛錬場にしててね。ああ、あった」
ちょっと中に入れば、刻まれた岩が一つある。
「うっわ――なにこれ」
「ん……? 表面は風化してるみたいだけど、母さん、これは切断跡だよね」
「あたしじゃなくて、昔の知り合いがね。イザミには、まだちょっと難易度が高いか」
「かーちゃん、だってこの岩くっつけると、あたしの何倍もあるよ?」
「でしょうね。ちなみにリンドウ、術式は使ってなかったよ」
「体術だけ……?」
「ちょっと離れてなさい」
ひらひらと左手を振って距離を取らせ、同じくらいの大きさの岩を前にして立つ。十五年も前は、あの頃のミヤコは、そもそも岩を斬れるだなんてことを、結果として見せられなければ、それこそ術式を使ってならば、くらいにしか考えていなかっただろう。
あの時、エイジェイは確か、点から線へ限りなく無駄なく続ける――なんてことを言っていたっけか。その言葉も今なら理解できるし、そもそもそれは、斬戟と呼ばれる現象そのものを指している。
それが今はどうだ。
後ろに下がりながらも、興味津津で見ている子供二人を前に、斬る角度を考えて反対側にずらさないと危ないな、なんてことを考えていた。
「――くっ、見えなかった!」
自然体のまま、かちんと鍔が落ちて音を立てる。それを聞いて悔しそうな声を娘が出すけれど、なんというか、微笑ましいと思えてしまう。
ずるりと、岩が動いて反対側へ倒れる。なるほど、これは。
「確かに、曲芸の類ね」
「え、そうなの!?」
「そうなの。さ、行きましょう。もう目の前だから、すぐだけれどね」
いつまでも目を逸らしていたって仕方がない。いろいろと、事実を確かめようじゃないか。
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