空歴381年
05/22/19:00――リウラクタ・夕闇に臨む
黄昏時、と呼ばれる夕方の時間を、クロナ・バチタはあまり好きではなかった。
やや小柄な体躯を覆うのは黒色の装束。スカーフで口元を覆い隠してはいるが、しかし、瞳から上はすべて露出している。やや鬱陶しい髪も、顔を隠すまでには至っていない。
この界隈では暗殺者とうより、隠密護衛としての風貌である。主に夜間の出没となる妖魔には、それなりの戦闘力がなければ太刀打ちもできず、また回避もできない。そのため、往往にして商売用の荷物運搬などでは護衛を雇うのが一般的だ。隠密護衛とは、先導するよう対象の傍で護衛するのではなく、そのサポートとも云える役職である。もちろん、まだ十一歳のクロは、適性がある段階でしかない。
だからか、クロは夜が好きだ。
どうしてと問われれば、視界がより鮮明になるから――と答えるだろう。だったら明るい時の方が良いのではとも思うが、実際に視界に情報が飛び込んでくる日中は苦手だ。夜間は見たいものだけを見ればいい。
その上で何が厄介かというと、この黄昏時だ。日中と夜の中間――早く夜になれと願いながらも、日中とは違う混ざり合った空気の中、己の中の警戒レベルが跳ね上がり、注意深く見なければならず、また同時に、飛び込んでくる景色もある。
だからといって、嫌いだの苦手だの言っていられない。街の中で比較的安全な場所でこそ、好んで対峙すべきだろう。そんなことを思いつつも、小さく吐息を落とす。もちろん外見からわからぬよう、仕草も最小限で済ますし、表情には出さない。その辺りも今までの生活で馴染んでしまったものだ。
――だからって使い走りってのもなあ。
誰かを探すのも、伝言をするために走り回るのも、クロはそう嫌いではない。むしろ自分の性質上、そうした役回りは率先してこなすべきだと思っているし、仕事だとも思っている。ただ今回の場合は、いつものことで、問題となるのは頼む側ではなく、探す相手だ。
何しろ、居場所の予想はだいたいできているため、掴まえることは問題にならないのだが、いかんせん、不定期的に――特に、用事がある時に限って、対象が姿を消すのである。先読みして残っていてくれればいいのに、あるいはその頃を見計らって顔を出せばいいのに、大抵の場合はいないのである。そして、いないとなればクロが捜索を頼まれる。
まったくと、呆れて肩を落としたくもなろう。
黄昏が終わるまでほんの数分、クロは民家の屋根で時間を潰す。高い位置というのは基本的に人の視線が向かない場所でもあるし、人通りのある大通りや商業区からは離れている。その姿を発見することは難しく、見つかったとしても子供が遊んでいると捉えられるだろう。
雨の気配は――遠い。
ここ、ノザメエリアでは、風龍エイクネスが座する
かつては、水害も多かったらしい。建造物のほとんどが石造りであり、露店エリアなどでも雨を凌ぐのは軒下から伸びた石軒だ。視線を下に落としてみても、通路という通路が石畳になっており、雨が上手く流れるような仕組みになっている。べつの街に行ったことのある姉に言わせてみれば、よく言えば丁寧に、悪く言えば病的なまでの対策らしい。
クロにとっては当たり前のものも、余所では違う。けれど比較対象を知らない以上、ここが常識だ。好きも嫌いもない――と。
それはともかくとして、捜索対象である姉は一体どこにいるのだろうか。まず一つ目としては孤児院だろう。クロもそこで生活しているが、姉もまだ元服を迎えていないし、一応は孤児院での保護扱いになっている。となれば拠点とも言えるべき住居に戻るのは自然なことだが、しかし、こちらの用事に気付いている以上、家に戻るなんてことはまずないだろう。
いや、この時間なのだからおそらくと、場所の目星をつけた頃には陽が沈み、クロの好む夜が訪れた。音を立てずに路地へ降りたクロは、のんびりとした動作で移動を開始する。極力無駄を省き、周囲に溶け込むよう不自然さを見せない動きは、やはり暗殺者のそれに酷似していた。
行く先は――海、である。
畏怖の対象として知られる海に面した街なんていうのは、大陸中を探してもこのノザメエリアくらいしかないだろう。身近にあればこそ怖いと思うし、近寄りたくはない。どうしてこんな場所にと正気を疑いたくもなる。
海は、妖魔の巣窟だ。もちろん地上であっても妖魔はいる。四番目の大陸は大規模な討伐隊が作られることもあるが、それでも殲滅には至らないし、そういうバランスが必要なんだなと、そんな常識すらあるが――それは、対抗手段があってこそだ。
しかし、海は違う。
視界に見える夜の、黒色の海面は静寂の名が相応しいほどに変化がない。いくら近づいても波音がしないのは当然で、雨もないから水が跳ねる音すらなく、ただ何もかもを飲み込むように暗かった。
海辺に近寄るだけで、自分の躰が誤作動を引き起こしたような錯覚に陥る。魔力が、体内循環から抜け出せないための圧迫感。
そうだ。
海は、そこに在るだけで、近寄れば、あらゆる術式が使えなくなる。
巨大、あるいは広大な隔絶。四番目と呼ばれているこの大陸にいながらも、一番目から三番目が存在することを確認すらできない現状は、海が原因だ。べつの大陸に渡るなんてのは、自殺行為にも等しく、正気ではやっていられない。
それでも。
現実に、大陸間移動をしている人間を、クロは知っているのだけれど、それが五神と呼ばれる〝
緊張に息を吐けば、視界に姉の姿が映ってぎくりと躰を強張らせる。
いるのに、気付かなかった。気配をまるで感じさせず、ただぼうっとしているかのような背中があり、視線は海の向こうへ。
「――リウ姉さん」
「ん」
声をかけられる前から、隠密性の高いクロの存在に気付いていたようで、驚きもなく短い返答がある。風にやや長い髪が動いており、膝上まであるスカートの裾を軽く押さえながら、逆の手は肩にかけられたストールを飛ばないようにしていた。
「どうかした?」
「それは俺の台詞だろ。明日は先生の襲撃がある、打ち合わせには参加して欲しいね」
「ん」
小さく頷くが、二歳年上の姉であるリウラクタ・エミリオンの反応は鈍い。動きが遅いのではなく、ほかに集中していることは見てとれたので、軽く頭を掻きながら、クロはスカーフの内側で口の端を歪める。
「まあ、俺としても最終確認くらいしてもらえれば、べつにいいんだけどな」
基本的に、リウは不参加だ。あるいは総指揮の位置にある。特別扱いではなく、学校の中でリウだけ飛び抜けてしまっているのが理由だ。そうしなくては、場が整わないのである。
「クロ」
気付けば、こちらを振り向いていた。けれど足を動かそうとしない。本音としては、海から一刻も早く遠ざかりたいのだが、相手が姉であっても自分は男だ、そんな弱味を見せたくはないと思って留まる。
「なんだ?」
「西の方向、何かある?」
「――気付いてたのか? なんだか、ざわついている……みたいな感じはあったから、なんだろうとは思ってたぜ。それ以上はなにも」
「孤児院が西側だから、気付きやすいのよ。ああ、私もどういうことかはわからないから、聞かないでね」
「驚いたな。リウ姉さんのことだから、てっきりわかってるんだと」
「私にはわからない方が多いよ。それで、配置はどうしたって?」
「ああ、うん」
やっぱりこのまま話が進むのかー、と思いつつも、クロは続ける。そんな内心を、リウは知っているのだが、それはそちらの都合であって、自分の都合ではない。
「罠つきで出迎えが六人、正面玄関をミヤコ姉さんが。俺を含めて四人が室内戦闘。一応、リウ姉さんには園長室で総指揮」
「ん」
「あと――敷地内に布陣した術陣を使ってみたいんだって」
「え、あれ? あー……なんて説明したっけ」
「選別して、除外する術陣だって言ってた気がするけど」
「ああ、そうかも、うん。そうね。いいんじゃない? 発動の権限は私?」
「そのつもりで話を進めてたけど」
「しょうがないか、私がいなかったのがいけないんだし」
そのくらいは仕方ないと、腰に手を当てて一息。あまりやる気がないように見えるが、実際にはその通りだ。
海を見る時間はリウのもの。そこに邪魔をしたのはクロなのだから、こちらの本題に集中しろと言うのは傲慢だろう。その上、これでも姉なのだから、頭も上がらない。
「姉さん」
「ん?」
再び海を臨んだリウが、今度は視線だけで振り返る。けれど今のクロは、その横に並ぼうとすら思えない。
「何を見ているんだ?」
海をと、応えそうになって止める。視線を切ったリウは、陽も落ちて黒色に染まった巨大な水の溜まりを見る。
「そうだなあ……壁か、それとも恐怖か」
「――姉さんも怖い?」
「それも、当たり前のことじゃない。この場を怖いと思わないほど、私は鈍感じゃないし。こうやって定期的に恐怖を覚えておくと――ああ、まだ慣れてないんだと、自分を確認できるの。もちろん、それ以外の理由もあるけど」
「なるほどな」
「って言うほど、納得してないみたいだけど?」
「はは、俺にはその背中が少し、寂しく見えてからな。いや……違うか。なんつーか、独りに見えた」
「――そう」
戻ろうかと、すぐにそう言って今度は足を動かした。クロは横を通り過ぎるのを待ち、無防備にも思える背中が見える横の位置でついて行く、いつもの行動だ。
「学校よね?」
「そう。といっても、俺は子供たちの面倒見なきゃいけねえし、一旦孤児院に戻るぜ。なにかあったか?」
「今日は戻らないから、ちゃんと寝かしておいて」
「げ、じゃあ俺一人か。年長の子供もようやく九歳だもんなあ――って、俺もそんなに変わらないか。兄貴たちも、そんな気分だったんかね」
「じゃない? あはは、じゃあよろしくね」
「よろしくはいいけど、ちゃんと向かうんだろうね、姉さんは。このまま、まだどっかに消えるのは勘弁してくれよ、俺が怒られるんだからな」
「大丈夫よ――面倒な会議に付き合いたくなくて、時間を潰してただけだから」
「やっぱりな……言うなよ、姉さん」
「クロかミヤコにしか言わないっての。実際、除外されてるのは私の方だけどね」
「怖いね」
「そう? なら良かった」
なにが良いものかと、思う。クロは忘れてなどいない――二年前に言われた台詞を、忘れない。
更に念押しをしたクロが傍を離れるのを感じながら、あちこちの家から洩れる光を避けるようにリウは一人で歩く。先ほどまで海を臨んでいたためもあって、ようやく頭の中に発想がいくつか流れ込み、頭が動き出すのを実感する。
あれこれ巡らす思考はとりとめがない。これからの予定だったり、まったくべつのことだったり。けれど意識そのものは現実を見ていて――。
「ん? おーう、リウ嬢じゃねえかよ」
声をかけられる。好んでノザメエリアに居ついているハンターの一人だ。ちなみに妖魔狩りだけでなく、護衛はもちろんのこと、街の治安にも一役買っている人種で、報酬はノザメエリアそのものから出る場合もある高給取りなのだが、いかんせん、金を落とす先がこの場所なので循環はしている。
しかし、相変わらずハンター連中は聡い。これでも、普通の人間には見つからないように動いていたのだけれど、すれ違う時に夜の影に入っても、このざまだ。
「自然に隠れるから誰かと思ったぞ」
「はあい、ケリーさん。あっさり見つけられたら、隠れてるとは言わないし」
「はは、俺たちは基本、臆病なんだよ。目端が利かないと生きていけねえ――と、こっちは酒だ。たまにゃどうよ」
「元服前の子を酒の席に誘わないの。あ――話半分だけど」
「おう、なんぞ」
「西、調べた?」
「……悪いが言えない」
「ありがと」
「勝手に足を運ぶんじゃねえぞ? 俺の責任になっちまうからな」
「諒解。んじゃ、またね」
「おう――」
お前も大概、目端が利くんだな、なんて捨て台詞。そんなことはないのだけれど、やはりハンターは既に調べているらしい。そして、とりあえず異変などは察していないか、あるいは対策を練っているか……どちらにせよ、住民には知らせないよう箝口令が敷かれている。当然の対応だ。
ノザメエリアには魔術研究所と呼ばれる建物が中央付近にある。研究員である魔術師が詰めて各自が没頭し、一定の成果を本にして集めた図書館のような場ではあるが、ノザメエリアにおいては中心でもある。ハンターたちは研究所から金を貰うし、生活上発生した税金なども、そこに集められている。
大陸南端にあるとはいえ、ここは人の行き来が多い。それには理由があるけれど、それはさておき、外からくる客があれば、物流も発生する。商業も盛んになれば、金の流通も発生するわけで。
いくつかの謎はあるのだけれど、街としてはある意味で、完成していた。
歩いていると学校が見えた。といっても孤児院とそう変わらないくらいの施設で、通っているのも二十人程度だ。ちなみにこちらは九歳からの学校で、常識やら何やらを教わるのではなく、職業に就くための授業をしている。ほぼ独学の部分もあるが、それぞれが上を目指しており、今回の襲撃に加わる十二人は、主に戦闘系だ。
襲撃――というのは、いわゆる訓練の一種で、先生と呼ばれる女性が単独で襲撃するため、それを迎撃する。今までの成果を見せる場でもあるし、成長を実感する場でもある。もちろん逆に、落胆することもあるにはあるが――。
学校に入ると、庭に影が一つ。袴装束と呼ばれる姿をした少女が、身の丈には似合わぬ長い得物を腰に佩き、右足を軽く前に出す格好で静止していた。
刀を持つ、楠木ミヤコは集中していて、こちらにはまだ気付いていない。いくら訓練中でも周囲には気を配れとも思うのだが、それを言う権利をリウは持っていなかった。クロを含めて三人は同じ孤児院に住んでいるが、だからこそ、口出しは厳禁だ。
しかし――無造作に近づけば気付く。夜の影を渡りながらであったのだが、銀光が眼前を横切った。
――居合いだ。
「危ないよ、リウ」
「だから足を止めたじゃない」
ほんとは敷地に入った頃から気付いてたんだけどと、既に刀身を収めたミヤコは姿勢を直立に戻す。木の鞘の刀だが、刃はきちんとついている。重量も基本的には同一だ。つまり実戦を想定した得物である。
小柄なミヤコが佩いているので、余計に刀が大きく見えるのは、いつものことだ。
「あれ? クロは?」
「孤児院に戻ったわよ。あー、食べ物あったっけ」
「宿直室に行けばあると思うけど、こっち泊まる?」
「その前に、作戦はどうなったのか聞かせてよ」
うんと頷きながら中に入る。二十畳ほどの部屋がいくつか区切られている簡素な造りの廊下を歩き、やや奥にある宿直室に入った。中央に木造テーブルがあるだけで、椅子の類はなく、床に腰を下ろす形だ。
「クロから聞いてない?」
「ざっくり内訳と、布陣しておいた術陣を使うってことくらい。どうせこっちで聞くからいいやと思って」
「あたしが帰ってたらどーすんのさ」
「そうなったら孤児院で聞けばいいじゃない」
とはいえ、明日に襲撃があるのならば、まず間違いなくミヤコは気を整える意味合いでの鍛錬をするだろうから、ここに居るのだと確信があった。ああ、そういえば鍛錬後かと、リウは影の中――〝
「今回はねー、陣地防衛を念頭にした? 作戦なんだって」
「あんた、また適当に聞き流してたでしょ」
「そ、ソンナコトナイヨ」
説明の続きを視線で促すと、ミヤコは頷いて横を向いた。
「えっとね? つまり陣地構築をして待ち構えるってことで」
「うん」
「――そういうことなんだよね?」
「それで終わりかい、あんたは……」
人の話を聞かないのではない。自分の役目がわかると、それに集中してしまい、ほかを聞き流しているだけだ――いや、そうだと思いたい気持ちもあるので、実際にどうかは知らないけれど。
「作戦の提案は?」
「ロウがやってた」
「ん、妥当ね」
「そなの? よくわかんないけど、あの子すっげーリウのこと目の敵にしてるじゃん」
「ああ……そう見えるか」
ロウはリウたちと同じ年齢で、いわゆるここでは上級生だ。そして魔術師でもあるから、敵対心というか、リウをライバルのような目で見ている。もちろんそれを知りながら、リウが相手にしていないので、まあ、目の敵にするようになるのだが、そこまでわかっている以上、リウとしては問題ないし、向上心があるのだから、悪いことではないはずだ。
実力そのものではなく、めげないその態度をリウは評価している――のだが、そうは見られないらしい。
そう伝えると、ミヤコはものすごく不細工な顔で睨んできた。いや不細工は言い過ぎか。
「リウって変」
「知ってる」
「……うん、その返しも予想できた」
「ミヤコの準備はいいの?」
「あーだいじょぶ、いつも通り。だからあとで付き合って」
「またあんたは……懲りないわよねえ、まったくもう。いいけど、ご飯食べてからね。用意してる?」
「たぶんまだ保存食があると思うけど……」
「じゃあそれ食べて、躰動かしたあとに、また食べに行きましょ」
「あんがと。んで、どーせまた海に行ってたんでしょ、リウってば」
「わかってるなら、クロを動かさなくてもいいじゃないの」
「あたしじゃなくて、ロウが頼んだの。あと、日付変わったくらいに雨かも」
「まだ気配はないけど、ミヤコが言うなら間違いはないでしょうね」
もちろん、気配がないというだけで、リウだとて気付いてはいたけれど、ミヤコは雨に敏感だ。何故か――は、わかっているけれど、言うのは野暮だ。
「そだ。西のあれ、なんかわかった?」
「ハンターが調べてるみたいだけど、箝口令が敷かれてるみたい。あと、クロも気づいてたって」
「へえー、そっかそっか。いい子だねえ、クロは」
「相変わらずさっぱりしてるねえ……いいけど。それよか明日か明後日くらい、院長が戻るよ」
「へ? 名前だけのいんちょのこと?」
「そう、その院長」
「そっか」
あっさりと頷き、それ以上はない。これがクロならば、どうしてそんなことがわかるんだと、問いを口にしそうなものだ。それを何故、と問えば。
「え? だって、リウがわかって、あたしにはわかんないなら、頷くしかないじゃん。どうやって知ったのかなーって考えたけど、リウの方法を知ってもたぶん、あたしじゃ使えないし」
そういう感性を、リウは羨ましく思っているのだが、きっと本人は知らないだろう。言うつもりもない。付き合いは長いが、一緒にいる時間そのものはそれほどではないのだけれど、それでも幼馴染だ。
悪さをするのも、一緒である。――もちろん周囲の大人たちはいい顔はしないが。
「行ってみる?」
「え、なに、どこに」
「西に」
「――行く」
いい返事に、リウが笑みを浮かべる。投げ渡された干し肉を口にしながら、すぐに学校を出た。
「どする?」
「ミヤコなら、どうするの」
「うーん、北と東にはハンターが出てるはずだし、かといって壁越えをするのも建設的とは言い難いかなー。ここはハンターを説得するか」
「するか?」
「――目を盗むしかない」
やっぱり悪巧みは楽しい――けれど、これは帰りのことを考えてなさそうだなあと、リウは半分くらい苦笑ぎみだ。
「もう二人くらいいるなら、目を盗むこともできるけどね。適当に話して通してもらいましょ」
「任せた」
「ほんと、こういうところは苦手なんだから……」
「ごめん。言い訳だけど、まだ刀を中心にしときたくてさ。あたしはまだ、未熟だから」
いつになったら熟すのだ、と言いたくなるくらいに、ミヤコは自分が未熟であることを繰り返し言っている。あるいは言い聞かせているのかもしれないが、実際にそれは正しい。リウだとて、まだ元服前の十三歳なのだから。
北口まで雑談をしながら移動して、そのまま視線だけで意思の疎通をしつつも外に出ようとするが、やはり番をしていたハンターが、おうと声をかけた。
「リウじゃんか。どうしたべ」
「おー、お疲れさまー。ちょっと外で訓練、すぐ戻るから気にしないで」
「はあ? 中じゃできねえのかよ」
「うん。リィちゃんの敷いたエリア内の術式が邪魔だから」
「うげ、そんなことまでするつもりだったんだ……」
「――」
話を合わせたミヤコとは違い、男は息を呑んだ。
リィというのは、魔術研究所代表のマーリィ・ルルのことであることは誰もが知っているし、ハンターであればこそ付き合いもある。そして、職業柄、街の守りに関しては一通り知っていた。
知っていたが、一般には知られない情報もある。たとえばマーリィが街の全域に布陣した防衛術式も、その一つだ。
「リィちゃんの術式って、前に探ってたやつ?」
「そう、学校に布陣したものとほぼ同一効果の、大規模なもの。実際には、学校に布陣してみたのは、リィちゃんの術式と競合するのかなーと思ってのことなんだけど」
「ふうん? でもあれ、独立してたじゃん」
「あれは私がどうのっていうより、リィちゃんの手柄よ」
「――わかった、わかった。ほどほどで帰ってこいよ」
「はあい。お疲れさまー」
「ん」
基本的に、何かあったら彼らの責任にならなければ良いだけのこと。けれどこっちは子供なのだ、その辺りを弁えていても、なかなか難しい。今回はすんなり行けたようだが、半ばごり押しのようなものである。
だから、ずっと視線は感じていた。
「おー、さすがに気にしてるみたいだね」
「そりゃ子供が、陽が落ちた時間に外へ出るなんて言い出せば、誰だって止めるっての。じゃあ行くよ」
「え、まだ見てるけど、いいの?」
「いいの。調査っていっても、様子見するだけだから。ちぎれないようにね」
「うっさい」
心配はしてないけど、とは言わず、代わりに。
「疾走の解」
術式を使って身体強化、一歩目を利用して二歩目から既に最大速度で疾走を開始した。
あらゆる魔術が扱える魔術特性を持つリウは、言葉を鍵にして発動させるものが多い。本来なら言葉を鍵にするのは言術の領分なのだが、同じ術式なのだから一緒だ、と言ってしまうリウは、ミヤコから見てちょっとおかしい。
――ちょっとじゃないか。
術式だけではないのを、ミヤコは知っている。今は腰を曲げた前傾姿勢で空気抵抗を減らしつつ、全速力の二歩手前で横並びになっているが、これもリウが加減をしているからついて行けるだけだ。
いくら身体強化をしたところで、使うのはリウ自身。走り方を知らない人間が強化したところで、どたばたと足音を立ててちっとも速度は出ない。つまりリウは、身体強化をした上で、体術を使って走っているのだ。その辺りを最初は見落としていたが、刀を扱えるようになってくると、そういう細かい部分が見えてくる。
ミヤコは、知っている。
リウが、ミヤコたちの呼ぶ先生――サギシロ先生に師事していることも、そしてある制約を持っていることも。口外はしないし、リウに対して直接言うこともない。だから、ミヤコとサギシロしか知らないなんてことも、さして気にして探りもしておらず、そういうミヤコだからリウも教えたのだけれど。
「西は森になってたっけ」
「そう」
同じ速度で移動しているためか、声は届く。ただし言葉は短く、余計な呼吸を入れないようにしていた。
ん、と短い言葉が落ちたのは、数分も走った頃か。その合図に気付いて速度を落とせば、もう森は目の前だった。念のためとミヤコは背後を振り返るが、尾行はないようだ。そもそも街の周辺はあまりおうとつのない、いわゆる平原になっているため、小さな岩くらいはあるものの、見通しは良い。隠れるならば術式が必要だが、だったらリウが気付くはずだと、ミヤコは改めて森を見る。
闇が濃い――当然だ。月明りを遠ざける木木の存在がある。クロほどではないにせよ、夜目が利くように訓練したミヤコでも、気配を探るようにしなければ足を取られることもあるだろう。どうするのかと隣を見て、いつもの疑問が飛来した。
「――なんでリウは、服が乱れないのかなあ」
「ん? ああ、ちゃんと走りながら押さえてたし、速度を緩めてから正したよ」
本当にそれだけか、と息を抜いたからか、妙に据わりの悪い気配に周囲を見渡した。
なんだろう、違和がある。いつもと違う、何かが違う。ミヤコ自身に変わりがないことを確認したのち、外部要素である視線、殺意などの感情が投げられている可能性を除外。時間帯の問題――ではない。昼とは違う、陽気ではないのならば陰気とも呼ぶべき時間帯ではあるが、そもそもこんな場所にまでミヤコは出てきたことがないので、比較するのが間違いになるか。
「そういえばさ」
そんな思考を行っていることを特に示さず、口を開くと、僅かにリウの口元が笑みになっているのが見えた。どうやら、気付かれているらしい。
「リウはここら、きたことあるの?」
「あるよ。一人で」
「行動範囲が広いなあ」
自分は刀で手一杯だと、左腰にある刀の柄尻に左手を添え、――ふいに、全身から力が抜けたような錯覚に陥った。
「あ……」
「気付いたね」
「動物の気配がない」
「ん、厳密には逃げたのもそうだけれど、近寄ってこない。静かだと、そう表現してもいいんだけど……ちょっと迂回しましょ。中に這入るのはさすがにね」
「わかった」
歩きながら、ふんふんと鼻を鳴らすようにするリウの足元に、いくつかの術陣が見え隠れしていた。効果はわからないが、本能的に距離を取ってしまう。苦手意識ではないが、たまに巻き込まれるのだ。で、被害が出てから、なんで避けないのと言われる。この女、性格悪いんだな、なんて思ったことは数知れず。
「なによ?」
「なんでもなーい。――っ」
両手を頭の裏に回し、すっとぼけた返事をした直後、最大警戒が脳内で鳴り響く。じわりと汗が滲んだのを確認したのは、リウから三歩ほど後ろに距離を取り、抜刀の構えをとってからだ。
誰かいる――いや、現れた。
子供の姿だ、見た目だけは同世代に思える。何故、どうして――なんて疑問は一切なかった。
駄目だと、警笛が鳴っている。であれば、ミヤコは己の意志に従うまでだ。
この状況下で、もうリウのことは完全に忘れているミヤコは、それはそれでどうかと思うけれど、――リウは好感を持っていた。
信頼もある。リウならば勝手に対応できるだろう、という信頼だ。そして同時に、一緒にどうにかすることはできないと、ミヤコは割り切っている。そこが好感が持てる最大の理由になるだろう。
ま、それはさておき――だ。
「物騒な友達だね」
森から姿を見せた少年は、あははと小さく笑っていた。
「僕は散歩道なんだけど、この時間に遭遇するとは思わなかったな」
ミヤコは答えない。最大警戒を相手へも示しながらも、しかし、視線はじっと足元を見たままだ。初動がわかるからとか、そんな理由ではない。直感で目を合わせてはならないと、そう思っての行動だ。
対したリウは、へえと、相槌をうつ。
「ハンターが森の中を歩き回ってたみたいだって話ね」
「そうなんだ? もしかして、この前に見たのがそうだったのかな。僕はこの時間に散歩をするから、なんだかそんな気配もあったみたいだけどね。さてどうしたものか、つり合いがとれているかと思いきや、そうでもなさそうだ」
まずいな、とリウは思う。こういう手合いへの正攻法は、基本的につながった会話をしないことだ。対応しない、応答しない、それが大前提。けれど相手はふらふらと揺れ動く、風のように気まぐれで、楽しんでいる様子すら見てとれた。
つまり、意地が悪い。
「ハンターに隠れて独自調査って感じだね」
「夜目が利くってのも、それなりに問題かもね。とはいえ、こっちも隠れていたわけじゃないか……」
「釣れないね」
「海で魚が釣れるってかつて文献で呼んだけれど、かつてはこんな海じゃなかったのかと思うことはあっても、想像はつかないわよ」
「ま、その判断ができるってのも評価はするよ。じゃあ僕は散歩の続きだ」
リウはその言葉に返答はしない。ただ、少年はすぐに背を向け、言う。
「――
ただ、その言葉だけを口にして、森の中に消えた。――三十秒、そのままじっとしていたが、リウは軽く手を振ってミヤコに警戒を解くよう促した。
「うへえ……」
握っていた右手から血の気が引いているのを見て、今にも座り込みそうな躰をどうにか堪えつつ、ミヤコは盛大に肩を落とした。力んでいたつもりはなかったが、刀だけは手放すまいという意思が強く出てしまっていたようだ。
「なにあれ。雰囲気が前に遭遇した妖魔みたいだったんだけど」
「口外禁止、いい?」
「――諒解」
「あれは高位妖魔よ、間違いない。散歩かどうかを探ることも、さすがに難しかったから、受け流すだけにしておいたけれど」
「じゃあ正解ってことかな?」
「対応としては充分よ。こっちも面倒がなくて良かったし、まだ実戦経験のないミヤコを巻き込むわけにはいかないからね」
「その台詞、リウはあるように聞こえるんだけど」
「あー……」
うん、と頷き、複雑そうな顔をしたかと思えば目を据わらせ、盛大に舌打ちをしてから無表情になり、それから口の端を歪ませて苦笑になった。
「あるわよ?」
「うん、きっと先生が無茶したんだね」
「無茶っていうか置き去りにされただけ」
「……」
なるほど、無茶なんて言葉で済ませられたくはないということか。よくわかった。
「でもまあ、あの手合いと出逢うのは初めて。ちょっと緊張したけど良かった、向こうにやる気がなくて」
「偶然だと思う?」
「まったく思わないから、口外禁止よ。まだ理由については思い当たらないけど……」
「あんがと。あたしが足を引っ張ってたね」
「そうだけど、そんなところを気にする?」
「する」
「負けず嫌いというか、なんというか……以前から、ちゃんと言ってるでしょ?」
比較対象が違うのだ。そもそも、リウとミヤコは違い過ぎる。
「私は創り手であって、担い手じゃないの」
「知ってる。違うってのはわかってるんだけど、だから敵わないってのが癪なんだよね」
「頑固者。こっちは戦闘が領分じゃないのに」
「うーそーだー」
睨まれる、だが受け流す。それもいつものことだが、しかし今日は、どういうわけか追撃があった。理由? たぶん、――ほかに誰もいないからだ。
「リウの制限、あれって〝魔術を使う場合〟に限定されてるんでしょ」
「へえ……さすがに気付いたか」
そうだ、自分は制限つきだ。師とは違い、代償を支払うことで、今の自分を保っている。
「でも、だからって相手はしないわよ?」
「ぶーぶー。それって体術でもあたしより動けるって言ってるようなもんじゃん」
「じゃなくって、私は魔術師だからって――ん? 待てよ、そうか、べつに私自身が相手じゃなくても……」
「え、なに、それ楽しいこと? 無茶なこと? 泣いて謝れば許してもらえること?」
なんで後半弱気なんだこの女は。――ああ、私が無茶をするからか。
「じゃなくって――メイ? 起きてる?」
「……え、なに、どしたの。誰それ。寝てんの?」
ようやく躰をほぐして気を抜いたミヤコが近づくと、リウは視線を足元に落としている。なんだろうと思っていると、影から猫の手が伸びてきて大地を掴み、のそりと黒色の猫が姿を見せた。
「へ?」
「――なんじゃ主様よ。
「おー……しゃべった。猫だ、黒猫だ。ちっちゃ……くはないか、うーん」
「おい、主様よ、おい」
「驚かないのはいつものこと。メイは――……ん、ちょっと話しておこうか」
ひょいと抱き上げたかと思えば、そのまま肩に乗せる。近くに岩があったので、二人で腰かけた。隣り合わせではないし、背中合わせでもない。お互いに顔を見るためには横を振り向かなくてはいけないが、それがリウとミヤコの距離だった。
「ミヤコ、誰かが目の前で瀕死の状態にあるとして、それを助けたいと思う?」
「もちろん」
「じゃあ、その意味合いがミヤコと私じゃ違うってことは、わかる?」
数秒、考えて。
「――魔術」
「そう。あれは……私がまだ十歳になる前だったから、でもざっと三年くらい前のこと」
師のところで躰を動かし、帰る時だったのを覚えている。それは失敗であったし、反省もしたけれど、悔いはなかった。
「たぶん、馬車に跳ねられたんでしょうね。――間抜け」
「そんな昔のことは覚えておらんの。妾は猫じゃからの」
「またそういう都合の良いことを……ああ、それでね、躰の六割を失ったこの子に遭遇したの。で――私は、自分の術式で助けられることを、知っていた」
「……」
お互いに振り向かないが、ミヤコは実に複雑な表情をしていた。
心情は推し量るしかない。けれど、助けられるからといって術式を行使するのは、我儘だ。だが、――ああ、そうだ。
それでも。
それでもと、人は思う。助けられるならば、やろうと。
そこに発生する責任など考えずに、まずは動いてしまう。
無理だからと諦める前に、できることを自覚してしまえば、尚更だ。
「失った六割を、私の血をベースに生成して、術式で組み上げた。詳しい説明は省くけれど、一般的には使い魔を作るやり方と同じね。ただし、契約は交わしていないから、基本的にメイは自由なんだけど……」
「うむ、主様の傍におると面倒がなくて良い。寝床もあるしのう」
「という感じでね。まあ私の血肉を使ったから、繋がりは消えないし、私としても都合が良いんだけど、行為としては――先を見てなかったわよね。対外的には使い魔と言ってる」
「三年、よく隠し通せてたね。あ、それはこれからもか」
「私とメイはお互いに言葉を口にしなくても、意思の疎通はできるし、メイも日中は好きに動いてるから、傍にいるわけでもない。夜になってふらりと私の影に消えても、そうそう発見はできないでしょ?」
それもそうだ。何しろ今まで、ミヤコも知らなかったのだから。
「どうしてあたしに?」
「んー……私が面倒になったから、かな」
「主様よ、妾、もう寝たい」
「駄目よ。嫌な予感がしたからって逃げないの。で、こっからが本題」
「うん、なに?」
「メイは、私の使える術式の大半を仕込んである。で――」
「メイなら制約がない?」
「うん。猫だけど」
勢いよく立ち上がろうとしたミヤコは中腰になったまま、しばらくしてすとんと座りなおし、やがて頭を抱えるように蹲った。
「そっか猫だ……!」
「む、なんじゃ。妾は猫だがのう」
「だからよ。ミヤコの居合いは、猫相手に使えないでしょうし」
「使う前に術式で封殺すれば良いのじゃろ。妾はそれほど魔力容量がないから、そう大規模なものは使えんが、翻弄くらいはできるじゃろ。のう」
「術式の選択にもよるけど、メイの場合は言葉じゃなくて術陣メインにしてるし――ああ、普段から基本的に、メイは私の補助って形よ」
「うぬぬ……ど、どうしよう、あたし猫に負けるなんて現実を見たくない! 直視したくない!」
「そっちで悩んでたの、あんたは……」
「プライド! あたしにもそんくらいはあった――あるんだってば!」
「……メイ、今度人型にする術式でも組み立てようか?」
「嫌じゃ」
なんでよ、と問うと、猫ができないこともさせられそうだから、と返答があった。だから、よし組み立てようとリウは決意する。
「むう、これはいかん流れじゃの」
「なにを馬鹿言ってんのよ。ミヤコも、頭抱えてる場合じゃないでしょ」
「まあそうだけどさ……」
「ミヤコよ、お主は主様に何を求めておる」
「求めてないよ? あたしはただ、リウの隣に並びたいだけ」
本気なのかと猫の視線はリウへ。だから、軽く頷いておく。
「幼子がまた難儀な道を選ぶのう……」
「ちょっと、私も同い年なんだけど」
メイはリウと見て、視線を逸らし、頷き、ミヤコを見た。
「幼子がまた難儀な道を選んだものじゃの」
「こいつ……!」
思わず両足を掴み、宙吊りにしてぶらぶらと揺すったが、ううむと、気にせず答えたので尻尾を掴むと、謝罪の言葉がしばらく続いたので、手を離してやった。
「いや、あのね? リウから、難しいっていうか無理だーってのは聞いてるんだってば。でもやっぱり譲れないっていうか」
「しかし、並び立つのも戦闘技術だけではあるまい」
「うん。でもまだあたしには、これが必要だと思ってるから」
刀に手を触れたミヤコは、小さく微笑む。できるのならば、刀を手に横へ並びたいのだろう。背中合わせでも、先を行くのでもなく、並びたいと――そう思うことが困難なのだが、さすがにそこまではメイも言わなかった。
だから、リウは言う。
「いつかそうなる時を、楽しみにしてるんだけれどね」
ミヤコは目指すだろう。期待はしていないが、楽しみなのは確かで、そうなってくれたらきっとリウは嬉しい。
――けれど、でも。
いつか。
そんな時がきた時に、リウは、自分がもういないことを、自覚していた。
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