02/20/01:50――久我山茅・瀬戸際で留めよう

 いつ以来だろう、自らが扱う糸で手が切れたのは。

 記憶を辿ってみれば、それが傭兵になる前のことだと思う。あの頃はまだ、母の紫月しづきに指導され、糸の扱いを学んでいた頃だ。成熟も未熟もない、それこそ武術家としては赤子の部類になるだろう。鍛錬などとは口が裂けても言えないような、指導の時だ。

 所持していた糸の半数が破壊された。耐用年数がそれなりに長い糸は必然的に太くなるものだが、それでも一つの戦場で浪費する本数をとうに超えている。その結果に対し、久我山くがやまちがやは己の扱いが雑になっているのだと判断し、それを抑制しつつも戦場を走る。

 糸術は基本的に捕縛のための技術。扱うなら広範囲――罠を仕掛けることにも通じるもの。だから、茅は常に糸の位置を覚えているし、配置してある糸の感覚を忘れない――となれば、この長時間、常に広範囲の情報を集め続けているとも換言できる。

 疲れている? 当たり前だ、疲労のピークなど、とっくに過ぎた。普段から張り付いている笑みだけが浮かんでいるだけで、躰のあちこちが悲鳴を上げている。それでも維持し、弱音一つも吐かないのは、いつか殺したい相手であり、殺されることができる相手、朝霧芽衣がこの場にいるからだ。

 一度、茅は心が折れている。

 全てをやり尽くしたのだと、その現実を目の前にして、たった一度だけれど、満足を得てしまった。今が不満なのでも、今が満足なのでもない――ただ、満たされてしまった以上は、どう足掻こうとも、空白はできないことを経験として知っている。

 けれど、そんな茅にも望みができたのだ。

 いや、望みというほどではない、まるで子供の我儘のような一つの願いだけが、今の茅を留めている。

 なんのことはない。脂肪のように引っ付いているものを、一つずつはがしていけば、中にあるのはただ一つだけ、――朝霧芽衣に殺されたい、なんて欲望でしかないのだ。

 自殺志願者かと、笑われるだろう。ならば技を磨く必要などない、と言われるかもしれない。けれど茅は惨殺されたいわけでも、一息に殺されたいわけでもないのだ。あくまでも、今の自分が最大限の力を発揮して――ああ、こんなところが、武術家の血なのか。

 ――その程度か。

 たったその一言で切り捨てられることを、茅は回避したい。どうしたと発破をかけられるくらいなら、まだいいのだ。きっと芽衣に見限られた瞬間、茅はただの人形となり、朽ちるまでそのままだろう。それだけは、強い意志を持って、嫌だと、否定したくなる。

 それでは一人前にした後輩に面目も立たない。

 どんな戦場にも、優劣はないと教えてきた。それは、かつて茅が教わったことでもある。

 楽な現場、辛い仕事、傭兵にとってそんなものはない。どれほどの苦渋を飲まされようとも、あっさりと片付いたものであろうとも、己の命を代価として差し出して、金銭を得ている以上、感覚的にどうであれ、それは同じものだ。油断の一切を捨て、先を見通し、生還して呑気に酒を飲むまで――あるいは、そんな区切りすら持たず、常にそうであれと、教え込まれた。

 茅のいる現場も、そうだ。

 先が見通せない。なにもわからない。ただ今を続けていくしかない――たぶん、分類上は辛い仕事になるのだろうけれど、そうであってもだ、茅としては何も変わらない、いわば日常でしかなく、生きるためのものなのだ。

 故に、茅は張り付けた笑みを消さない。そもそも、これはもう消えるものでもなく、変えられないものだけれど、笑いながら戦場を走る。

 久我山の糸は、捕縛術だ。

 わかっていはいても、きっと茅はその極意を得てはいない。あくまでも広範囲の攻撃技術として有している部分が強く、できるできないはべつにして、久我山の名を誇ることはできないのだろう。

 そもそも、武術家にとって防御とは、回避であり、防御行動そのものを持っていない場合が多い。

 攻撃は最大の防御なり――とも言えるが、実際には極限ともいえる戦闘の中において、一撃を食らうことがイコールで死亡になりうることを想定し、守りに徹することがそもそも、状況の打開にならないからこその、選択だ。たとえば茅にしても、編み込めば7.56ミリくらいは余裕で受け止められるが、線の攻撃に対して面で受け止めるくらいならば、糸で察知して身をよじって回避する方が楽であるし、あまり効果的なものではない。

 つまり、防御に一手をかけるくらいならば、防御から攻撃への転換を含めた二手で、攻撃した方がよっぽど効果的、ということだ。

 いや、この場にいる人間の誰もが、それを選択しているのだろう。防御の一手を使ったところで、それもまた攻撃への布石でしかない。一匹でも多くの妖魔を討伐しなければ、前線は維持できないのだから。

 最初の頃よりも、場の空気が緊迫したものになっている。疲労の度合いに比例して緊張が空気を伝わり、張りつめていくのは戦場の特異性だ。疲労による油断を抑えるための手段として、警戒を張り巡らすと、こういう空気になる。

 だから、逆にこれ以上、長時間の戦闘は持たないだろうことも、推察できてしまうわけだ。いつまで、なんて断言はしないし、できないのは、茅自身がまだ続けられると意気込むことができる以上、大それたことは口にできないのだが、それでも刻一刻と限界と呼ばれる領域は近づいてきている。

 そんな折だ、茅の耳にハッピーな行軍歌が届いてきたのは。

 実際には、音と呼ばれる振動を零号剛糸が掴み、茅に伝えているに過ぎない。たった一本、半ば放置ぎみにしておいた、学園の外へと伸びる糸が、こちらに進軍してくる存在を伝えてきた。

 ――尚更、ここが踏ん張りどころってわけか。

 戦場の瓦解が早いことは、茅もよく知っている。指揮官一人、仲間一人、たったそれだけのことで一気に形勢は逆転を見せる。引いたカードがエースかジョーカーか、その違いが如実に現れてしまうのだ。

 だとすれば対抗手段として、こちらもジョーカーを伏せておく? 否だ、それは効果的ではない。やるべきは、相手にジョーカーを出させないことだ。そして何より、こちらの手札を失くさないこと。

 防衛戦をしている彼らの側の情報がわかっていても、もはや弱い部分に手を貸せるだけの状況ではない。目に汗が入らぬよう袖で拭う動作と共に糸を振るえば、周囲に飛び散るのは血が混じったそれだ。どこから出血しているのかもわからず、半ば充血した瞳で周囲を見渡し、妖魔の群、闇の中に再び足を踏み入れる。

 呼吸が上がっている現実から目を逸らし、負傷からは意識を外す。おそらく、まだ未熟な彼らが無意識にやっているだろうことを、茅は意図して自身を制御していた。これの難点は、意識が戻った時にやってくる、いわゆるぶり返しなのだが、この際だ、そんなことはいちいち考えてはいられない。

 ぶり返しで死ななければ、それでいい。とはいえ、その判断も微妙なところなのだけれど、ぎりぎりの瀬戸際で留めよう。

 今ここを乗り切った先は、必ずあるのだから。


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