02/19/20:40――蹄花楓・守りたい人と

 賑やかになった旅館を背に、交代要員すらままならぬ状況で、それでも、ひづめ花楓かえでは可能な限りの休息を保ちながらも夜を迎え、防衛に当たっていた。

 最初の頃ほど、妖魔が襲ってくることはない。その理由が、学園に集まっているからだというのは自明の理であり、であればこそ、学園の防衛が完遂された時、こちらへの襲撃が多くなることは自然な流れだ。そこからが花楓の開始であるし――その上で、学園という安全地帯まで、全員を運ばなくてはならない。

 重荷だ、と思う。けれどそれを、どうにか成し遂げたい、とも。

 そんなことを言えば、もっと気楽でいいのにと、隣にいた橘ななは呑気に空など見上げつつ、気軽に返事を寄越した。

「任せることの度合いっていうの? そりゃ全部放り投げれば馬鹿だろうけどさあ、適材適所ってのもあるんだし」

「もちろん、一人で抱え込もうなどとは思いませんが……」

「優先順位もあるじゃんか。花楓にとっては、なごみが一番っしょ? だったら、それでいいと思うけどなあ」

 空を見上げれば星空が見えるくらいには、雲がない。呑気な返答ではあるものの、今までは戦闘について、特に橘の暗殺技術について詳しく聞いていたところだ。それなりに興味深くはあったが、今のところ花楓にとって身になる話ではないと、そんな結論に至り、こうして世間話の流れへ至ったわけだが。

「あたしは対人専門だし、対妖魔になるとめんどーだし。陽炎かげろういるから任せっぱなしだけどね」

「――四さんの心配は、していないのですか?」

「ん? あー、どこで何をしてるか知らないけど、裏生も一緒だからね。ここのと違って、うちの娘は、ちゃんとあたしが最後まで仕込んだから、よっぽど無茶をしない限り、生き残れるとは思うよー。あの子、あたしと違って感情制御の方が苦手みたいだけどね」

「苦手ですか? ははあ、なるほど。苦手だからこそ、封じているのですか、彼女は」

「ああいう不器用なとこは、あたしに似たのかな――あ」

 七が入り口を振り返り、軽く手を振る。肩越しに振り向いた花楓もまた、蒼凰蓮華そうおうれんかの姿を捉え、小さく会釈だけしておいた。

「もういいの、蓮華先輩」

「おゥ――横になったし、風呂にも浸かって、無駄話もできるくらいにゃ回復したよ。つーか七番目、お前はそろそろ、その先輩ッてのをやめねェのかよ」

「先輩が、その七番目ってのやめてくれたら考える」

「うるせェよ、どうしたッて七番目じゃねェか。蹄の、茶を持ってきてやったぜ」

「ありがとうございます」

「いいよ、気にすンな。こっちで梅沢うめざわの世話になってッからよ。だいぶ落ち着いてンじゃねェか」

「状況が、ですか?」

「お前がだよ――と、まァどっちを問われても変えるのよな、これが」

「はは、そうだとは思いました。いずれにせよ、これからかと」

「そこよ。そろそろ、状況が動いたンじゃねェかと、聞きにきたンだ蹄の。どうよ」

「――わかりますか」

 もう魔法師ではない蓮華は、僅かに視線を逸らして頭を掻いた。

「この程度は軽い予想よ。動ける連中、動かされる連中、動いていると思い込んでる連中――そもそも、動けない連中。そういったのを、大雑把に区切って、あとは縁がどう合ってるかを考えてみたのよなァ」

「そういうとこ、先輩は変わんないなあ」

「七番目の、そういう暢気なところもな」

「うっさい」

「反論くれェしてみろッてンだよ。――で?」

「ええ、動いています」

 あくまでもそれは一方的なテレパス。それでも、こちらに状況を伝えてくる以上、花楓も含めて、ここから先を考えている、ということだ。

「忍さんを運ぶための進軍が、境界線を越えました」

「――早いよな」

「そうでしょうか?」

「おゥ、少なくとも俺の予想よりゃァ早い。境界を越えたッてこたァ、妖魔が異物として排除する段階に入る。前後左右、逃げ場もなけりゃァ空白もねェ。おおよそ七キロの距離だと目算はしてたが……」

「十時間、だそうです」

 距離はだいたい、蓮華の言った通り。そして十時間以内に到達しなければ、ほぼ不可能になったと考えろと、そう伝えられたらしい。今も友人が、転寝夢見が学園の防衛に当たっていると思えば気が逸るけれど、今はまだ花楓が動く時ではないのだと、肩の力を抜くことを意識した。

 蓮華が笑う。

「ははッ、そうかよ。――あとは指示に従えるかどうか、間に合わせの部隊の仕上がり、錬度次第ッてことじゃねェかよ」

「いったいどういう思考回路してんの、先輩は。わけわかんないんだけど」

「思考の差じゃねェよ、そこまでに至る情報量の差ッてやつなのよな、これが。簡単な話だぜ蹄の、ここから十時間以内に突破可能な人材が誰かッてのを、知ってるか否かよ」

「さすがですね、蓮華さん。現在確認されているのは、前崎鬼灯たち三名、五木夫妻、加えてまどかつみれさんを含めた三名です」

「へえ……もう二人くれェは欲しいところだよ。どのみち、円がいなくっちゃァ成功はしねェよ」

「んー、防衛より突破ブレイクスルーのが難しいしね」

「――そう、ですか?」

「そうだよー。防衛はね、個人の力量に委ねられる部分が多くても、どうにかなるから」

「はッ、偉そうに暢気が頭を回しやがって」

「昔のあたしと一緒にしないでよ、先輩。これでも一児の母親だからねっ」

「胸を張るところじゃねェだろうがよ。けどまァ、間違いじゃねェよ。防衛に関しちゃ、視野が広けりゃァどうにでもなる。ただ突破はなァ、指揮官ッて存在が必要なのよな、これが」

「防衛よりも、ですか」

「目的地への行軍にはね、単独行動であっても視野が狭まりやすい。確実に俯瞰をするためにはバックアップが必須だから。あとは戦術の幅かなあ。真っ直ぐ、それこそ一直線にって考えしかないようじゃ、話になんないし」

「ッたく、偉そうに言いやがるよな」

「いいじゃんか、経験したんだもん」

「お前ェよ、まさか今の俺になら勝てるなんて思い上がりをしてんじゃねェンだろうなァ?」

「いやいやいやまさか! 冗談やめてよ! 陽炎、ちょっ、陽炎呼んで!」

「しょうがねェ、冗談にしといてやるよ。それと呼ぶなら山のにしとけ。紫月しづきが伸ばした糸で、こっちの会話も聞いてンだよ」

「うげ……そういうとこ、ほんと、変わんないじゃん先輩は。あーやだやだ、あたし戻る。移動は夜明けを待ってかな?」

「はい、私はそのつもりですが……どうでしょう」

「おゥ、いいンじゃねェかよ」

 じゃあ寝ようと、七はふらりと揺れるような足取りで中に戻った。それを見送ってから、僅かに視線を落とすよう花楓は考える。

「――勘が良い、のでしょうか」

「まァそんなもんよ。なんだ蹄の、感知範囲が広いじゃねェか」

「鍛えざるを得なかったので」

 かつて、周辺察知などの役目は夢見が負っていた。ESPの汎用性については舌を巻くほどで、随分と助けてもらったが――夢見が前線から身を引き、あの鷹丘少止と離れてからは、否応なく自分でやらなくてはならず、敬遠していたからこそ重点的に鍛えたものだ。

 それにこの状況下、あるいはその訪問に関しては、予想できていたのかもしれない。それを前にして逃げ出した七は、やはり勘が良かったのだろう。

「……兎仔とこさん?」

「よー……ってブルー、もういいのか」

「お前ェに心配されるほど落ちちゃいねェよ」

「そりゃそーだ。あたしだって心配はしちゃいないぞ。んで蹄の、どうだ」

「今は落ち着いているから、私一人でも大丈夫だよ。ここから先を考えていたところだけれど――兎仔さん、円さんたちの行動は?」

 それだと、言いながら兎仔は煙草に火を点け、蓮華に箱を向ける。おうと言いながら、蓮華はそこから一本を引き抜いた。

「どこまでだ」

「追加に二人くれェいるンじゃねェかッてことを言ったところよ」

「ん、ああ、七草と北上が入ったぞ」

「確か元軍人の……兎仔さんとも繋がりがあったと聞いてるけど、軍部では上官だったのかな、彼らは」

「そんなところだ。予備役になってからはエイジェイが遊んでやった――北上だけな、そういうこともあったらしいぞ。あたしが教えたのも、防衛や指揮なんかじゃなく、いかに足を前へ出すかってことだ」

「突破力が高いんだね。こっちには十時間以内に、なんて情報が届いているけど、兎仔さんはどう見てる?」

「十時間。どーせつみれの試算なんだろうが、地獄だぞ……次善の手だろーけど、あいつは自分の負担を度外視してるっつーか」

「そこはサミュエルがフォローするんだろうよ」

「ことが終わったら、七草と北上にゃ、あたしからフォロー入れてやんねーとなあ……あたしが動けりゃいいんだけど、暇があるかどうかが問題だ」

「兎仔さんの方は、継承かな? それとも――ベルさんと小夜さんの〝契約〟に観戦予定でも?」

「相変わらず、そういうところは聡いな。まー、どっちかってーと巻き込まれた感じだぞ」

「ははッ、さすがに断りきれねェかよ」

「笑いごとじゃねーぞブルー。ついでだ、お前から見てどうだ」

「あァ?」

 笑い話だろうがよと、蓮華は紫煙を吐き出す。きちんと風下で吸っているあたり、二人とも気遣いはできるのだ。言動や態度ではよくわからないけれど、細かいところに気が利く。

「俺から助言があるとすりゃァ、徹頭徹尾、回避と防御に専念しろッてくらいだよ。その上で、戦場には居ろ。存在できるッてことが一つの証明だよ。現行のアブならともかくも、次世代のコンシスじゃ無理な話だ。イヅナが観戦に回るだろうから、手を貸されても文句は言うンじゃねェよ」

「そんなところか……」

「兎仔さん、鈴ノ宮すずのみやの様子はいかがでしたか」

「合流するか? それも手だけど、まだ早いぞ」

「そこはわかっていますが……」

「わかってんなら、忘れろ。さっきツラ出してきたところだぞ。エンスの野郎が酒持って移動してたんで、そのついでにな」

「あっちは数が揃ってンだろうがよ」

「まーな。状況に応じてンのは野郎連中が中心だが、指揮のほとんどはマリーリアがやってるぞ。こっちと同様に状況は落ち着いてるし、問題があるとすりゃ、若い連中の実力不足ってところか。九番目や、四十物谷あいものやのあたりな――おう、零番目もいたぞ」

「へえ……どうしてたよ」

「不貞腐れてたぞ。九番目と清音きよねが宥めてたけど、ありゃガキか」

「ははッ、昔からそんなもんよ。ッてこたァ、ベルが運んだんだろ。情報解禁かよ」

「まーな」

「情報? それは、ここで私が訊いても問題なかったかな」

「おー。九番目の種が誰のもんかって話だぞ」

「――そう、だったんだ」

「昔ッかられいはベルにべったりだったンだよ。理解はしても納得はできねーだろ……どうせ、ベルが死ぬならもういいやッて具合で逃げてたのを、ベルが掴まえて九番目に任せたンだろうよ。もう戦力としちゃァ期待できねェし、その技術を継承することもねェだろ」

「そうは言うが、そんな事情よりも、蹄のにとっちゃこれからの方が問題だぞ。なあ?」

「まあ、そうだね。鈴ノ宮に集まっている橘の血筋も気にはなるけれど、私としてはここから先――どの時点で学園にたどり着くか、そこは外せないかな」

「さすがに、お前一人に任せやしねーって。状況入りする頃にゃ、あたしがそこそこ動けるようになっから」

「そうなのか?」

「まーな。ほかのと違って、あたしはそんなに今までも動いてねーし、なんとかなると思うぞ」

「それは朗報だね。なんというか、本当に、ここにいる人たちを間近に感じていると、どうも自己嫌悪というか、落ち込みたくなるよ」

「気にするこたァねェだろうがよ」

「そうは言いますが蓮華さん、この状況で間近に感じれば、否応なくわが身との差を突きつけされますから」

 ともすれば、自分が不要だと思うほどの実力差だ。行軍になった時、戦闘要員の中で一番の足手まといになる――それでも、前に出なくてはならない。

「状況の中で成長しろってことだろ、蹄の。それともあれか、夢見と少止(あゆむ)あたりと戦場を同じくしたかったか?」

「そちらの方が楽しそうではあるけど、私にはほかに優先することがあったからね。仕方ないと今回は諦めたよ。けれど機会があるなら、そうありたいかな」

「抱えるもんがなけりゃーな」

「だったら尚更だよ、蹄の。休憩を入れろ。そうだなァ、おい兎仔、お前ェどのくれェいるよ」

「あ? 暇だけど場合によっちゃ動くぞ」

「状況も落ち着いてッから、山のや原のとローテ組んで〝防衛〟としゃれ込むから、明け方まで休んでろよ。――いいよな?」

「……はい。わかりました、お願いします」

 疲労を見抜かれるのも随分と慣れてしまったなあ、なんて思いながら、十時間ぶりに中へ入る。休憩を取るのもまだ一度目だが、戦闘を継続していたわけではないため、可能な限り防衛に立とうと思っていたのだけれど。

 軽く手を振って中原なかはら陽炎が入れ替わりで出て行き、それに対しては頭を下げて感謝を伝え、玄関のソファに腰を下ろす。内部の光源は電力を調整して最低出力になっているため薄暗かったが、外にいた陽炎にとっては眩しさを感じないだけありがたい。

 革張りの柔らかいソファが眠気を誘発する。客を迎えるには好ましいが、いかんせん疲労時には睡眠欲に引っ張られそうになるため、一概にありがたいとも言えないのだが。

 ふ、と息を吐いて背中に体重を預けると、隣からお茶が差し出された。

「なごみ」

 旅館の制服でもあった、楓の模様が散りばめられた和服を着ている梅沢なごみに、まだ起きていたのかと言おうとしてやめる。時計を見ればまだ二十一時を回った頃合いだ、さすがに寝るのは早い。

 ――早い、だなんて。そんな常識も通用しなくなるのにと、苦笑の一つもしたくなる。

「ようやっと休憩け」

「あれ、怒ってる?」

「そんなことねーべさ。けんども、あんまし休憩せんと、心配するがー」

「外にいても、それなりに休めてはいたけれど……ん、もしかしてなごみも寝てない?」

「こんな状況じゃけん、旦那ががんばっとんのに、妻が一人で寝とれんぞん。ほれ、そっち寄りや」

 茶請けには小さく切った羊羹が置かれ、横にずれると隣になごみは腰を下ろし、大きめのブランケットをお互いの膝にかかるよう折りたたんだまま置くと、花楓の肩に体重を預けた。

「もしかして、知ってた?」

「休憩じゃろ? さっき、蓮華さんが動けるようになったから、交代に出てくるから用意しとけ言うてんな」

「逆に気を遣わせちゃったな……私もまだまだ、子供扱いみたいだ」

 自然な動きで、花楓は頭を撫でる動作の流れでなごみの髪に触れた。

「時間があれば、あとでお風呂かな」

「そう思ってうちも入っとらんきに。そうじゃったら、花楓も入らんとあかんべ」

「周到だ」

 お茶に手を伸ばして飲めば、温かさが染みわたる。――いや、温かいのは隣にいる守りたい人か。

「みんな、元気にやっとんかなー」

「それぞれの場所で、やるべきことや、やりたいことをしているはずだよ」

「……つーやん、無茶しとんじゃろ、あん馬鹿」

「はは、蓮華さんかな」

「つーやんがやらないなら、ほぼ不可能言うとったのん」

「私も聞いたよ。さっき、突入したって連絡があってね。……心配?」

「しちょるけども、したってしょんにゃーよ。生きとったら、また逢って、そん時に喜ぶ準備しとくさー」

 そういうところがなごみの強さだ。無力だからと力を求めるのでもなく、できないからと諦めるのでもなく、選んだ道を否定せずに、今在る自分で対応しようとする。もちろん、それでも心配なのには変わりないし、その感情を持て余すこともあるだろうけれど。

 果報者だ、と花楓は思う。こんななごみの隣に自分はいられるのだから。

 すぐに寝息が聞こえてきた。足元のブランケットを肩までかけてやるのも、片手でやるのは面倒だったが、初めてのことではない――と。

 ロビーに瀬菜せなが顔を見せた。視線が合うと、厨房に回ってお茶を片手に戻ってくる。

「――ようやく休んだのね。一応、休むよう促したのだけれど、花楓が働いているから休まないと言って聞かなかったのよ」

「すみません、お世話になったようですね」

「釈明なさいよ」

「はは、付き合いが長いだけ、そうだろうことは予想できていましたので。ご迷惑をかけることになる前に、独自の判断で休むだろうとも」

「良い関係ね」

「ありがとうございます。こちらの様子はいかがですか?」

「落ち着いたものよ。久しぶりに逢ったこともあって、状況を忘れて昔話ばかりだけれど」

「こんな状況にもならなければ、逢うこともないあなたがたの縁の方が、私にとっては苦苦しいものがありますよ」

「それほどのものじゃないわよ。お互いに仕事だったり――」

「――逢おうと意識せずとも、繋がっていられる関係ですか。羨ましくもありますが」

「似たようなものかと、思ったでしょ」

「かたちは違えど、ですけれどね」

「ん。――ああ、私のことは気にしないでいいのよ。どうせ戦場からの撤退で、熱が冷めるまではろくに眠れないでしょうから、その間のつなぎね」

 そこまで考えての配慮だったのかと思えば、やはり頭が上がらない思いが強い。気遣いが上手いというよりは、人との距離の取り方のうまさだろう。単純に、人付き合いの技術だ。

「気の抜けた顔。いつもこう?」

「嬉しいものですよ、自分の傍で落ち着いてくれるのは」

「ふうん。装備の補充は?」

「可能な限り、消費は最小限に抑えています。それに最悪、私の場合は針でなくとも対応は可能ですし、――武術家ですから」

「守るべき対象を広げても?」

「お見通しですか」

「この人数、仮に紫月や陽炎が動かない前提として、引きつれて行けるのに、花楓一人じゃ不可能よ。それこそ部隊……そうね、最低限指揮官が必要になる。駒が揃って戦力になっても、行軍ともなれば勝手が違う。いくら露払いをしたところで――と、まあその程度は誰が考えてもわかることね」

 それらを花楓が考えているものだ、という前提での言葉。性格上、花楓は最後の言葉を付け加えられなくとも、否定も反論もしなかっただろうけれど。

「対人交渉は、仕事で覚えたのよ」

「まだ聞いていませんが、そうでしたか」

「忘れてる? 私は、一ノ瀬なのよ」

「覚えています。そして、一線を退いたとも」

「そうねえ」

 巫女装束ではないものの、対面に座った瀬菜は軽く腰を上げて裏側から小太刀を鞘ごと引き抜いた。

「事情は知らないわよね」

「ええ……退いたと、そう雨天から聞いていたので、それ以外は」

「一ノ瀬は五木の領域に組み込まれた唯一の武術家なのだけれど、五木の仕組みについては知ってるわね?」

「事情は一通り」

「そう。五木の仕組みが瓦解してから、忍が刀を置いて、理事長の職に専念することになったことに対して、雨天が特になにも言わなかったのは、あの時点でもう、こうなることを理解していたのかもしれないわね」

「なにも?」

「ええなにも。まあ忍の性格もあったのでしょうね。――現状、刀を持ち、天魔に認められていることが証明するように。それはともかくも、私も似たような道を選んだのね。当時、私が高校二年くらいだったかしら――」

 五木が瓦解してから、蓮華を含めた彼らが高校入学したのだし、自分は一つ上だったから、そんなものだ。

「高校卒業までの一年と少し、私は雨天に師事して一ノ瀬を修めたのよ」

「――たった一年で?」

「そうよ。私は武術家として生きようとは思ってなかったし、その思想は否定されなかったけれど、継ぐことをしないのでも、次がなくてもいいから、中途半端じゃ――」

 そうだ。

 その言葉は的を射ていた。

「――中途半端じゃ、遺恨になるから、と。どのような道を選び、満足して終わっても、半端は必ず棘になると、雨天に言われたのよ。私も性格上、そういう半端は嫌いだったから、師事を受けたし……蓮華は知ってたみたいだけれど、それ以降、以上はなくとも維持はしていたのね」

 引き抜いた小太刀は右側へ置かれ、一つ貰うわよと言って羊羹を一切れ口にした。

「で、修めたのを認められてから、言われたのよ。ここから先、どれだけ衰えようとも、小太刀を掴めば私は一ノ瀬だと。まったく……その通りだから癪に障るわよね」

「雨天の――静殿、ですか」

「そう、あの化け物。この状況になる前に一度顔を合わせて、まあ……馬鹿騒ぎをするがどうすると言われたけれど」

「ああ、それは私の方にも。お断りしましたが、あれは……」

「この状況下で、最後の花火ね。――最期、かしら」

「あの雨天静殿の最期など、想像できませんが」

「いるでしょう、対抗馬が。武術家としての最期を迎えるのなら、少なくとも私が考える限り、あの人しかいない」

 言われ、直接的な面識はなくとも、その名は思い浮かぶ。

 雨天彬。

 二十一歳にして、静と呼ばれる武術家の頂点を超えたとされる、傑物。

「もしかしたら、今頃やってるかもしれないわね――」

 これだから男はと、ため息交じりに呟かれ、一緒にしないでくれと思わず言ってしまった花楓は、似たようなものでしょと返されて、それ以上の反論が浮かばなかった。


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