10/20/23:50――円つみれ・乱針の矢印

 時間が、遡行する。

 否だ。

 時間とは常に未来へと進み、未来を現実が塗りつぶす。それが逆転するようなことはありえないのが真理だ。現実とはそういうものであり、現在は常に意識できないものになる。

 紛うことのない現実を、しかし、現実であると証明することは非常に困難だ。明晰夢の中で、これが夢であると認識するのですら、個人の感覚でしかなく、であればこそ、現実であると証明するのも個人の感覚でしかないのなら、それを証明することはおろか、確定させることは不可能に近い。

 だが、あるのは確かだ。間違いない、絶対と呼ばれるものを決定している概念、つまり世界そのものが確定しているのだから、それを人の身で否定することの、なんと愚かなことか。

 そもそも――確定するためには、比較対象が必要だ。

 あまりにも現実に似た夢は、どのようにして夢と断じるのか。空も飛べない、地に潜れない、無数の敵と戦って余裕で勝てるなんてこともない、ただ現実であろうことの続きの夢は、もはや現実だ。

 けれど、円つみれにはその比較対象があった。

 己の経験だ。

 嘘であると、夢であると断じることのできない時間経過と、それにおける経験がある。しかし、それが現実でないと決定づけられる要素もまた、存在した。

 ぼんやりと視界が戻る。意識が引きずられる、何がどうと考える余裕は、寝起き頭の茫洋とした、時に幸福とも言える時間に存在はしない。――否、だからこそ幸福な時間なのだろう。

「――今日」

 声が聞こえた。どこか疲れたような、どうでもいい、けれど明瞭な男声。頭が動かないままに、つみれはそれを聞いて、応える。

「今日は、何月何日だったか」

 年齢を重ねるごとに物忘れは激しくなるというが、どうだったかなー、なんて思い出す。

「十一月二十三日……」

 違う。

 直感的な感覚が意識を呼び覚ます。すぐに自分が横になっていたこと、そしてここがベルの――〈鈴丘の花〉の自室であることに気付いて、躰を起こした。

 そして、苦笑を浮かべる義父、根ヶ布慶次郎ことイヅナの姿が目に入った。

 久しぶりに見る――そう感じるのに、おかしいと本能が正解を知らせる。それほど時間は経過していない、と。

 倦怠感があった。それでも動くことが不可能なレベルではない。熱が引いていくように、背骨の付近に通っていた血液に似た何かが、最後の余韻を残して消えていくのを感じる。

「違う……今日は」

「AI、現在時刻を投影しろ」

 見るまでもなく、わかる。理解できる。現状の把握、自身の制御、思考の流動、それが把握できなければ、円つみれではない。

「今日は、十月の……二十日」

 躰を起こすつみれは、まるで視力の低下を認めているのにも関わらず、必需品の眼鏡をどこかに忘れたかのように、目を細めるようにしていた。寝起きと疲労が見せる景色を、できるだけ明瞭にしようとした結果だ。

「これが――あたしの術式か」

乱針の矢印デッドコンパス。そう名付けたのはイヅナだったな」

「義父さん、あたしはこれを使ったのね?」

「そうだよ。つーか、俺が拾った頃のお前には、それしかなかった」

 それだけしかない――充分過ぎる。人を殺すのには弾丸が一発あれば事足りるのに、ガトリングを持ち出してミンチにしてしまうほど、それは過剰だ。

 円つみれの魔術。

 姫琴雪芽が手を貸して世界の記録に繋がる権利を与えられた、内世界干渉系の行き着いた先、イヅナが名付けた乱針の矢印。

 それは、一個世界を己の内側に創り上げることだ。

「だから、封じたんだ」

「そうだ」

「危険性よりもむしろ――こうなることを危惧して」

「……まあ、な」

 それは、たった一つの道筋であったところで、限りなく現実に近いシミュレートだ。時間にしておおよそ四時間、今はもう深夜になってしまっているが、たったそれだけの時間で一ヶ月の仮想現実をつみれは生きてきた。その上、それらの情報は脳内にきちんと保存されている。

 読み終えた本を手に取るように、それはいつだって思い出せた。

 扱い方はかつての方が上手かったかもしれない。だが、かつてはそれしかなかった。であればこそ、なるほど、確かに円の完成形としての〝成果〟は出せたのかもしれないが、そこにはあらゆる危険性が孕む。

 現実に倦むことも、仮想現実に逃げ込むことも。

 何しろ当時の円つみれにとって現実とは、そのほとんどが二度目の道筋だったのだろうから。

「安定してるか?」

「今はまだ何とも……疲労はあるけど、それだけ」

 仮想現実と今ここにある現実を区別するものは多くある。その最大たる理由が、つみれが自身の術式を使えるということを、自覚できている事実だ。

 仮想現実の中で、更に仮想を重ねることはできない。だからこそ、そちらの時間軸でつみれは己の魔術がどんなものであるかを探ることが曖昧であったし、術式を行使できなかった。できるはずがない、何故ならば既にその状況下でつみれは術式を使っていたのだから。

 ここが現実だ、という確証があった。人はそこを疑問視しない。ただ在ればそれでいい。夢ではないのだと認識できれば、それ以上はいらないのだ。疑心を抱くことも、疑念を晴らすことも、必要ない。

「義父さん、いつから?」

「俺はほんの二十分前にきたばかりだ」

 ちらりと、吸い殻が山積みになった灰皿を一瞥してから深い吐息を足元へ。いちいちイヅナの言葉を疑っていても仕方ない。

 ――可能性は、あくまでも可能性だ。

 シミュレートしたのは、ここからありうる一つの可能性でしかなく、それが現実になるとは限らない。まったく違うかもしれないし、あるいは同じにすることもできるだろう。ここからは、つみれの選択だ。

 夢とは違う。

 あれは今の続きではないにせよ、可能性の露呈。であるのならば、情報そのものは事実になる。

 思い返せば、常につみれの視点ではなかった。知っていることは、必ずしもその場につみれがいなくてもいい。いない場所で語られたものも、知識として残っているあたり、それもシミュレートの結果――というやつだろう。

 そしてあるいは、つみれ自身が術式の内部であると気付いていなかったように、ほかの誰かも制限を受けていたはず。

 わかりやすいのは、鷺城鷺花だ。あるいは蒼凰蓮華。あの二人はわかっていて、それでもつみれ自身に気付かれないように動いていた。いや、気付かせない術式の中なのだから、本来ならばできない、が正しいのだろう。

 それを終わらせたエルムレス・エリュシオン。

 彼らの存在は、これからつみれがどう動くかの指針にもなるだろうし、度外視はできない。

「……どうでもいいか」

「先輩、そりゃないっスよ」

「――あたしがこれからどうするのかって話っスか」

 むっ、と珍しく嫌そうな顔をしたイヅナがつみれを見る。たぶん言葉遣いが類似していることへの反応だ。

「わかっているんだろう、俺もイヅナもお前が何を見てきたのかなんてのは知らねえ。どうしようと勝手だ」

「うん。それでも、どうするかの責任はあたしに発生するし、場合によっては周囲を巻き込む。だとして、どうでもいいと言ったベルさんは、あたしに望む役割なんてないってことでいいんすか?」

「その通りだ」

「そうっスね。――望まれる役割なんてのは、気付いたら発生していて気付くものであって、誰かに言われるものとは違うし……あ、そうだ」

 思いついたのはつみれも落ち着いたからか。頼みがあるんだけどと、その言葉を切りだす。

「この投影システム、うちのサーバメインにして行使権限をAIに与えておいて。義父さんが指定した優先度Sのあたしに関連する条件の解除と、オレンジジュースの使用許可をちょうだい」

『断る』

 揃って放たれた否定の言葉に、つみれは腹を抱えて大笑いした。ここは現実だ、間違いない。二人の性格からして、つみれが術式によって仕入れた可能性の行く先の情報から、いつか訪れるだろうその条件を開示した時、どうするかの反応は、これもまたつみれが、ここから先にあるかもしれない会話の内容から察した、二人の性格を元にして予想を付け加えたのならば、否定するだろうと思っていたところだ。

「ひー、ひいー、にゃはははははは……はー、はー、ふいー、笑ったあ」

「お前ね」

「ごめん、ごめんってば。冗談っていうか、試したのはごめんって、相手が悪かった」

 そうだ。

 性格ではなく、経験と立場からして、それがつみれの試験であることを見抜いた上で、二人は否定したのだ。つまり、内容としてはべつに否定しなくても良いものであることを承知の上で。

 この場合、試す相手が悪かった――というのが、近い。

「まあいい、イヅナに任せた」

「や、そりゃ俺は親父っスからねー」

「そりゃそうだけど、義父さんすげーって思ってんのは変わらないよ? あ、基本的には大丈夫そう。問題はこれから」

「とりあえず好きにしとけよ。危うい状況なら俺が手ぇ出してやるから」

「それはありがたいんだけど、義父さんってそんな暇あんの? 杜松の管理もそうだけど――少止さんのこともあるし」

「へえ?」

「え、そんな気にしないよね? 改めて何がどうとかは言わないけど、知ってることを隠さなくてもいいでしょ?」

 大半の相手には、それを開示することは危うい。さりげなく仄めかしたり、さも知っているふうを装って相手の隙を誘うだなんて芸当が自分にできるかどうかはさておき、少なくともこの二人を前にして、隠す必要はないだろうと思う。イヅナは頭を掻き、それはそれで信頼だからいいけどと、口を開く。

「少止はどうよ」

「あたしは、あんまし知らないけど……義父さんが教えてないのは、義父さんの理由だし、べつに。あたしは助かるけど、ほかのこともやってるわけで、大変そうだなって」

「俺の気づかいなんて百年早い」

「まったくだ」

「ベル先輩に言われたくはないっスよ! マジちょっと気遣って欲しいんすけど!」

 手を握って、開く。心身に齟齬はなく、自身の把握に余念はない。仮想現実ではできなかった認識が己の中にある。

 そうだ、あとは。

 問題は。

 どうやってつみれが対応するのか――その行動の如何で結果は変わる。

 変えようともできる、誘導することもできる、はず。

 だとして?

 円つみれは、何を望む?

「――帰ろ。ありがとねベルさん。義父さんはどうすんの?」

「俺は次の仕事のために、もうちょいここにいて、内緒話だ」

「らーじゃ。義母さんまだいるんでしょ? 何か言っとく?」

「いんや、何も。――ああ、あとで顔見せるからって伝えといてくれ」

「わかった。じゃあまた――で、いいっスか、ベルさん」

「おう」

 また、は仮想現実ではなかったが。

 現実では、つみれはそれを望んだ。

 これから先、こうして比較する状況が多くあるだろう。それには慣れるしかない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る