--/--/--:--――円つみれ・旅館で待ち合わせ
十一月二十日――。
さすがに冷え込みも強くなるものの、八時を回って陽光が出ているのならば、サミュエル・白井にとってはさほど問題にするようなものではない。では、どの程度なら問題になるのかと問われれば、行動に支障がでる程度、と返答するのだから曖昧だ。
ただ、日本の、この
雨天の家へ顔を出すとのことをつみれから聞いた白井は、一緒に赴くことにした。というのも、以前に一度行ったきりで次はなかったし、改めて謝辞くらいはしておこうとの判断だ。
合流場所は
――しかし、少し早すぎたか。
まるで神社の入り口のように広い階段を一歩ずつ登りながら、並んで植林された
それにしても久我山というのは、どこかで聞いたことのある名前だ――と、思考が浮かんだこの時点で、問題が名前であることがわかると、白井はそれ以上を追求しようとしない。昔からそうだ、人の名前を覚えるのが苦手で、意識すればするほどに、すぐ忘れてしまう。日常的に使うようになれば問題ないのだが、これも昔の生活が影響しているのだろう。
海賊時代は、それなりに兄姉がいたけれど、入れ替わりもそれなりにあった。いつかいなくなることを理解しながらも、付き合いそのものを変えようとは思わなかったが、すぐ忘れるようにしていたというか、忘れてしまったというか――あの頃は、拘泥しなかったのだ。
人に、その名前に、拘らなかった。
白井自身も名前で呼ばれることはほとんどなかった。ガキやらチビやら、いろいろだ。もちろん兄姉たちは、名前を憶えていたけれど、使っていなかっただけなのだろうが、今はもう確かめる術はない。
階段を上りきると、手入れがされた広い庭が視界一杯に入ってくる。中央は石畳、ほかは砂利が敷き詰められており、大きなせんだんの木があった。素直に整っている、との感想は間違っていないだろうが、白井にしてみれば以上も以下もない。
さてと、時計に目を走らせれば女物の小さなアナログ手巻き時計は八時を少し回ったところ。集合時間は九時のはずだったから、やはり随分と早い。だからといって白井は旅館の客ではないのだ――が、挨拶は必要だろうと中に入った。
中もそれなりに広い。暖色系を基調として作られたエントランス・フロアは待合室が二箇所、喫煙部屋が一つ、正面にはカウンターがあり、そこで何か作業をしていた女性がこちらに気付き、迂回する形で近づいてきた。
小柄な部類だろう。楓の模様が散りばめられた和服だ。
「いらっしゃい――」
「客ではない」
相手の言葉の続きを待つべきだった。白井としては先に言ったつもりだが、相手を封じる形になってしまい、すまんと短く続けた。
「ここでつみれ……円つみれと待ち合わせをしている。外を出歩いていても不審者ではない――」
「つーやん……? あのう、お名前窺ってよろしおす?」
「サミュエル・白井だ」
「ああ、やっぱそうなんじゃのう。うちはつーやんの友人の、梅沢なごみ言うんで。ここの――従業員がー」
「そうか」
「したら、時間までそっちに座ってのんびりするといいさー。こっちとしちゃあ問題ないべ」
「いや――ん、その方がそちらの都合が良いのなら、そうしよう。特に拘りはない」
「はいスリッパじゃけん、使こうて。緑茶でええか?」
「構わない」
「食べるもんいるけ?」
「それがセットで料金を請求するなら、いただこう。軽いもので構わない」
「そかそか、ほしたらちょう待っとってなあ」
さすがに接客業が長いのか、白井の詰まらない返答でも言葉が途切れることはなかった。そうした流れであっても、白井は特に気にした様子もなくスリッパをはくと、待合室のソファの背中を軽く撫でた。
柔らかいソファだ、あまり座りたいとは思わない――と、奥から客らしき和服を着た男性が顔を見せ、ぴたりと足が止まった。その気配に気づいて視線を投げれば、知った顔がそこにある。否、名前も憶えていた。
「チガ」
「――エスじゃないか、なんだってこんなところに」
そういえば、こんな呼ばれ方をしていた。ちなみに、一般的なNATOフォネティックコードではなく、英語でSはサミュエルと呼称するので、そこが起因しているらしい。もっとも、白井だとて適当に呼んでいるのだからお互い様だ。
「どういう意味だ」
足を止めた男、久我山
二人の間柄は、以前に一度やり合った関係になるのだが、やり合ったとはいえ接敵だけであり、傭兵だった茅は即座に依頼破棄の動きを取り、それからしばらく会話をしたのだ。それこそ数時間程度の出逢いだが、白井としては茅が得物として糸を使うことが珍しく、覚えていた。
「僕はてっきりスペインに帰ったものだと」
「不満か」
「そうじゃないけれど、驚きはするよ。しかも、こんな場所でだ」
「こんな場所?」
「僕は久我山茅だ。武術家でもある」
「……ああ、それで聞き覚えがあったのか」
「相変わらず、一テンポ遅れているというか……いや、僕が言えた義理じゃあないか。この前に逢った時は、そんな素振りもなかったじゃないか」
「聞かれなかったからな」
「僕としては、まったく気にしていなかったからね。本当に日本に住んでいるのか?」
「そうだ。それなりに長い」
「やれやれ、そこらの情報は仕入れていたつもりなのに、つもりになっていただけみたいだ。反省だよ、これは」
「シルヴァンにも逢った」
「へえ……ってことは、鈴ノ宮にも関わってるってことか」
「そうなるか。どうなんだ?」
「手合わせのことなら、以前と返答は同じだよ。エスとやるだなんて、冗談じゃない。できると思っているのならば、あの時だって依頼破棄して説得する、なんて行動はとらなかったよ」
変わらないのは、茅も同じだ。張り付けたような、にこやかな笑顔は、感情に左右されず、違う形をあまり見せない。
「実家なのか」
「そうなるね。どうなんだ?」
先ほど白井が放ったのと同じ言葉に、ソファから手を離して小さく吐息を足元へ。
「待ち合わせだ」
「へえ、誰と? 君が誰かと一緒に行動するだなんて、僕には想像できないな」
「――うちとや」
背後からの声に、ぎくりと茅は身を強張らせる。実際に白井は視界に収めていながらも、気配を感じなかったあたりに警戒を感じたが――。
「母さん」
小柄な女性だが、その袴装束が雨天ものと被る――が、裾に描かれた紋様が違うことには気付いた。
「うちが久我山の
「ああ」
「えろう早いんなあ」
「すまんな。俺が暇人であることを証明できたと思えばいい。証書が必要ならあとで言ってくれ」
「はは、おもろいなあ。――茅」
「な、なにかな母さん」
「うちは出る。旅館はなごみに任せるさかい、わかっちょるな?」
「――わかってる、僕もできることをするよ」
「わかっちょらんのう。
「え、どうして!?」
「うちが雨天に行く、そういうこっちゃろ」
「…………」
ぱくぱくと口を開いた茅は、しかし、仕方ないという様子で肩を落として背中を向け、ひらひらと力なく手を振って去ってしまった。
「つみれから聞いとるよー。しかし、なんでまた」
「以前に一度、世話になった」
「ほうほう、雨のも忙しそうがー。ま、白井が相手なら暇潰しにもならへんか」
「返す言葉はない」
「諦めとんのけ?」
「事実に反論するほど、面倒を抱え込まないだけだ」
「お待た……あ、なんやのおっかあ、おるなら先言うてよ。お茶二つしかあらへんべ」
「ええよ、茅は戻ったさかいに」
「ほんならええかー。んじゃごゆっくりなあ、白井くん」
「ああ、助かった」
先に和菓子とお茶の代金を支払うと、紫月に座らないのかと問われ、白井は首を横に振る。
「柔らかい椅子は苦手でな」
「ベッドも硬いんがお好みけ」
「いや――ベッドは逆だ。夏場はハンモックだが、海の上を感じられるような場所の方が眠りやすい」
「難儀な性格じゃのう」
「それでも余所に迷惑がかかるなら、頑なに拒否はしない」
「そんなことはないがー」
「迷惑か?」
「つみれの判断じゃけん、うちが口出しするもんじゃにゃあよ」
「ならいい」
温かいお茶が身に染みる。白井としては、飲めればなんだって良いのだが、素直に美味いと思っておけば、問題にはならない。
「茅とは戦ったんけ?」
「ん……どう、なのだろうな。遭遇したのは事実だが、先に向こうが降参したような形になるのか」
「どういう状況なんじゃー」
「向こうは四人の団体様でな、理由は知らんし襲撃されたのなら対応するしかない。その頃の俺は陸に上がっていてナイフの技術を持っていた。得物としての糸は初見でな」
「ほいたら、驚いたがー」
「広域殲滅で注意することの基本は変わらない。その頃の俺は暗殺特化だ、速度をメインにしての死角を抜いて殺害。糸が展開された気配で先制した――が、人数の補足に失敗してな」
「失敗け」
「そうだ。三人かと思ったらもう一人いた。立ち位置に失敗したのは、最初の接敵が防がれてからだ。暗殺としては致命的なミスだが、追撃に入る前にチガが俺を声で止めた」
「甘いのう」
「どっちがだ?」
「どっちもや」
「だろうな。……いずれにせよ、俺のことはあまり気にするな。つみれの付き添いだと思っていてくれ」
「そうけ? ほんでも、おんしらの世代じゃちょいと手に余るじゃろ、白井は」
「つみれに使われているなら問題ない」
「あー……そげなこと言うから、きたぞん」
何がだ、と言うと玄関が開き、つみれが顔を出した。
「おはよー! あれ、ミュウもうきてたんだ」
「おはようさん」
「ああ……暇人の証明書なら、ミルエナに作らせておいてくれ」
「は? なに言ってんの」
「気にするな」
「家にいてもやることないってより、待たせたくない方の気遣いでしょ、ミュウの場合は。それよか紫月さん、今日はありがと」
「以前にも言うとったがー、構わんぜよ。それにほれ、荷物あるきに、持ってってや」
「ん? 荷物?」
「そう、つみれと白井の荷物じゃけんのう。この前、鷺花がきとってな? 雨天への荷物さかいに、にしゃらに持たせえ言うとったがー」
「つみれ、いつから運搬業務を始めたんだ」
「知らないし……まあいっか。箱一つだけど、ミュウに頼める?」
「構わない。徒歩の移動でもそう時間はかからんだろう」
玄関の隅においてあった段ボールを持ち上げた白井は靴をはいて外へ。二人も揃って出てきたかと思えば、一度紫月は屋敷を振り返る。
「――猫目! ついといで!」
それだけ言って、先導するように歩きだす。やや慌てたようにつみれが隣につき、白井は後ろだ。
「猫目さんってのが、久我山の天魔?」
「そうだのん。いっつも湯治ばっかしておる、気まぐれな猫さー。呼んだらくるきに、問題あらへんのよ」
「この前、暁さんと蓮華さんが一緒にいて、ちょっと混ざったんだけど、紫月さんがすげーって話、聞いたよ? 暁さんが、厄介な相手として、えーっと
「鳥のと一緒にされてもなあ……あれは別格やと思うちょるけんども。認められとんのは悪くないがー、したっけうちやって雨のには敵わんがー」
「あたしは、本当に最近になって武術家のことを知ったんだけどさ、そもそも糸っていうのは、どういう武器になるの?」
「系統としては暗器じゃのう。うちの糸は広域殲滅なんかに向いとるのん」
「んー……想像できない。ミュウは知ってる?」
「調べただけの知識でいいなら」
「聞かせて」
「最細の零号から実用的なのは八号くらいまでの太さだ。戦場で使う場合は確かに広域殲滅を主体とするが、あくまでも結果でしかない。糸が配置されていることに気付かなければ、それで終いだ。逆に言えば、気付かれずに配置する技術そのものと捉えても間違いないのかもしれない。あとは有効射程範囲だ。八百も離れていても使えるのなら、それはもう狙撃と変わらん」
「うぬう……」
「おかしなとこはねーべさ。けんども、久我山の糸は小太刀二刀の補助武器として使われとったもんの派生じゃき」
「源流がそうであっても、派生したらべつものって話も聞くよ?」
「あはは、こりゃ一本取られてもうたなあ」
「あ、そうそう、ついでってわけじゃないんだけど」
「なにさあ」
「久我山って、元は野雨を拠点にしてなかったよね? 鹿児島……だっけか。そういう情報があったんだけど」
「間違っとらんよー」
「野雨に出てきたのは、紫月さんの世代?」
興味あるんけと問われ、つみれは頷く。ここのところ、野雨の過去について調べている最中で、小さな情報も実際に人からその経験談などを聞きたいと思っているのだと伝えると、紫月は笑いながら口を開いた。
「うちはなあ、子供の頃にあちこち連れ回されとったんよー。この言葉遣いもその名残じゃのう。こんでも、聞き取れる程度じゃろ? 昔はもっと酷かったがー」
「子供っていうと、どのくらい?」
「中学に上がる頃にこっち来たけん、そんくらいまでだのん。おっかあが早くに亡くなって、久我山の親父に付き添って――いわゆる武者修行いうんかな。あ、おっとうはまだ存命だがー、隠居暮らししとるぞん」
「あちこちっていうと、それこそ日本中? その頃からもう糸を使ってたの?」
「使えんと、親父の手伝いもできへんかったやん。けんども、覚えるに従っておもろくなってなあ、ほんで親父がこいつぁまずいと、手に負えないと思ってん。ほんでうちは野雨にきて、都鳥の大将に師事することにしたべや。やから中学も、学園付属中学や」
「じゃあ、その時にはもう、父親さんは引退?」
「引退とはちょい違うねんけど、似たようなもんやきに」
「なるほど……じゃあ、その頃からもう一人暮らしなんだ」
「いんや、月んとこ――
「咲真……さん?」
「なんじゃ、
「えと、蓮華さんに暁さん、咲真さんが同級生で、一個下に紫月さんと、ええと」
「
「つまり――野雨を拠点にして長いってことかあ」
「今も昔も、野雨は雨天の縄張りやってん、やから逆言うとうちは何もせえへんでええっちゅうことじゃけんのう。そら、たまに声かけて仕事したりもしとったけんども、高校卒業してかずやんが公務員なるって大学卒業してからべさ、今の旅館始めたんは」
「なるほど……武術家も、結構野雨にいるんだね、やっぱり」
「そら雨天があるべ、うちみたいに居座るんは珍しいけんども、ツラは見せよるよ。あとはVV-iP学園もあるけん、学生の時だけこっちいうんもな」
「確かにその――」
その方が、都合が良いのは確かだろう。武術家だとて義務教育を受けないわけでもなし、一般教養としての意味合いで、高校卒業資格を得ている場合も多いはず――その点で、学園という場所は都合が良い。
けれど。
「だから学園を作った……? いや、それは都合が良すぎるかあ」
「うちらの時代じゃ、学園の鐘楼の謎いうんがあったけんね」
「――鐘楼の謎? あの、二十三時に野雨で鳴り響く学園の一番上……教師棟の屋上にある鐘楼のこと?」
「聞いとらんかい」
「うん。ミュウは知ってる?」
「いや、鳴るのは知っているが謎と言われても聞いたことはない。ただ……」
「ただ、その先はなんじゃの」
「いつから鳴っていたのか、ふいに疑問を抱いたことはあるのを思い出した。以前はそのまま放置したが」
「あはは、それじゃよ。あんな? 二十三時から翌朝四時までの外出禁止令が施行されたんは、狩人法が日本で制定されてからや。けんども、学園の鐘楼はそれ以前から、二十三時には鳴っとったんよ。以降、欠かすことなく今に通じてるきに」
「――」
以前でも鳴っていた?
ならば、その鐘楼人合わせたのか? 確かにそれは、順序立てれば正解だろうと思う。しかし、だからといって愛知県内に目を向ければ、名古屋が都心になって近しい現状であっても、おそらく学園建設当時であっても野雨市そのものに注目する意味はそうないだろうし、学園も中央よりもやや南よりに位置している。大きな建造物ではあるが、合わせる意図そのものは読みにくい。
だとしたのならば、最初からそうなることがわかっていて、狩人法に合わせた? 先読みを?
馬鹿げてる――と、一笑することは、できない。それもまた可能性だ。
「正解は知ってるの、紫月さん」
「いんや、うちは武術家じゃけんの」
「そっか……でも、先読みは確か鷺ノ宮の」
鷺ノ宮の魔術、その研究内容が未来の掌握だ。そして、鷺ノ宮が野雨にあったことと関係している――?
「んん」
物事に関連付けを行って深読みするのは基本だが、あまりにも広げ過ぎると思考が追いつかず、発想そのものが生じない結果になる。その状況こそ、頭を悩まして膝を抱える様子そのものなのだが、そういったものを意図して除外できるほど、つみれは上手く折り合いをつけていない。
ただ、現状を冷静に考えた結果は、情報はあるのだけれど関連性が見出せていない。それぞれのプールに水は張ってあるのに、それらを繋げて池にはできない状況だ。
「難儀やなあ」
「ん、なんか放置しておけなくて」
「……いや、それは」
「なにミュウ」
「おそらく――つみれの、円つみれの在り方に関わっているからだと、俺は推察している」
「――」
だから、知りたい欲求があるし、知識も増えている?
ああ――もう、なんだか疑問ばかりだ。
あえて意識を切り替えるようにして、世間話を中心にして話しながら三十分も歩いただろうか。住宅街の一角に位置する雨天の家へ到着する。初めてきたつみれは珍しそうに周囲を見渡しつつも、白井の隣で落ち着いていた。
「ミュウは二度目だっけ」
「ああ」
中に入ってすぐ、縁側に揃って座っていた男女が気付き、女性は母屋へ入って男――雨天
「山の」
「おー、きたぞん、雨の」
交わす言葉は短く、たったそれだけで理解できているような空気がある。同じ武術家だからかと、そんなことを思って軽く会釈をした――と。
ミュウのいない側の隣から声が。
「
「
声に振り向き、応えて。
答えた。
――どうやって?
自分が何をしていたのかと理解するために、振り返り、自分が放った言葉を反芻するように言葉を飲み込んだ途端、膨大な言語知識が脳内になだれ込んできたつみれは、酷い頭痛に顔をしかめた途端、膝から力が抜けた。
「――っ!」
「つみれ?」
倒れる前に片手で白井が支える。
「だい、じょ、ぶ……」
視界が点滅したあたりで、がちんと
「箱、中……お酒だから、出して」
「ああ」
支えていた手をゆっくり放した白井が中身を見ると、酒が三本入っていた。どうするとつみれを見れば、ふらふらとした様子で中の一本を引き抜くと、それをミュウの逆側へ。それは途中でふいに消えるよう見えなくなり、白井は目を細めるが、近づいてきた暁が割って入った。
「ンだよ、
「ん……」
「白井、あっちの縁側に酒を持って行け。円もな」
「すまんな」
ふうと吐息を足元に落とせば、顔を顰めるほどの強さはなくなったため、つみれは白井に引きずられるようにして縁側へ行き、座る。しかし、白井は隣に立ったままだ。
「ありがと」
「いや……」
様子は気にしているようだが、白井の視線は二人に向けられている。やや距離をあけて向かい合う二人は、身長差が頭一つほどもあった。
「どれくらいぶりだっけなァ」
「どないやろ、翔花やんはうちに泊まりくるけんども、雨のは面見せんがー」
「しょうがねェだろ、クソ爺もいねェンだ、雨天の位置にゃァ俺が立つしかねェ」
「しょんねえか」
「で――腕が落ちてねェのはわかったが、何しにきた」
「はは……やっぱり、わかるんけ」
二人は何もしていない。白井が覚えたように、お互いの動きを想定して攻撃を出す素振りすらしていないのだ。ただお互いに対峙して、話をしているだけである。
「茅、きたやろ」
「あァ、ありゃァ鷺花の頼みだから礼はいらねェぜ」
「さよか。ほんでもなあ、――茅の手前、うちも動いとかんと、駄目じゃけん。したっけ、宮のに頼むわけにもあかん」
「
「鷺花や」
「だろうな。
「なんでもええぞん」
「ん……おお、そういやァアレがあったなァ。涙眼、屋敷の防護を頼むぜ。――
「へえ、どげんしちゅう」
「預かりモンだ、
左に伸ばした手が刀を掴む。どこから出てきたのか白井にはわからないが、つみれにはきちんと見えていた。
和服の女性、ややうるんだ瞳までわかる。その上、刀そのものを宿にした和服の女性もだ。細かくは見えない、見えないが認識できる。だからこそ、白井に見えていないことには気付かない。
「あァ、そういやこっちの居合い使うの久しぶりだなァ――楽しくなっちまったら悪ィな、山の」
「ええよええよ、うちも楽しむさかいに――猫目、きばれや」
そうして、鍛錬が開始される。白井やつみれから見ればもうそれは、戦闘の領域だ。
正直に言えば、何をやっているのかはわからない。紫月は時折身を翻すような動きで回避行動をしていて、暁は積極的に動いて踏み込んでいく。二人には糸の存在が視認できていないし、あるのはわかるけれど動きまで読み取れず、対した暁が刀を抜いているかどうかが疑問なくらい、左手は柄に添えられたままだ。
「あら、始まっちゃったか。好きだねえ、暁も」
「あ――ども」
「
「ありがとうっス」
「下手な敬語、使わなくてもいいって。それと、白井は混ざりたいならまず、そこから三歩だけ前へ出て、五分くらい耐えられてから考えなさい」
「……俺の表情はそんなに読みやすいか?」
「当たってるのなら、それでいいじゃないの」
「それもそうか」
あっさりしてるねえと、翔花は隣に腰を下ろした。正しく三歩踏み込んだ瞬間、白井は
「――頭痛?」
「あ、うん」
「安全装置に頼るんじゃなくて、引き抜いた情報そのものを一度プールさせる領域を作っておいて経由するのよ。最初からその流れにしておけば、突発的な事態でも対応できる」
「……なんで」
「ん? いや見てればわかるよ、そのくらい」
「なんか鷺花さんみたい」
「あはは、鷺花と一緒にされると困るね。私のものは、誰でもできることでしかないから」
「察しが良いってこと?」
「そうねえ。鷺ノ宮事件についてはそれなりに詳しく話せるけど、聞く?」
「鷺花さんから詳しく聞いてたってオチは」
「ないね。鷺花はしばらく顔を見せてないし、そういう話は家庭に持ち込むなって言ってある。少なくとも私の前では子供でいなさいってね」
だったら、どうして?
「状況の流れ。鷺花がわざわざ酒を持ってこさせたってことは、お使いでしょ。その意図がどうであれ、円と白井が選ばれたのなら、暁に用事ってだけじゃ足りないもの。だから私に何かあるとなれば、円の魔術師との関係性を手繰れば、そのくらいでしょ」
「どういう思考回路してるの、それ……誰でもできないと思うんだけど」
「そうでもないよ。可能性を限りなく正確に導き出す手段なんてのは、それほどの適性がなくてもできるし。ベルなんかも私から教わったクチだけど、今じゃ私より上手く使ってるからね」
「ちなみに、その手段っていうのは」
「簡単に言ってしまえば、莫大な二つの情報の塊を繋げること。繋げ方というか、閃きというか……多少の訓練は必要かな。一般人なら二十年も訓練すれば使えるようになる」
「でも、だったら尚更、どうして鷺ノ宮事件って――」
「私が元は鷺ノ宮翔花だからよ?」
「――」
名乗ったことはないけれどと続けられるが、その横顔から視線が外せない。
「鷺ノ宮一家は――」
「そう、惨殺されて生き残りはいない。だから私は、小波翔花なのね。ああ、だからって私が犯人とか、そういうのはないから。気付いているとは思うけど、そもそも鷺ノ宮事件に犯人なんていない」
やっぱり、とは思う。そして彼女は、その核心にいた――。
「知りたい?」
「もちろん」
「そうね。そもそも――十一紳宮(じゅういちしんぐう)がどういったものなのか、どこまで知ってる?」
「あれは、東京事変に際して被害を留めるための、言の葉を使った結界そのもの――だよね」
「その通り。続けるけれど、じゃあその結界が張られたのはいつ?」
「え――」
いつ?
東京事変の際には、既にあった。
けれど、一年前にはないとつみれの記録にはある。
「少なくとも後になってできたものじゃない。事前に……え?」
「事前に、配置したのが現実だとして?」
「待って、予兆は」
「あると思う? 一夜にして東京全域が立ち入り禁止になるような壊滅状況が訪れたものに、予兆が?」
小さくなった頭痛が、脳の隅で蠢く――。
「だとして……」
予兆はなかったけれど、手が打てた。つまり。
「東京事変を予想できていたってこと……?」
「その可能性が一番高い――まあ、それは鷺ノ宮が伝えたものなんだけれど、そもそも鷺ノ宮の役目はなに?」
「伝えたってところが引っかかるけど、役目というか魔術の研究は未来の掌握で」
「それ、本気で可能だと思う?」
「えっと、不可能でも追い求めるのが魔術師じゃないの?」
「鷺花にも同じことが言えるなら、正解にしてあげる」
会話をしていてわかったが、やはり翔花もそれなりに厳しいことを言う。見た目ではそうでもないと思っていたけれど、大人なのだ。
「現実的に考えれば――そもそも、未来なんてものは確定していないからこそのもので、確定してしまったらそれは未来じゃなく現在だし、掌握することもできない。何しろ、同様の意味合いで未来は不確定だから」
「だとして、魔術師協会が与えた〝
「あれはそもそも、未来への掌握に対する鷺ノ宮の術式を評価した通り名であって――でも未来は不確定なまま、掌握なんてできない。つまり、鷺ノ宮はその点を偽った……?」
「偽りが通じる相手なら、それでもいいかもね」
「でも、東京事変を予測できていたのなら……」
「東京事変。――ねえ円、いやつみれの方がいいか。つみれ、東京事変は何故起きたの?」
質問の連続だが、それはこちらの思考誘導だ。大して嫌だとは感じない。それよりもむしろ、思考の方が問題だ。
「どうして……? 結果だけ見れば、あれは妖魔の大量発生で」
「大量発生ね、そこはそれでいいか。現実として、鷺ノ宮はそれを予測できた」
「……うん。そこらも疑問一杯だけど」
「けれど最大の問題はそこじゃない。――誰が結界を手配したの?」
完璧に盲点だった。
思考がそこまで至っていなかった。
そうだ。
「鷺ノ宮じゃできない……だって、鷺ノ宮は十一紳宮に組み込まれていたから。だったら、実働がいたはずで――」
「厳密に言えば、十一紳宮そのものを作ろうと動いたのは、鷺ノ宮じゃない」
「……無理だ。東京で災害が起こることがわかっていても、そもそも十一紳宮を使おうなんて発想が――」
「違う違う。東京で災害とかじゃなく、鷺ノ宮が伝えたのは、――世界が終わるってこと」
今、なんと言った?
「世界……?」
「冗談でも誇張でもなく、正確に。そもそも鷺ノ宮は、そういう家系だったから」
そうだとすれば、それは。
「世界規模の厄災を、東京だけに凝縮した……?」
「とんでもないことするよねえ。世界法則(ルールオブワールド)そのものが変えられないから、結果だけを変えて誤魔化したってのが、現実ね。簡単に言ってしまえば、狙っていたものとは違うけれど、同様の結果が出たのだから満足しなさいってところ」
世界法則とは、世界の器そのものだ。記憶の中には、世界の意志なるものもある。それらを誤魔化したのだから、単純な結界だけではない。それに、東京事変と呼ばれる災害そのものが、凝縮化された結果とはいえ、本来ならばそれは世界規模で発生していたことになる。
冗談じゃない――そう一笑したいところだが、いかんせん、それは過去に、現実として起きていたことだ。
「……ふう」
十分も身動きせずにいた白井が戻ってきた。
「どう?」
「五分なら行動できそうだ。水には慣れている」
「そう。暁! 紫月さん! 白井が五分だけ混ざるから、殺さないようにね!」
「おーゥ」
「ええよー」
「だって。これでいいでしょ?」
「助かる。こんな機会、次はないだろう。楽しんでくる」
「そうなさい」
「……つみれを頼んだ」
そう言って、白井は死地にナイフを引き抜きながら飛び込んだ。
「元気ねえ」
「あーうん、ミュウは今のところ、そっちに傾倒してるから」
「みたいね。――
「え、うん、それは」
「鷺ノ宮の本分は、それを読み取ることなの。世界そのものがやろうとしていることを読み取って、誰かに伝えることができる」
「あ……だから、先読みに似た予言ができる……?」
「そういうこと。東京事変、二〇一一年十一月十四日、結果的に東京のみに終わった現象は、果たして世界の意志にとってはどう映る?」
「誤魔化した……んだから、意図しない結果になる」
「そう、それは意図しないものだ。誤魔化された。その原因はなに?」
「鷺ノ宮の予言……」
「だから?」
「――排除すれば、次は、ない……」
口にしていて、鳥肌が立った。お茶を持つ手が僅かに震え、背筋に悪寒が走る。
怖い。
世界を相手にしていた鷺ノ宮の立場、そして、実働として当たり前のように動いた誰か。
そんな存在があったことに、恐怖を覚えてしまう。
成し遂げた結果を見ても、他人事のような感覚よりも、怖さがあった。
――化け物じゃないか。
つみれではわからない。結果として出るまで、何もできない。
「鷺ノ宮事件が二〇四一年十月十七日だから、ざっと三十年。――よく保ったものね」
「だ、だったら鷺ノ宮事件は」
「そう、世界の意志の介入。私は――……そうねえ、助けられたってところかな。親戚筋を含めて全員の総意で、私は小波翔花になった」
「……小波は、確か、元は
「そこも細かい一手ではあるのかな。私は鷺ノ宮を捨てて、あちこちを経由しつつ雨天に引き取られた」
「待った。鷺ノ宮事件そのものは――」
頷きが一つ。予想がついていた、言って欲しくなかった返答を翔花はする。
「――鷺ノ宮を潰しただけで終わるはずがない。当然のように東京事変の時と似たような本筋は実行された」
「でも……」
「東京事変ほどの被害は出ていない。どうして? それはもちろん、そうなることを知っていた人が動いたから」
「それは楽園の」
「ああ、あれは単純にフォローしただけで、本筋には関係ない。本拠が野雨にあるわけでもないしね。しかも相手が世界で、同じ誤魔化しは通用しない――ならば?」
「誤魔化せないなら、真っ向勝負……」
「まだ人が抗えることを示す。それでも犠牲はあった。――方法は知らない。さすがの私も、知らないことを可能な限り正確に導き出すことはできないからね」
「誰が……そんなことを」
「誰に協力を申し出るのでもなく、結果を出せる人物なんて、野雨には一人しかいない。そうでしょ?」
笑いながら問う翔花に、既に血の気の引いた青白い顔で、震える唇から、つみれは。
言う。
「蒼凰、蓮華……」
「おめでと。ようやくそこまで至ったね」
ぐりぐりと翔花はつみれの頭を撫でた。人の手の暖かさをしばらく感じている間に、ようやく顔色も戻り、頭痛が引いていることにも気づけた。
「ね、知ってることだったでしょ」
「――あ、確かに」
ほっと息が出て肩から力が抜ける。思い返せば確かに、知識そのものはほとんど持っていたものだ。だから、翔花は質問を繰り返していたのだし、それに応えることができた。翔花はそうやって、知識を繋げてくれたのだ。ありがたい話である。
「翔花ァ」
「はいはい」
暁の声にひょいと庭に降りた翔花は、ふらりと戦場の中に立ち入って、倒れて動かなくなった白井の襟首を掴むと、軽く引っ張って背中に足を入れ――あろうことか、そのままふわりと投げ飛ばすようにしてつみれの足元へ移動させた。
「ほどほどにねー」
「おゥ」
「あんがとなあ」
「……ミュウ?」
ひょいひょいと軽い足取りで戻ってくる翔花ではなく、足元の白井に視線を落とす。呼吸が荒いわけでもないが、手にしていたナイフがぽとりと地面に落ちる。全身が血だらけだが、深い傷はないようで、白井はポケットから丸薬を取り出して口の中に放り込んだ。
「生きた心地がしない……」
「いやまあ、傷の数だけ殺されてただろうし。増血剤?」
「最近よく使う。癖にならんうちにやめたいものだ――が」
戦場と呼んでいいのかすら、白井にはわからなかった。
「ひざ下に痛みがあった。服が輪切りになって落ちたのが最初だ。俺は何が起きたのかと考えた」
「一切気付かなかった?」
「気配もなにもだ。戦闘状況で痛みを消す手合いもいるが、俺は痛みを初動として受け入れている」
「問題は?」
「何が起きたのかを、疑問に思ったことだ」
「――うん?」
「俺は思考速度がどの程度かは知らん。だが、疑問に思った瞬間に三箇所に傷を負った」
「え、なに、三歩先は魔界なの?」
「水気が尋常じゃない。海に潜っていた方がまだマシだ」
「翔花さんは平気そうだったね」
新しいお茶を持ってくるために、一度中に戻っていた翔花に視線を向けると、平気だねと答えがあった。
「私が行く時は暁が配慮してくれてるのもあるからね。よくもった方だと思うよ、白井は」
「あれは、鍛錬なのか……?」
「ん? 私が知ってる限りだと、暁は遊んでるって感じよ。制限をかけつつも、鈍ってないか自分を確認しているのね。紫月さんの方は楽しそうだけど、どうかな、そう何度も見ているわけじゃないから」
「これが武術家か……質問がある。あー、なんだったか」
「翔花さんだよ」
「そうだ、すまんなつみれ。翔花さん、質問がある」
「はいはい、なに?」
「ガーヴ……
「もちろん」
「あいつが中に這入ったらどうなる」
「あの子、いつも武装なしで暁とやってるんだけど、その条件なら何もできない」
「そうか……何もしないで、いられるのか」
「兎仔はねえ、周囲にいる人間が化け物だからってのもあるけど、どうも出し惜しみする癖があるから」
「あのレベルになると、あたしが困るんだけど」
「その頃には使えるようになっていてくれ」
「らーじゃ。――ん?」
翔花の逆隣に気配、振り向けば柄のない淡い青色の和装束の女性が、あろうことか片膝を立てるようにして酒をらっぱ飲みしていた。
「む、なんじゃやらんぞ。儂の酒だ」
「いらんけど……ええと、百眼様で、いいのかな。こっちの言葉もいけるんだ」
「そうだの。儂もそれなりに長い、覚えたものじゃ」
「そのお酒、鷺花さんからなんだけど、よかったんだよね?」
「小僧――ではないの。暁が何も言わんなら良いじゃろ」
「小僧って……いや、いいんすけど」
「なあに、頭痛は問題ないか気になっての」
「うん、大丈夫。ありがとう。どうして私が百眼様の言葉が使えたのかはまだわかんないけど、落ち着いたよ」
「そうやすやすと使えるものでもない。詳しくは翔花にでも聞けばよかろ。儂はまた上で観戦じゃ」
「らーじゃ――ん、どうしたの翔花さん、笑って」
「羨ましいと思って。私は百眼様とお話しできないから」
「え――できない、って?」
「白井はどう?」
「……? よくわからんが、つみれが独り言をつぶやいているようにしか聞こえんかったな」
「そうね。私は暁との相性が良いから
「――天魔って、そういう性質なの?」
「そう。暁でさえ百眼様は認識できる時と、できない時がある。もちろん会話もよ。ただ武術家の場合は相性以前に、格の問題。器と言い換えてもいいけれど」
「えっと、もう疑問ばっかで放置ぎみなんだけど、じゃあ、あたしが百眼様はもちろん、暁さんや紫月さんの傍にいるお方や、あの刀に居る方なんかを見られるのって……」
「円だから、でしょうね。というか、円は本当に何してたんだろ、そんなことまで」
「あたし自身のことなんだけどなあ、本当にもー」
こっちはどうしたもんかなあ、なんて思っていると、鍛錬が終わったようだ。翔花は手元のお盆に目をやり、まだお茶が温かいのを確認してから、近づいてきた暁に手渡した。
「終わり?」
「おゥ、まァこんなもんだろ」
「紫月さんは……わお、蹲ってるじゃん」
「ははッ、そこらの武術家ならとっくに大の字で倒れてらァ。さすがは山のだ、凌ぎきったぜ。攻撃の筋も悪くねェ、間違いなく久我山を名乗るのは紫月だなァ。すぐに動けるようになる、そういう状態だ。厄介だぜッたく」
「まあた嬉しそうに……」
「そう言うなッて翔花、わかってンだろ? 親父の相手はさせられてたが、やっぱこういうのは別ッて話だぜ」
「知ってる。村時雨様はどう?」
「しぶしぶ使われたッて――おゥ、まァ、あれだ。当人曰く、ンなこたァねェと、そう言ってるけどなァ。でだ円、お前これから暇か?」
「え? えっと……うん、時間はあるっス」
「ンじゃ使いを頼まれてくれ。こいつと――涙眼、アレを寄越せ」
逆の手が掴む、それもまた同様の刀だが、見れば柄の模様が僅かに違う。
「この二本、蓮華に渡しといてくれ」
「蓮華さんに? ……うん、行きたいと思ってたから、理由ができるのはいいんだけど」
「そりゃ好都合だ」
ほれと渡されるが、かなり重みがある。持ち歩けないほどではないが――視線を下げて見るが、荷物持ちは身動きができない状況だった。
「暁、鷺ノ宮事件を覚えてる?」
「忘れるわけねェだろ――ああ、あれか、つまり運搬の対価に少しは話せッてか」
「核心部分はもう私が理解させたけどね」
ふうん、なんて言いながら、まったく疲労を感じさせない動作で翔花の隣に座った頃、紫月がよろよろと立ち上がってこちたにくる。白井は相変わらず、首から上しか動かないようだ。
「実際に、鷺ノ宮事件そのものには、俺は関わってねェンだ。ただ――俺は、事件当時に友人を一人殺してる」
「暁、言い過ぎ」
「事実だろ。……都鳥について、どこまで知ってる」
「えと――」
ちょっと待ってと言ってから、軽く目を瞑って湖の中に溶け込む。
「へえ……この水気、やっぱ俺の間違いじゃァなかったなァ」
「良い水気じゃけんども、雨の知っとったんけ?」
「蓮華のところでツラ合わせた時に、ちょいと感じたンだが、蓮華は気にすンなッて。躰の内側に水を囲ってるッてェと、大抵は澱むンだけど上手くやってらァな」
その会話は聞こえなかったが、すぐにつみれは目を開く。
「半人半妖……つまり、妖魔と人との血統……?」
「特殊ッて言っちまえば、それだけなんだけどな。涼は――俺と、蓮華。それから咲真に
「懐かしいじゃんけ、暁先輩」
「うるせェ」
「あ……そっか、紫月さんは」
「一個下やからのう、それなりに知っとるがー」
「――楽しかったぜ、本当に。けど、鷺ノ宮事件当時に、
それは、人から妖魔になるのと同じだ。
「雨天だからじゃねェ、友人として俺がけじめをつけたかったから、我儘を通した。……蓮華の手配もあったンだけどな」
「討伐、したんじゃ」
「そう言ってくれるのは気遣いとして受け取っておくぜ。けど事実、やっぱり俺が殺したンだよ、あれは。本当なら宮の大将がつけるけじめを、俺が奪った。忘れられねェよ、今でも俺らが集まれば涼の話をよくする」
そう言って苦笑する暁は、それを受け止めてきちんと消化しているように見えた。それは、大人の姿だ。
「うちも――涼先輩にゃ逢いに行ったべさ。咲真の付き添いだけんども」
「そうだったッけか? そりゃァお前、咲真を止めるのが大変だったろ」
「そうでもないきに。――殴りかかろうとしたんは、ほんまじゃけんども。咲真やって馬鹿とちゃうぞん、すぐ冷静になったべ」
「あの女らしいッつーか……まァいい、なにか質問はあるか?」
「今のところはないっス。――あたし、これから蓮華さんとこ行くんで」
いろいろありがとうと、地面に降りたつみれはぺこりと頭を下げて、両手で刀を抱いた。
「重くないけ?」
「あ、ミルエナ呼ぶんで、大丈夫。じゃあ――また、でいいのかな。ミュウはしばらく休ませてやって?」
「そうね、またいらっしゃい」
つみれはそのまま、敷地を出る前にもう一度こちらを見て、頭を下げた。
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