--/--/--:--――円つみれ・潜入の専門家
侵入において必要なことはなんだろうかと問われた時、ミルエナ・キサラギは迷わずにこう答えるだろう。
「侵入が終わった二時間後まで、一切の油断をしないことだ」
たった一度でも侵入捜査などを行った人間ならば、無茶を言うなと肩を落とすだろう。
ただ感情を殺すのとは違う。周囲をごまかし、自分を偽り、感情を装い、状況に浸り、それでもなお、安堵することをせず、緊張を忘れず、それを悟られずに存在し続けなくてはならないのだ。常人の神経ならば不可能なレベルだろう。
けれどミルエナにとっては、それが常だ。
「油断を殺すのは、それなりに困難だ。常に存在するものでもなければ、固定存在でもない。あらゆる状況下において、それはひょっこりと顔を出すからな」
『油断を〝殺す〟ねえ……ミルエナらしいっていうか』
ちなみに、二番目に必要なことは状況に対する情報だ。これが集落ならば、迷い人の振りで中に入り、誰かと入れ替わることも可能だけれど、そのためには場所が集落である、という事前情報が必要になる。
そこで、目的地近くの喫茶店で、今から行く場所の再確認をしていた。ちなみに白井が拉致されてから、おおよそ五十分が経過した頃合いだ。耳にかけた携帯端末はつみれと繋がっていた。
『男の人の声で言われると、妙な気分になるけど』
「ははは、口調までは変えていないのだから、妥協して欲しいものだな」
つなぎ姿のミルエナは今、かつて芹沢企業開発課で働いていた、
ちなみに、ミルエナの知り合いではない。単純に、芹沢企業で働いていた人間のリストを見た際に、たまたま近くにいた相手だっただけだ。
『で、確かな情報?』
「現場の情報と座って得られる情報、どちらに信憑性を置く?」
『基本は現場。あくまでも基本はね。だから確認してるんじゃない』
「うむ。先ほど調べた金の流れをそちらに送ろう」
ずっと操作していたタッチパネル形式の携帯端末から、つみれに教わった通信経路を使って送信する。二台持ちなど、今さら珍しくもない。
「依頼を出した人間は、おそらく嵯峨(さが)財閥の人間だ」
『ん……こっち調べるのに時間かかるから、説明お願い』
「芹沢と嵯峨は似ていて、違うものだ。同一部分は、開発意欲に執着していること、つまり損益の計算そのものよりも、研究および開発が優先される人種だな。しかし、芹沢には社長がいる、いわゆる会社だが、嵯峨は社長がいない――ただ、同じ目的意識を持っているだけの集団でしかない」
『頭がない? それ、最悪のパターンよね』
「そうだ。創設者の嵯峨はそもそも、会社を作ったのではない。目的を持った人種を意図的に志向性を持たせ、組織化するような〝仕組み〟だけを作った。そしてここも違うのだが、芹沢は客を選ぶが、嵯峨は選ばん」
『嵯峨の名も知識としてはあったけど、かなり厄介なんだ……』
「そして、その二つは切っても切れない関係だった」
『あ――芹沢って仕組みの内部に、上手いこと溶け込んでしまった?』
「似ているからな、隠れ蓑には最適だ。迂闊に内部告発すらできないほど巧妙に、隠れるというよりはむしろ、それこそ溶け込むように、ほぼ同一とすら捉えられるほどのものになってしまった」
『でも、芹沢はこの前、なくなったじゃん』
「うむ。かつて、アサギリファイルと呼ばれるものがあってな……そこに記されていた方法こそが、まあ大雑把には、芹沢を潰せば嵯峨も潰れる、というものだった。それがどういうわけか、ついこの前に実行されたわけだ……が、いかんせん芹沢はなくなっても、嵯峨とは仕組みだ」
『分断……いや、区別、隔離の類かな。一緒に潰れた部分もあるにせよ、仕組みそのものは消えなかった。ただ、仕組みが仕組みであると捉えられるようにはなったのが、今ってことかな』
「そういうことだ。芹沢の連中は、おそらく理解している。どうして場所を追われた……いや、場所を潰されたのか、想像している。しなくとも、それでも場所を変えて続けるだろう。しかし――会社ではなくなった以上、続ければそれが〝芹沢〟なのか、〝嵯峨〟なのか、はっきりしてしまうわけだ」
何しろ、似ていても、やり方が違うのだから。
「簡単に言ってしまえば、嵯峨は露呈すれば潰される。芹沢は顧客になれる。でだ、今回はその間抜けが無謀にもミュウを餌につみれを引出そうと、ひょっこりツラを出した――というのが、私の見解だな」
『狙いがあたしってことは、肉体改造系の情報かな?』
「まあ、円の家系に関連することだろうな」
『んー、だったらミュウも必要じゃない?』
「確かに、あれはあれで特質だが、いかんせん知名度が低すぎる。円は知っていても、サミュエル・スーレイは知らんだろう」
『ああ、なるほどね……知ってたら、そもそもミュウを餌にしようなんて思わないか』
「ははは、餌にはなっているのか」
『ん……まあ、結局あたしだってほら、動いてるわけだし』
「そして、私もな。なあに案ずるな、気分はすこぶる良い。同じ仕事でも、終わったあとにミュウを馬鹿にできるともなれば、楽しくもなる。ははは、面白い感覚だ。新鮮過ぎて尻の据わりが悪い」
『それで油断しないでよね』
「下手を打ったら助けてくれるか?」
『あのね……今のところ動かせる駒、ミルエナとミュウしかないんだけど?』
「ははは、では失敗できんな。戒めよう。では最後の確認だ、どこまで探る?」
『相手の人数と動向。可能な限り、ログは消さないで保存。処理は任せたー』
「うむ。ではこちらから頼みだ。私が今まで引っかかった街頭監視カメラの固定番号はのちほど通達するとして、先に今から向かう建物のカメラを封殺してくれ」
『必要?』
「ああ、さすがに生きている人間の擬態だ。彼に迷惑をかけるわけにもいかん」
『そっか。でも、建物内部……もそうだけど、完全には消せないよ?』
「それでいい。消そうとした、ないし消してあった、という事実が重要だ。隠し事を暴く連中は、それを得たことに満足するか、金の代替にするか、どちらかだろう。いずれにせよ、たったそれだけのことで私の尻尾を掴めるとは思えん」
『あたしの尻尾は掴まえられるかもだよ?』
「それこそ、いらん心配だ。私はつみれの情報技術を評価している」
『それはそれでプレッシャーだなあ』
「こちらはともかく、ミュウの方はどうする?」
『あーうん、到着のタイミングを狙って、ガキは殺すなってことだけメールするつもり。薬を打たれても、たぶん動けるでしょ、ミュウなら』
「うむ、まず間違いないだろうな。手段までは確定できんが、あとで聞けばいい」
『あっちはそろそろ到着みたい。場所は思ってた通り』
「では、私も動くか。映像の封鎖は頼む」
『はいよー』
さて――久久の仕事だ。
しかしどういうわけだろう、何も変わらないのに、油断を殺してしまった今のミルエナは、楽しかった。
同じ仕事だというのに、気持ち的にも同様に前向きなのに、失敗が許されない窮地なのに、ひどく気が楽だ。
どうして?
つみれの命令だから? ミュウと同じく行動しているから?
わからんな――。
料金を支払って喫茶店を出て、くつくつと肩を揺らすように笑うが、その仕草は福原健三郎そのものだ。
そもそも、ミルエナはなりきる必要がない。演じる部分はほんの少しで、たったそれだけのことで相手の勘違いが誘発され、認識そのものがねじ曲がることを、よく知っている。
騙す、誤魔化す――この二つは似て非なるものだが、どちらも嘘とは違うものだ。
嘘を吐く必要もある。あるが、本命ではない。
移動は一直線でいい。迷う素振りもいらず、ただ目的地に行って玄関をノックすればいいだけのことだ。場所は、一見すれば普通の民家なのだから。
ノックは比喩で、現実にはインターホンだけれど、しばらくしてから応答があった。
『……はい』
「よお。こっちは福原健三郎ってモンだけど、わかるか?」
『……』
「わかんねえか? あー参ったな、どうすりゃいいんだ。あー、おう、あれだ、元芹沢企業開発課で働いてたって言えばわかるか?」
『ああ、失礼。何か連絡でも?』
「おう、伝言の使い走りだ、面倒くせえ」
がりがりと頭を掻くと、短くロックが外れる音がして、無精髭を剃ってもいない男が玄関を開いて顔を出した。
「お待たせしました」
「悪いな――あ? つーか、アイツはいねえのかよ」
「高松さんなら出てますよ」
「参ったな……」
「とりあえず上がってください」
「ん、おう」
玄関で話す内容ではない――と思ったのだろう。言葉から、ここの主と親しいとでも勘違いしたのか。
いるか、いないかを確認しただけで、情報は得られる。相手の名前と、現状もだ。そして殺害許可リストの中に、高松誠一郎の名前はあった。
「誠一郎に直接言わなきゃいけねえんだけどな……」
「なにか、重要な?」
「言えねえって言ったろ? じゃなきゃメールで済ます。仕事がなくなっちまって、子供から見りゃ駄目大人が、ふらふら歩いて伝言するだなんて、みっともねえ。俺に回すなって話だ」
「はは、繋がりはそう簡単に消えませんしね」
無防備にも、背中を見せて彼は先導する。
「福原さんの名前は、聞き覚えがありますよ。開発課と聞いて思い出しました」
「有名人になったつもりはねえよ。つーか、お前は? 誠一郎の助手でもしてんのかよ」
「いやあ、助手というよりも利害が一致しただけですよ。俺にとっても、確かに高松さんの研究は勉強になりますが」
「へえ……群れるタイプとは思わなかったぜ。ま、どうでもいいけどな」
「俺も無理言ってたんで。――っと、俺は後堂って言います」
ほら、会話を誘導するまでもなく、ぽろりと名前なんてものを漏らす。こういった連中は、同業者に対する警戒が甘いのだ。好敵手であり、あるいは敵であるけれど、あくまでも研究をする盤面の上での話であって、想定できない。
ミルエナなんて存在を、知覚しようともしない。テレビの向こう側にリアルを感じないのと似たようなものだ。
他人事――なのである。
「一人で留守番ってわけか。俺にゃ真似できねえな」
「好き勝手できるんで、留守番も悪くはな――」
遅い。
初弾を装填した音に気付いて振り返ろうとするが、それよりも早く至近距離で首に一発を撃ち込んだ。九ミリだが即死だろう、リビングらしき場所に倒れ込む後堂に触れて、姿を変えたミルエナは吐息を落とした。
「確かに、好き勝手できるから留守番も悪くはないな」
外見と言葉遣い。
その二つがあれば、長期ならばともかくも短期の潜入なら事足りる。
念のためもう二発ほど頭に撃ちこんでおく。仮にも軍部にいた人間だ、拳銃の扱いも心得ているし、一発で即死だろうが念を入れることを忘れたりはしない。
全ての部屋を歩き回り、研究室を発見する。あくまでも書斎という形であり、実験するような場所ではなさそうだ。
まずは――机に鎮座した据え置き型端末を起動させる。それから紙媒体の資料を探りつつ、起動後のパスワード認証を打ち込むため、椅子に座った。
両手をキーボードに当てて、軽く目を瞑る。この時、思考してはならない。意識してはならない。ただ、躰に任せてキーを叩く。
脳の記憶に頼らない、躰の記録に頼る方法だ。同じ動作を繰り返せば、それは癖になる。癖を再現すれば――ほら、認証が終了した。
こういった仕事は難易度が低い。今回は逃走経路の用意すら必要のない、いわば籠の中で命がけの訓練をしているようなものだ。こちらには杜松市の管理狩人から許可を貰っているわけで、行動そのものに正当性がある。――やりすぎなければ。
それに、情報を盗むタイプの仕事ならば、百以上の経験をミルエナはしていた。恐るべきは、それほど簡単であり、呼吸のようにできる、それこそ日常の一端を担うほどに普段通りの仕事なのに。
ミルエナには、一切の油断がなかった。
油断を――殺している。
殺し続けることを、日常としていると錯覚するほどに、彼女には油断がない。
――とはいえだ、それはただ動じないことに過ぎん。
予定外のことがあったら驚く。予想外のできごとに頭を抱える。しかし、それが発生した瞬間に、ミルエナは予定外に馴染み、予想外に潜り込む。その場の雰囲気に取り込まれる。
ただ、油断することから悪い方向へ転がることだけを、避けているだけだ。
万全ではない。十全でもない。完全なんてほど遠い。
けれど世の中を渡るにはこのくらいで丁度良い――かつての師は、笑いながらそう言っていたか。
ざっとディスプレイに映した研究内容と通信ログを見終えたミルエナは、ポケットからタッチパネル形式の携帯端末を取りだしてコードでつなぐ。この際に、無線で繋がっているネットへのラインを接続するのも忘れない。
そして、いつも通り、一つのプログラムを実行した。
実に簡単なプログラムだ――端末内部に保存された、あらゆる情報をアーカイブとして携帯端末側に保存し、保存した矢先から端末内部の情報を完全消去させていくもの。さすがに容量の問題で、携帯端末は単なる記録装置になってしまうので再利用は不可能だが、なに、また新しいのを購入すればいいだけのことだ。
作業終了までの時間を確認して席を立つ。
さて、続いては紙媒体の資料にでも目を通そうじゃないか――。
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