10/06/23:30――夜笠夜重・草原の終わり
自分に故郷と呼べるものがあるのならば、きっとここなんだろうと、
外に出る機会はそれなりにあったものの、いつだって夜重はここ、野雨市の封印指定区域、蒼の草原に戻ってきた。今でこそ外の生活に慣れてはいたが、それは
だから今、こうして居るのことに対しては違和感がある。かつては感じていた、その、戻ってきた、という感覚が一切内にわかないからだ。
不思議なものだと、入り口にある、かつては出入り口に使っていた、触れれば壊れそうな門に肘を乗せ、夜重は笑う。自分の中にはもう、ここに留まる必要性がなく、それがいつしか失われていたことを実感し、そんなものかと納得できてしまう自分に、なんだか笑えてしまうのだ。
怖さはない。けれど、躊躇いはあった。
ここから先、一歩でも踏み込めば、既に法則そのものが違っている。いわば、異世界と同じだ。
言うなれば、地に足をつけていること、そのものが困難になる――。
「ん……? なんだ、あんたも呼ばれていたのか」
「やあ、ハサミ男」
「僕は七八だ。
知っていると夜重は笑う。同郷であり、食料の奪い合いもしたことのある相手だ――というより、ここを同郷とする間柄である以上、決してそれは仲間でも味方でもない。どちらかといえば敵であり、そして、そうでなくとも、敵ではない――ただ、それだけだ。
「私たちみたいに、名前がある方が珍しかったから、覚えているさ」
「快楽主義者に覚えてもらって光栄だ、夜笠夜重」
「まったく嬉しそうじゃないね?」
「当たり前だ」
ハサミ男。
その通称、いや蔑称は、七八が切断の術式を多用していたせいで名づけられたものだ。そもそもここの出身者に、名前を持っている人間の方が少ない。それが当然であり、誰も不思議に思ってはいなかった。
今にして思えば、異常だったのだろう。けれど、かつてから見ればこちら側が異常なのだ。
「私は詳しく聞いていないんだけどね、もういいだろう。待つことで楽しむ時間は充分だ、一体誰がくるのかな?」
「すぐにわかることを、僕に聞くのか?」
「君なら知ってると思ったのは、私の買被りだと?」
「お前は知らないことへの無知を公言するのなら、あるいはな」
「言ったろう? 私は楽しむために、聞いてないだけさ」
「だったら尚更、僕が説明する義理はない」
それにと、七八は吐息を落としてやや長い髪を頭の後ろで括った。
「こうやって時間潰しの会話に付き合ってやってるんだ。僕としてはそれ以上は御免だな」
「はは、確かにね。まさか私と君が、こうやって話をするだなんて、かつてなら想像すらしなかった。けれど、これは聞いておこうと思うんだけれど、君はどうして呼ばれたのか、その理由については知っているのかな?」
「いいや」
「なるほどね。もちろん、私も知らない。私としては清音から指示された仕事だからね、そもそも拒否する理由がなかった。まあ、今回は紗枝(さえ)と別行動だ、たまにはそういうこともあるさ」
「ぺらぺらとよくしゃべる女だ」
「――ヨイは、変わらないね」
「うん?」
「……お前か、ツインの片割れ」
「レリラだよ。きっと僕のことは覚えていなかったと思ったんだけど?」
笑顔を顔に張り付けた、いわばその顔そのものが無表情になりうる仮面を、常に装着することを選択したレリラは、白のワイシャツにネクタイをつけた洋服で、肩を竦めてみせた。
「逢ったことがあったかな?」
「あったよ。けれど、かつての僕は、セツの庇護下にあったから、覚えていないのも無理はない。たかが二年だ、僕は覚えていてもそちらは知らなくて当然だよ。むしろ七八、君が覚えているとは思わなかった」
「最近、お前がこちらに来た時に調べただけで、当時の記憶じゃない」
「ああ、やっぱりそういうことなんだね。悪いね、僕はまだこっちで充分な情報が得られるような網を持っていないんだ。だから調べられても、察知はできない」
「期待はしてない」
「まったく面倒なことだね。清音の庇護下で働く私には、あまり関係のない話だ。いやいや、必要なのはわかってるつもりさ。けれど、どうも面倒でね」
楽しくないんだと、気楽に夜重は笑った。
「しかし、この中じゃ私が一番遅くに外に出たんだろう? どの時期であったにせよ、なかなか匂いは消えないものだね」
「消えないよ。何しろ、創りが違うんだ。善し悪しは別にしてね」
「――ちっ」
「どうかしたのかい、七八」
「面倒なのが来た……クソッ、今から僕だけ帰れるかどうか」
「何を言ってるんだい、そんなことはできないだろう。なにしろ私やレリラが証人になってしまうし――…………まずいな、私も帰っていいだろうか」
言葉を撤回して、夜重が空を仰ぐ。けれどそんな二人の様子からは諦めが見てとれて、それが何故なのか、まだ日本にきて日の浅いレリラにはわからなかった。
最悪だ、と七八は言った。
これ以上なくねと、夜重も同意する。
そこに、彼女たちは遅れてやってきた。
「だから、ひっつくなっての」
「えー」
鷺城鷺花は、自分よりやや背の高い花ノ宮紫陽花が背後から抱き着き、自分の足で歩こうとしないため、掌を相手の顔に当てるようにして退ける。さっきから同じことの繰り返しをしているようにも思うが、一向に離れる気配がない。
「だって紫花とおんなじ匂いなんだもん」
黒のコートを着ている鷺花とは違い、紫陽花は闇に溶ける黒色のボディスーツを着ている。昨日までべつの仕事をしていた紫陽花は、着替えずにきたのだ。あまり外観に拘りがないのも確かだが。
「なに、逢ってないの? うちじゃなく、最近は実家よ」
「知ってるー。でもまだ逢ってないー」
「はいはい、だから離れなさい。――へえ、もう揃っているじゃない」
みてーだなと、
三人が立ち止まると、夜重は顔をひきつらせ、七八はそっぽを向くものの、冷や汗まで隠せてはいなかった。
「再三だけど、私は手伝わないわよ」
「え? そうなの? ぎっちゃんがやればすぐ済むのに」
「私がやるなら一人で勝手にやってるわよ。できないからこうしてるわけ」
「わかってるっての。サギは観測と――オレと紫陽花が殺し合わねーように監視しとけ」
「あの術式を見せてから、本当に私をいいように使ってくれるわよね、あんたは。これっきりにして欲しいんだけど?」
「仕方ねーだろ、まだコイツを殺せるやつがいねーんだよ」
「あは、先にせっちゃんが死ねばいいのに」
「馬鹿かてめーは」
「はいはい、先に本題を済ませてからじゃれ合ってなさい。その時は私も止めないから。すぐ済まして帰りたいのよ。――ねえ七八」
「……僕は今すぐ帰りたい。鷺城がくるなら僕は承諾しなかった」
「嫌われてるわねえ。そんなに苛めた覚えもないのに、どういうことかしら」
「ハハハ、私も帰りたいんだが、駄目かい?」
「駄目だ。なに言ってんだてめーは」
「君たち三人が揃ってる時点で、私は関わりたくないどころか、全力で逃げたい気分だ。ま、それをしても無駄だってのは、わかっているけれどね。ああ本当に残念だ……選択肢をミスった気分だよ」
「私ら三人で、なにかしたっけ? あ、協会と教皇庁潰したの? でもあれ、ほとんどぎっちゃんだけがやってたし」
「そうよ。揃ってなにかやった覚えはないわよ。まったく――こんな子供二人と一緒にして欲しくない」
「はあ? オレがガキならてめーも似たようなもんだろーが」
「なによう、一人だけ大人ぶって。背も胸も負けてるくせにー」
「ははっ、確かに肌を気にしてるようじゃ負けだろうぜ」
「――肌荒れを気にするほど老けてないわよ」
ため息に乗せて言った直後、七十三枚の術陣がタイムラグなしの同時展開され、迷わず七八は両手を上げて叫んだ。
「待て! 待ってくれ! なにをしにここへきたんだ!? 思い出せ! なあ!」
「そうだ! せめて私を巻き込まずにやってくれ!」
夜重も慌てて声を合わせると、鷺花はそれぞれに視線を投げてから術陣を消した。
「なに冗談に慌ててんの、この子たちは」
「まったくだぜ」
「ねえ。今の術式だって遊びだったよ? 怪我なんてしないレベルだし」
それこそ悪質な冗談だと、七八は肩を落とす。見ればレリラは、そもそもこの状況について行けず、ただただ硬直していた。
「……おい刹那、何をするつもりで呼んだんだ?」
「おー、今からここ、潰すから、やれよ」
「――は?」
「なあセツ、それはよくわからないんだけれど、つまり、私たちにやれってことかな?」
「似たようなもんだ。手は貸してやる――おら、中に入るぜ」
すたすたと一人で中に入る小夜を見て、レリラが続く。そして、全員が入ってすぐに足を止め、夜重は頭を掻いた。
「セツ、――ここは、いつから、こうなったんだ?」
「てめーが出てきて、すぐだ」
七八も、レリラにもわかる。
ここはもう、――妖魔の巣窟に成り果ててしまったのだと。
いつだってこの場所では、妖魔と人間との争いがあった。そして、人と人とも食料を奪い合う争いをしていた。
それでも、かつては人が支配していたのに。
今はもう、人の存在する気配そのものが、蒼の草原からは感じられなかった。
「原因は、紅月の出現時間か?」
「そう思う理由を言いなさい、七八」
「出現時間が早まった――つまり、出ている時間そのものも伸びたことになる。その結果が妖魔に与える影響を強くした。最初からここの〝法則〟はごちゃ混ぜだ、人が住むようにはできていない。適応力そのものならば、妖魔に分がある」
「ん……それだけじゃないけれど、及第点ね。結構よ」
「さて、サギのやり方通り、面倒は先に済ますか。おい紫陽花、仕事しろ仕事」
「わかってるわよう」
「とっとと終わらせるわよ。夜重はセツと一緒に、こっちの行動を見越して妨害してくる妖魔を討伐なさい。セツは補助程度だから基本的には一人よ」
「待ってくれ。ざっと感じる限りでも桁が違うじゃないか。私一人で? 無茶を言ってくれるじゃないか」
「はあ? たかが二百や三百の妖魔を相手に、無茶? あんたその程度のこともできないわけ?」
ぎくりとレリラが顔をひきつらせ、七八が頭を抱えた。
「ね、ねえ」
「冗談でもなんでもねえよ。見たろ、あの術陣の数」
「……」
「はいはい、続けるわよ。ウィル、いいわね?」
「いいよー仕事だから」
「よろしい。七八とレリラは、ありったけの魔力を使って攻撃術式を紫陽花にぶつけなさい。あんたたちの仕事はそれだけ」
「殺す気でやってもいいからねー」
「おいレリラ、マジで殺していいぜ。ま、お前らのレベルじゃどうせ無理だけどな……」
「――セツは、できないの?」
「オレが? できたらとっくに殺してる」
「わかった」
「……花ノ宮、特に規定はないんだな?」
「攻撃系ならなんでもいいよー」
七八だとて、こんな異質な状況はとっとと終わらせたい。そう思って、少し離れた位置にいる紫陽花に切断術式を迷わずに展開してぶつけた。
「――」
手ごたえが、ない。
そして、発生するはずの切断が、発生しなかった。
レリラも同じだ。炎を発生させたはずなのに、それが発生しない。だから、先に発生させてぶつけてみると、紫陽花に触れるか否かという位置で消失した。
「とっとと繰り返しなさい」
という鷺花の言葉に従って、十回も行ったうちに、状況を理解した。
消えていない。
ただ、溜まっているのだ。
何かが――魔力ではない、いうなれば威力そのものが、溜まっている。そんな威圧感を覚え始めた。
「ぼけっとしてんなよ、ヨイ。くるぜ」
「危機に対しては敏感だね、まったく。やれるだけやるよ」
赤のチャイナドレス、その両スリットに手を入れて引き抜いたのは、二本のナイフ。軽くつま先で地面を叩いてから、妖魔の群れに対して突入した。そもそも夜重は、そうした集団での乱戦を得意としているからだ。
とはいえ、だからこそ討ちこぼしも出る。それを軽く仕留めるのが小夜の役目だ。
「あー……こんなもんか」
「え? こんなもんでしょ」
小夜は落胆が半分ほど、けれど紫陽花は納得だけだ。だから位置を入り口付近に変えて、そこにいる鷺花に視線を投げると、頷きが一つ。
「こんなものよ。結局のところ、〝生きて行ける〟ってレベルの技量で落ち着いた時間が長いから、そこからの発展が自覚しにくいの。自覚したとしても、成長できるだけの余白があるかどうかも、またべつの問題なわけ」
「レベルが低いなあ、こいつら。立ち回りならビートや蹄の――花楓だっけか? あいつらの方が上じゃねーか、だらしねーな」
「あの子たちは、立ち回りそのものが生きるために必要だったのよ、それだけのこと。この子たちは結局、戦って生き残るだけ――その戦闘技術だけを身に着けていた。まあそのレベルも、最低レベルではあるわよね。セツだってそうだったじゃない、昔は」
「さも見てきたかのように言うんじゃねーよ。こん中じゃ、紫陽花に並んで、サギも生きて来た歳月は短いんだからな」
「無駄に過ごしてきた時間を、経験と呼ぶなら、そうなるわね」
「それなら、サギが一番老けてるってことに変わりはねーだろ」
「……」
「ちょっとぎっちゃん! 余計な手間増えるから、勝手に術陣展開しないでー! めんどーくさいー!」
「はははははは!」
「笑わないの……まったく、これでもちょっとは気にしてるのよ? 火丁やなごみとでかければ、保護者どころか、祖母みたいな扱いされるし」
「ま、実際にゃそんだけ周りにいる連中がガキなんだろ」
「それはそれで問題なのだけれどね。七八なんかはちょっと見てやってたけど、私から見ればまったく成長してないようなものよ」
「確かにな。まだまだ、これじゃ役立たずのコンシスのが使えるってレベルだ。話にもならねーよ。紫陽花の術式ごと切断してみろってんだ」
「この程度の仕事に私たちが出ないといけない状況がもう、どうかと思うけれど、まあ簡単な仕事よね。防衛線を張っておいて、あとはウィルが一発かませば更地になるし。
そうは言うが、七八たちに言わせれば、かなり大がかりな仕事でもある。そう簡単に言って欲しくはないものだ。
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