09/24/13:00――サミュエル・和菓子屋か?

 VV-iP学園という箱庭は、サミュエル・白井のような人間には過ごしやすい場所である。何しろ、全ての物事において〝自己責任〟という言葉が、正しい意味合いとして通じるからだ。

 二年前までは国外に居た白井は、日本の前へならえ的な教育思想に関してはまったく理解できないし、試験と名のつくものの意義についても甚だ疑問なのだが、ここにはそういった煩わしさがないのである。

 たとえば、授業は単位制ではなく、出欠席の選択権が己にある。

 出ても出なくてもペナルティにならず、違う教室に顔を出すこともできる。ただし、進級試験ないし卒業試験は、一般レベルの内容ではあるものの、一度でも規定点数を出せなければ、留年が決定だ。ちなみに一般高校における中間や期末試験と呼ばれるものは一切ない。だから基本的に、レポート提出などのいわゆる宿題もなしである。

 つまるところ、卒業試験レベルの知識――高校一年から三年までで行われる、一般平均普通学科レベルの知識量さえあれば、最初から学園に来る必要すらないのだ。もちろん、白井は自分がそこまでの知識を持っているとは思っていないし、学園とは通うことに意義があると考えることも吝かではないので、こうして来ているのだが、それでも突発的な休みを取りたい場合などは、こういった環境の方が良い。

 この学園にして強制されることなど、せいぜい他人に迷惑をかけるな――なんて常識くらいなものだ。こんな制度がよく作れたものだと感心もするし、校舎の数に比例した敷地面積の広さには閉口したものだが、まあ環境は良いだろう。ここには、いわゆる留学生も多くおり、白井のような人種も珍しくない。

 ただ――自分は、同級生たちにとって、絡みにくい相手だろうことは自覚していた。

 曰く、目付きが怖い――女子談。

 曰く、話が合わない――男子談。

 曰く、会話が続かない――女子談。

 曰く、近寄りにくい――女子談。

 曰く、存在感がぱねぇ――男子談。

 などなど。

 静かにしていると周囲の騒音というのは、音が重なるだけでなく、よく聞こえるもので、そうした会話を耳に入れながらも、人が傍にいる煩わしさがないことを、白井は好ましく思っているため、それならそれで構わないのだ。

 無愛想なのも自覚している。

 問われれば答えるし、周囲を威圧しているわけでもない。一学生としての行動範囲を逸脱しておらず、ただ人付き合いが面倒なだけだ。ここでは学園祭なども、周囲の盛り上がりに強要され何かをしなくてはならない、なんてこともないので、そもそもクラス単位でのまとまりに欠けているし、極論を言ってしまえば、無視していても問題はない。

 ――外見は変えようがねえしなあ。

 スペインの血が流れている白井は、顔つきがやや硬い。髪や瞳はほぼ黒なので空気にも馴染むのだが、鋭い目つきを怖がられる。背丈も一七五とやや高いくらいで、この程度ならば周囲にも幾人かいるけれど、やや肉厚な体つきからも、近寄りにくい気配があるそうだ。

 どちらかと言えば根暗な方じゃないのか、とも思う。授業の間や昼休みなどは、本を読むか携帯ゲームで暇潰しをするか、ぼうっとしているかで、まあ大抵は一人でいるのだが、その様子を見て怖いという表現は理解できないのだが。

 結果的に言えば、その環境は白井にとって好ましい。目立たないことが最重要であって、馴染めていないにせよ、浮いているにせよ、学生としてやっていけている己がここに在るのならば、それで問題がないのだ。

 以上も以下もなく、白井にとっての学園とは、己が学生として過ごせていることが重要で、それ以外はどうでもいい。いわば、大極を見たのならば、学生として過ごすことで時間が潰せるのならば、それで構わないのだ。

 楽しもう――だとか。

 遊ぼう――だとか。

 そういうのは、実に、面倒なのである。

 ――人生なんて壮大な暇潰しじゃねえか。

 そのくらい気楽にやっていたほうが、今の白井にとっては上手くことが進むのだ。もっとも、上手く進めば進んだで、こりゃどっかで転ぶなと、気を引き締めるのだから、どうかしてるが。

 白井は今の状況を、自分が楽しんでいると思っている。会社員が毎月溜め込んだ金で年に一度、リゾートビーチに行って息抜きをするのと比較しても、白井としては遜色ない。

 だから逆に、今のように予定していた授業が終わって帰宅しようとなると、さてどうしたものかと思う。これからの時間に予定が詰まることはほとんどないが、だからこそ、どうやって時間を潰そうかが問題だ。一人暮らしのマンションに戻ったところで、選択肢は限られるし、だからといって誰かと逢うこともない。

 規定のルーチンに自分の行動を当てはめているわけでもなければ、それを順守しているわけでもないが、生活が固定されるのは避けるべきという教えから、帰宅ルートなどは変えているのだが、しかし。

 今日は、そんなことを考える必要はなかった。

 何故ならば、渡り廊下ですれ違った女性から、声をかけられたのだ。

「ほう――おい、そこのお前」

 いやに上から目線の言葉だったが、不快感はない。それは白井が慣れているからでもあるが、最初は自分のことを指されているとは思わなかった。

 正面からすれ違い、背を向けてしまった相手だ。こちらにも聞こえているとはいえ、声をかけられることなど、ほとんどない白井が、自分を呼んでいると思わなかったのは自然だろう。

「いやお前のことだ、まあ待て。白のワイシャツに紅色のチェックが入ったネクタイのお前だとも。聞こえているか?」

「――なんだ?」

 一緒になって足音もついてきたため、立ち止まって振り返ると、背丈はそう変わらない、青色の瞳を持つ女性がいた。

 ――アメリカンか?

 言葉の使い方や雰囲気からそう察したものの、確証はない。もしかしたらロシアンかもしれないし、あるいは日本人の血が混ざっている可能性もある。どういう理由で声をかけたのかは知らないが、似た者同士だと思われるのは癪だなと思い、警戒を表に出した。

 警戒の空気というのは、相手に伝わりやすい。けれどこの場合、伝わった方が好ましいのだ。相手に、その行動は警戒を与えるものだぞと、示すことができるから。

 しかし、彼女はその空気を軽く受け流しながら、腕を組んで妙なことを言いだした。

「見ろ、そこにある教室はな、私の部室だ。見たところ暇そうだが、少し寄っていかんか? なあに、珈琲くらいは出そう。私も飲むからな。うむ」

「……なんなんだ、あんたは」

「私も同様に暇なんだ」

「俺は暇だと言った覚えはない」

「そうだろうとも。だから無理強いはせん。――ところで、一つ質問をしても構わんか? どうであれ、答えたあとは、好きにして構わん。これ以上お前の時間を拘束はしないとも」

「名乗れって以外なら」

「はっはっは、これは先手を打たれたな」

「だったら話は終いだ……」

「まあ待て、――お前の実家は和菓子屋か?」

 なんだその問いは、と思う。実家がペンキ屋かと問われたことは、何故かそれなりにあるが、それはシンナーの吸い過ぎでおかしくなっているんじゃないだろうなと、そういう冗談だ。

「いや違うが」

 そもそもだ、白井の実家は日本にないし、両親はとっくにくたばっている。何よりその質問の意図が一切わからなかった上、初対面で何をと思うのは仕方ない。

 だが、彼女は笑う。

「そうか、まあ――そうだろうな。おっと、すまんな、質問は以上だ」

「ああ……」

「――餡子の匂いを日常に持ち込むなど、警戒は足らんがな」

 背中を向けようと踏み出した足が止まり、二秒の空白を置いて振り返る。

 睨むように、探るように視線を投げれば、やはり彼女は笑ったまま、それを受け流し、自ら背中を向けた。

「ちなみにここだ」

 三階建てプレハブ棟の中に足を踏み入れたすぐ傍の扉を叩き、白井を再び見る。

「寄ってくかね?」

「――」

 といっても、何もないがと言いながら彼女は中に入り、しかし扉は開けたままだ。

 何が目的なのかを探ってしまうのは、癖なのだろう。表に出さない部分での警戒も強く、相手の領域に踏み込むのならば、それは最大限まで上がる。ここが日本だ、なんてものが言い訳にならないことは知っているし、けれど。

 このまま何もせずに帰る方が問題だ。

 餡子の匂いを気取られたのならば、そこが致命傷になりうるし、最低でも相手の目的を知っておかなくては安心できない。女の誘いを断るなと教えられているわけでもないが、いくつかの判断を下しながら、白井もまた足を踏み入れた。

 暗い――。

 ほかに誰もいないのだから明りがないのも当然のことだが、中に入っても点灯はせず、またレースのカーテンによって陽光も薄くしか届かない。眩しさに目を細めるよりも良いかと思った直後、白井は自分が妙に落ち着いたのを感じた。

 ――なんだ?

 なにに、落ち着いたというのだろうか、すぐに解答は出ない。おそらくは雰囲気なのだろうけれど、まさかその暗さが実に絶妙であり、暗闇を彷彿とさせるのでもなく、陽光の下でもない、たったそれだけの心地よさに落ち着いたなど、すぐにはわかるはずもない。

「扉は開けたままで構わんよ」

 声にはっとして足元から背後へと視線を投げれば、既に領域は侵している。スライド式の扉は電子式ではなく手動式で、ここのプレハブ棟は二階に運動部、一階と三階はそれぞれほかの部活動の部屋となっているが、どれも同じだ。白井が通っている普通学科二学年棟は、すべて電子式であるため、勝手に閉まらないのだと認識するまでに時間を要したが、もしも電子式であったにせよ、既に敷居を越えているため、開けたままではいられなかったはずだ。

 失態である。

 仮想敵地の中に、結果的には問題なくとも、逃げ道を失くした可能性がここにできていたのならば、腑抜けと言われても返す言葉はない。

「部室申請においては新年度五月が区切りになってはいるんだが、当時は規定メンバー六人はいたものの、空中解散をしたらしくてな。それを私が借り受けたというわけだ。少なくとも今年度は、まあ、余程のことがない限り問題なかろう」

 だからこそ、彼女しかこの場にはいない。その辺りの仕組みについて、部活動に所属していない白井はさっぱりわからないため、そんなものかと頷くしかできなかった。

「立ったままでいいか? 好きに座って構わんぞ」

「ん……ああ」

 六人掛けの長方形テーブルが一つ。てっきりパイプ椅子かと思えば、むしろデスクチェアに近いものがあった。上座、その対面にそれぞれ一つ、左右に二つずつが配置されており、彼女は備品のポットを使って珈琲を淹れると、上座に座った。

 だから、対面に座るのを避けた白井は、一つの席を空けて、横に座る。そこに黒色の液体――珈琲を差し出され、毒入りの可能性を考えるが、おそらくそれはないと思う。何故ならば、珈琲を淹れる際に彼女は、まるで手品師が行うよう、いちいちカップの中や珈琲の銘柄など、あらゆる所作を白井が見えるように行っていたからだ。

 一般人を相手にするのならば、不要な動作だ。けれど、あえて突っ込みを入れることはしない。面倒なのである。

「まあ飲め、不味いが」

 彼女は先に口をつけ、鞄を床においた白井も、その勧め方はどうなんだと思いながらも、まずは軽く一口だけ含もうと手を伸ばした。

「んぐっ――げほ、げほっ、まずっ!」

 本格的に不味かった。日頃から使っていない音量で叫んだくらいだ。

「ははは、だから言っただろう。どうも私は珈琲とは相性が悪くてな、いわゆる片思いというやつだ。私は好きなんだが、淹れると何故か不味くなる」

「ちょっと寄越せ!」

 立ち上がり、彼女の前にあった珈琲を奪うが、やはり不味かった。さすがに心構えができていたため、咽ることはなかったが。

「よく平気で飲めるな……」

「平気ではあるが、不味いことは自覚しているとも」

「……ちょっと待ってろ」

 備え付けの洗面台に中身を捨て、鏡を一瞥してから彼女の背後に回る。

「なんだ、基本的にドリップするだけじゃねえか」

 中身も捨て、ドリッパーをセットしてお湯を落とし、蒸らしの時間を置いてから、続けて珈琲を落とせば、せいぜい十五分程度の手間だ。それを終えてカップに移せば、表面には油が浮いている状態だ。やや温いくらいだが、軽く口にするとブレンドの豆の味がする。

「ほう、美味いな」

「お前が作ったのが、不味いんだよ」

「それは自覚しているとも。次からはお前に頼むとするか」

「次なんてねえよ」

「いや? あるいは、あるかもしれんではないか。さて――ああ、そうだな、うむ。私のことはさしずめ、少尉と呼んでくれ。そしてお前の名だが、いかんせん、直接問うことは封じられたため、やや迂遠だが確認といこう。そんな適当な会話にくらい、付き合ってくれるのだろう?」

「……今さらだな。付き合うつもりがなけりゃ、もう帰ってる」

「では質問だ。学年は?」

「お前はどうなんだ」

「それは私が答えれば返答すると受け取った。私は大学経済学科だ」

 応答の猶予を与えられることもなく、先に言われてしまった。質問に対して質問で返した白井に原因はあるのだが、呆れた吐息くらいは許してもらえるはずだ。

「普通学科二学年」

「なるほどな。すまんが、少し失礼をする」

 ポケットから取り出したタッチパネル形式の携帯端末をテーブルに置き、操作をした。

「調べものをするには便利な環境だな。学内の無線ネットワークを経由すれば、どんな端末を持っていようとも、グローバルネットへのアクセスが簡単だ」

「行動制限はかかるだろ」

「そうなのか? 悪いが、私はどうもネットへ触れるのが苦手でな」

「……少尉ってのは、なんの冗談だ?」

「うん? それはどういう意味だ?」

「どういうつもりでの呼称なんだと聞いてるんだ。遊びだったら軍曹くらいにしておけよ」

「遊びではないとも」

「じゃ、どこの軍部だよ」

「ほう、お前は軍部について明るいのか?」

「いや――知らねえな」

「ならば言ったところで理解が得られるとは思えんなあ。ははは、質問の仕方を間違えたな」

 確かに、その通りだ。これ以上の追及をしても、まともな返答はありえない。初手、最初の一回で失敗すると、次が続かないのだ。

「そう落ち込むな」

「いや落ち込んではねえよ」

「なんだそうか。ははは、では私の早とちりだったな」

「よく笑う女だ……」

「そんなものだ。すまんが本名を明かす気はないのでな、少尉と呼んでくれ」

「じゃあ少尉殿、この部は一体なにをしているんだ?」

「ははは、その癖は矯正しておいた方が良いと思うがな」

「……なんのことだ?」

 珈琲を飲む時の癖は、特にない。表情はいつもの詰まらなそうな顔を維持しているし、そもそも感情があまり表には出ない性質だ。脚を揺らしているわけでもなければ、頬杖をついているため、片手でなにかをするような癖も――たぶん、ない。

 では頬杖をする格好か? ――などと考えていると、彼女は珈琲を飲み、やはり美味いと感想を再び口にしながら、携帯端末から顔を上げた。

「自覚がないようなら、本当に癖なんだろうな。ちなみに、どうでもいい話の時に視線を逸らす癖のことではない」

「む……」

 そうだったのかと気付くが、今さら遅い。

「それに、癖というのは他人に指摘されて気付かされるものがほとんどだ。そして、指摘されれば矯正して直すのが、人というものだろう。故に、お前の交友関係もそれなりに推察できてしまうのだが、いや、そうではないのだ」

「じゃあなんだ」

「聞かなかったことにでもしておくがな、お前は今、私のことを少尉殿と呼んだぞ」

「……? おかしいか?」

「本格的に癖だなあ。いいか? 少尉殿と呼んだお前は――少なくとも己が尉官より下に位置していると公言しているのだがね。関係を知らん一般人ならば、少尉と、ただ呼び捨てにする」

「ああ……なるほどな。じゃあ次からは気を付けるか」

「諦めるのが早いな」

「面倒になっただけだ」

 それに、本人が手ごわいのならば外堀から埋めるのは定石だ。それを認めるのも、白井にとっては簡単なもので、拘りなどのプライドは持ち合わせていない。加えて、そもそも軍部に明るくないのも事実だ。

「ははは、そうか面倒か。諦めていないのならばそれでいいサミュエル」

「お前は何様だよ……あ?」

「なんだ間違っていたか? サミュエル・白井」

 いやと、彼女は笑いながら撤回する。

「厳密にはサミュエル・スーレイか。少尉殿と呼ばれたからには、そうだな……うむ、やはり愛称でミュウと呼ぶことにしよう。先ほどのこともある、どうして日本名を使っているのかは問わずにいようか」

「手が早いな」

「事前に調べていなかったのかと、もっと早く言われるかと思ったがな」

「オーケイ、よくわかった。お前に口で勝てるとは思えねえ」

「む……私の話し方は変か? 一応、相手に合わせているつもりだが」

「いやもういい……それより、なにをする部なんだと聞いている」

「いやなに、ははは、そこが問題でな。なあミュウ、何をすればいいのだろうなあ」

「は?」

「残念ながら、活動内容はまだ決まっていない。見ての通り、私が一人しかいないからな、過ごしやすいよう部屋を改良はしたが、普段から不味い珈琲を飲んでいるだけだ。人数が増えればそれなりに方向性が見えるかもしれんが――まあ、今はこうして一人増えただけでも良いだろう」

「おい、俺は入るとは言ってねえ」

「無理強いはせんよ。だが気をつけろ、私は既にミュウへの興味を抱いている」

「あんたには警戒しか抱けねえよ……」

「ははは、美味い珈琲を淹れてくれた礼だ、好きに調べてくれて構わんぞ。そして調査結果は報告してくれ。ついでに美味しい珈琲を頼む」

「なんでそうなる」

「それはもちろん、私が美味しい珈琲を飲みたいからだ。どうであれ気軽に顔を見せるといい、私はいつでも歓迎しよう」

「……気が向いたらな」

 そっけなく言いながら、床の鞄を手にして立ち上がる。

「一応、珈琲はご馳走さん」

「律儀だな、淹れたのはミュウだろう」

「俺の所持品じゃねえからな。また――とは言わない」

「では、私から言っておこう。またなミュウ」

「……」

 一体この部室の中、一人で何をしているんだろうかと、そんな疑問が浮かんだが、あえて考えないように消した。危険回避のための調査に対して、まさか興味を抱いてなどという個人的な感情が入ったのならば、まさに次の来訪が確定されてしまう。それでは彼女――少尉の思うつぼだ。

 大学校舎に通っているからといって、相応の年齢とは限らないのがこの学園だ。何しろ教員は最先端の研究員を集めてきているし、そこらの企業の研究室とは比較にならないほどのレベルなのだから、実際に留年を重ねている学生も少なくない。そういった人物たちは、VV-iP学園の整った環境そのものを好意的に受け入れているため、卒業できるが留年する、という選択をあえて行っているのだ。

 それでも、見た目を信じるのならば少尉はせいぜい、大目に見ても二十五か、そこらだろう。三十には至っていないように見えた。

 二十五で少尉――こんな場所にいることがそもそも疑問だが、それを度外視した場合、おそらく軍医ならば可能だろうと判断する。エリートであっても基礎訓練課程は同じだが、軍医はそもそも出世が早いのだと聞いた覚えがある。いや、そうであっても、ぎりぎりの範囲であり、普遍的ではないだろう。だから、嘘か冗談の類だと思った方が気楽だ。

 プレハブを出ると校庭側から大きな声が上がっている。

 運動場を利用する部活動を行っているのだろう。一応、名目としては現在、八月ともなれば夏休み期間なのだが、白井がこうして登校しているように、授業そのものはなくならない。とはいっても、授業内容も教員の趣味に走りやすくなる傾向にあるのがこの夏休み期間だが、運動部に関しては活動に身を入れる時期でもある。休みたければ休んでも構わないし、やはり白井のように授業を受けても良い。

 ちなみに、学費に関しては基礎費用は除外するとして、授業料は受講した単位の数に応じて支払う仕組みになっている。基本的には教室の出入り、教員の確認、授業前の認証の三つを行い、その内の二つが行われている場合は受講したとみなされる。昼休みは全教室も開放されるし、退室処理は行われないため、大抵の場合は教員の確認、授業前認証の二つだけになるのか。

 ちなみに、夏休み期間は受講料金が半額になる。また、教員の研究室に入って助手扱いの受講を行う場合は、半年契約が一般的だ。

 ――そういえば。

 夏休みに入る前くらいには、軍式訓練を行っていたはずだ。元軍人を教員として予備、希望者を募っての訓練は、大声を上げての運動がほとんどであったため、いなくなると妙な静けさもある。いや、あればあったで、煩いのだが。

 聴いた話では――聞こえただけだが――既に一日目で半数が音を上げて、二日目の参加者が一気に減ったという話だが、今はどうなっているのか、白井は知らない。ただ、元軍人と呼ばれている人間がロシア人だというのは覚えている。念のため、危機回避の意味も込めてその程度は調べておいたのだ。曹長と呼ばれているらしかったが、そもそも関係を持ちたくもなかったため、近寄らないようにはしていたけれど。

 こんなことなら、もう少し踏み込んでおけば、少尉のこともわかったんじゃないか、などと思うがあとの祭りだ。後悔をするくらいなら前を見ていた方が良い。

 ――しかし。

 本当にどんな思惑があって接触してきたのだろうか。できれば興味本位ならば、実害が少なくて助かるのだが、それは希望的観測というものだろう。

 だったら何だと可能性を考慮しつつ学園を出た矢先、一秒以下の振動が伝わり、ポケットから耳かけ式の携帯端末を取り出して表示を見た瞬間、俯き加減に視線を落とした白井は周囲の通行人に警戒を示しながら、やや速足になるよう移動をしつつ耳にかけた。

 相手の声が共通言語イングリッシュで届く。

Helloよお, slightlyちょっと goodいいか?』

「おう。明日は晴れそうだし、なんとかなりそうだ」

『準備は三時間くらいで充分だろう。最短で予定二日、空けただろうな?』

「なんとか、ぎりぎりな」

『おう』

「おう」

 通話は短いやり取りだけで切れ、携帯端末は再びポケットの中に滑らす。

 ――やれやれ。

 一度、学園を振り返る。城壁にも似た囲いはやや遠くはなっているが、見えない距離ではない。

 あちらが日常で――こちらも、日常だ。

 問題は。

 どちらに重点を置くべきか、なんだろう。


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