08/30/07:00――朝霧芽衣・それぞれの訓練
朝食は、昨日の夕方に獲得した食料をわけるだけのもので、実に質素だったが、やや冷たい川の水で躰を洗う時間があったのはありがたい話だ。実際には彼らに合わせる必要のない鬼灯たちも時間を合わせていたので、お互いの準備を終えて一段落したのがおよそ七時頃で、芽衣はそれを見計らって小屋の屋根からひょいと飛び降りた。
「今日の天気、誰か答えられるか?」
「風速1.6メートル、南東。湿度はたぶん70%前後……くらいなら」
「よくわかるなあ、しかも返答が早いし」
「え? 起きてから時間あったから、気にしてただけ。昼頃にどうなってるのかとかまでは、わかんないから」
「ふむ、そうか。つまり、浅間以外は大して気にしていなかったと、そういうわけか。まあいい、天気予報を確認する程度ならまだしも、外に出たら体感で察しておけ。さて、訓練を始めるか。おい鬼灯、お前らは好きにやっても構わんが」
「邪魔はしない」
「そうではない。私たちが邪魔をするから覚悟しておけと、そう言うつもりだった」
「……できるだけ配慮してくれ」
視線をあちこちに走らせていた鬼灯だが、ややあって、そんな台詞で落ち着いた。
「さて――今回の目的はお前たちの限界を引出すことにある。それぞれに課題は与えるが、昼頃までにはその限界を教えてやろう。己の限界を知る機会などそうないからな、ありがたいと思え。そうだな……うむ、簡単な佐原からにするか」
「僕ですか」
「そうだ。体調は万全か?」
「はい、問題ありません」
それならいいと、小屋を背にした芽衣はそのままで。
「佐原、もう半歩前へ出ろ――その位置だ。そのまま言術を使って右腕を強化して、思い切り殴れ」
「――わかりました」
疑問は抱かない。言われたら、まずはその通りにする。それが彼らの訓練によって、まず最初に覚えさせられたことだ。
だから右の拳を地面に向け、深呼吸をしてから――言の葉を発する。
「――〝破岩の養生〟」
茶色に似た紋様が肩、肘、拳に発生する。円形を基本として、中央に生身の腕が通っている光景だ。言術は呪力を使い、言の葉によって発現するタイプで、その本質は呪術に近く、その大半は強化に充てられる。だから呪力もどちらかといえば一点に集中するタイプだ。
すぐにほかの三人は、やや離れるように動くが、遠くまでは離れない。あくまでも見届けるつもりでいる。
「まだだ」
「――」
もう充分に呪力を集中させたという段階で、殴ろうとした佐原の行動を制止する。
まだ、だと。
まだ溜めろと。
すぐに佐原の額に汗が生じた。一点に集中するはずの呪力がわずかに膨れ上がり、周囲の空気すら巻き込んで不安定に揺れる。それでも懸命に制御しようとしているが、術式紋様の数が増えるのでもなく、円形がまるでノイズが走るよう時折、点滅を見せるだけだ。
「田宮」
「え、うお――おう」
「佐原の背中をESPで支えろ」
「わかった」
「……まだだ。零で真正面に向けて拳を中てろ。ほかは気にするな、……まだ」
もう殴れる状況であった頃から六十秒以上も経過してようやく、芽衣は言う。
「四、三、二、一」
零、と口にされる瞬間を狙うよう、左腕を抱え込んだかと思いきや、躰を発条のよう、回転から放出するよう右の拳を思い切り真正面に叩きつけ、しかし。
――音もなく。
その拳から紙吹雪のような何かがばらばらと散り、停止したかと思いきや、佐原はぐらりと重心を乱して前のめりに、右の肩から地面に落ちた。
「ふむ、私の見切りもなかなかのものだと証明されたな」
「ね、ねえ大尉殿、これはどうなっているのかしら」
「なに、言術を使った最大攻撃を行っただけだ。全ての衝撃は私が受け切った、それだけのことでしかない。安心しろ、気を失っているだけで命に別状はないだろう。まあ、立ち上がれるようになったらもう一度やらせるが」
少し待っていろと、一度中に入った芽衣は、三分もせずに顔を出す。
「まずは戌井、これを見ろ」
「ええ――と、宝石かしら」
放り投げられたのを受け取り、まずは太陽の光に透かしてみる。大きさは直径が四センチほどの球体で、色は黒色に近く、光を反射しているのかいないのか、鈍く無骨さを感じとれた。
「これが、なに?」
「昨日の間、この山に二十一個、それを配置してある。お前はこの場から動かず……そうだな、この一帯の広場くらいの移動は構わないが、山の中に入ることは禁じよう。場所を探し出せ」
「
「発見したら、浅間が壊せ。小屋の上からなら山が一望できる。難易度はそれなりに高いが、まあ不可能なレベルではないだろう。L96A3、狙撃銃だ。ちなみにこれは新調したもので、昨日に使わせたものではない。基本的に保管は私がするが、浅間にしか使わせん。大事にしろ」
「ありがとうございます」
「――だが、その宝石はそれなりに威力のある術式でないと破壊はできん。言っている意味はわかるな?」
「はい。なんとかしてみるよ」
「とはいえだ、戌井が発見するまで時間がかかるだろう。その間、千発の7.62ミリを用意してある。存分に遊べ」
「遊びっていうか、食料確保しとけってことでしょ、それ……」
「まあ、そう考えても構わんとも。なに、弾が足りなくなったらいつでも言え、手配してやる。そうだな、戌井が一つも発見できない可能性を考慮して――」
「……見つけてやるわよ、ええ、必ず」
「――と、まあ本人は意気込んでいるが無視するとして、せめて千ヤード単位は当てろ。今日は微風でコンディションも良い、所構わず撃っていいからな」
「はあい。……あの、朝霧さん、これ屋根までどうやって?」
「跳べばいい」
「んな無茶な……がんばってよじ登るかあ」
「無茶か? 手すりに乗って、二階の窓に足を引っかけて、やや後方に伸びながら跳べばいいだろう」
「いやちょっとそれは……」
「ふむ、まあ好きにしろ。弾丸はそこに置いてあるからな。暴発の危険性は排除しているが、気を付けてはおけ。整備は昼までしなくていい」
「諒解。いくつか条件付けしてやってみる。とりあえずがんばー、戌井ちゃん」
「うるさいわね、発見したらとっとと壊しなさいよ」
「はいはい」
そうやって言い合えるのは、さて、昼まで持つだろうかと考えながらも、芽衣は最後に、田宮を見た。それからまだ準備をしつつ、話し合いをしている鬼灯たちにも視線を投げる。
「田宮、普段はどのような訓練をしている? ああ、もちろん、ESPに関してだが」
「なんだ、俺にもそういう訓練か? ESP関係は得手じゃねえと、勝手に思ってたけど」
「本質的には不得手だろうな。実際にESPの訓練なら鬼灯――いや、私ならばライザーでも呼びつけるところだ」
「あの人はマジ勘弁してくれ……」
「つまり、専門的なのはどうでもいい」
「基本ってところだな。佐原みてえに、出力を強化して限界の引き上げとか、細かい制御、わかってるとは思うが基礎の繰り返しで全体の底上げなんかを、適当にローテ組んでやってる。最近は家に誰もいねえと、ほぼ無意識にESP使って楽をしてる感じだ。テレポとか、引き寄せとか、扉の開け閉めとか」
「ふむ、着実に己のものにしているわけか。だとすれば、ほかの連中にやらせているものは必要なさそうだな。――ところで、おい鬼灯、そちらは何をするつもりだ?」
「ん? ああ、まずは旗姫に己のESPを自覚させるところから始める。安定する以前の問題として、自覚が曖昧ではどうにもならん」
「お手数をおかけします」
「実際の手順としてはどうなんだ」
「周囲にバリアを張って影響を固定化した上で、ESPの開放手順を踏む」
「では、バリアはそれなりに強くしておけ――ふむ、バリアか。田宮、持続訓練は行っているか?」
「そっちもやってる」
「よし。では手始めに、――私の攻撃を防げ」
「……は?」
「お前に足りないのは実戦経験だ。もちろん、ほかの三人もこれから順次見てやるつもりだが、基礎ができているのならばあとは実戦だろう」
「実践、じゃねえのな……」
「しかし、現実問題として、かかって来いと言われたら、お前はできるか?」
「…………いや、無理だ。やみくもに突っ込むことくらいしか思い浮かばねえ」
「そうだろうな。さて、始める前に一応言っておこう。最初のうちは術式を使うつもりはない。あくまでも最初だけで、慣れてきたら使うが、その時には一言やろう」
「……ありがとさん」
まったく嬉しくないが。
「基本的には殴ると蹴る、だ。武器を使うつもりはないし、安心させるために言うが、周囲に落ちているものを扱うこともない。どうだ、ESPが使えるだけお前が有利だろう」
「実際にやってみなきゃ、なんとも言えねえよ。とりあえず自分の身を守れってことだろ」
「うん? いや、お前は私を攻撃をしても構わん。攻撃は最大の防御とも言うからな。お前に制約があるとすれば、ベースを境界線として、この一帯の広場――まあ、今ここから見渡せる範囲しか移動できない、という点のみだ。ちなみに空も構わんぞ」
「それ以外は何をしてもいいってのか?」
「もちろん、ほかの連中の邪魔をするな。見ろ、さっきから広範囲探査を展開している戌井の背中を。あれの邪魔ができるならばしてみるといい――私は後の保証はしないが」
「マジで俺あとで埋められっから、やらねえし……」
「注意するのは浅間の射線に入らないことだ。浅間、照準器に田宮が見えたら撃つなよ?」
「はい。――撃った時に入ったら?」
「それは田宮の不注意だ。火葬はできんから埋める穴を後で掘れ」
「諒解」
「おい頷くなよ!」
「あはは、最初のうちはそっち側、狙わないから」
「気遣いは受け取っておけ。さて、最後の忠告だ」
「おう……」
「――最初から全力で飛ばさないと、昼飯が食えなくなると思え」
田宮はそう言われた直後、迷わずに全方位警戒をして腰を落とし、そこにEPSを乗せた。これはいわゆる周囲に球形のバリアを張るのと似ていて、そこに何かが侵入した場合に、感知が早くできるようになる。また、広範囲探査なども、バリアそのものを広げることで、無機物を含めた地形把握なども可能なのだが、まだそれほど範囲を広げることには成功していなかった。
最初から全開で。
それであっても、芽衣との力の差はかなりある。
あるとは思っていたが、それでも、その差がどれほどのものなのか、田宮は知らなかった。いや、知ることなどできなかっただろう。たぶん鬼灯だとて同じことを言うはずだ。
だから、真横から殴られて吹き飛ばされ、右肩が地面に触れても、一体何が起きたのかわからなかった。
殴られたと気付いた時には既に、視界の中に芽衣が一杯に広がり、その拳が叩きつけられるのを、真横に転がることでどうにか回避しつつも、どうして回避できたのか、どうやって芽衣が動いたのか、そんなことさえ理解が及ばない。
攻撃や防御など、頭に浮かびもしなかった。
ただ――躰が動くままに、本能のままに、直感のままに、動くけるだけ動く。
身体能力の底上げはしていても、まともにESPを使う暇など、ありはしなかった。
芽衣の同僚、マカロ・ホウから戦闘訓練なるものは、受けていた。けれど、それもあくまでも基礎であって、組手に限りなく近いものでしかない。それに、そもそもが、マカロと芽衣とでも実力差があるのだから、今の田宮では手も足も出ないのは当然と言えよう。
――どうなってやがる!
殴られ、蹴られ、追いつめられ、回り込まれ、そんなことを何度も何度も繰り返した田宮は、全てを振り払うように全力で周囲にバリアを張り、張った直後に殴り飛ばされる結果を受け、ようやくそんな疑問が頭に浮かんだ。
どうもこうもないのだ。
バリアを張った、いや、張る前には既に芽衣が接敵していて、バリアの内部にいるというだけの話で、傍観していた鬼灯には実に明瞭な現実だったのだが。
「……受けている当人は、そこまで余裕などないな」
「そのようです。――旗姫、深呼吸を。それから過去を思い出しながらゆっくりとです」
「はい」
田宮の訓練も気になった鬼灯が周囲にバリアを張る役目で、あやめが教えている。バリアの内部から外部を俯瞰する形での姿勢であるため、それなりに視線で追うことができていた。
そもそも、芽衣は、それほど速い動きをしていない。
けれど、田宮の逃げの動きに追いついている。
目で追えるほどの動き。厳密に追っていけば、田宮の回避速度よりもむしろ遅いとすら思えてくる。しかし――何故か?
その答えには、すぐに気付いた。
無駄が省かれている。それが第一だ。
攻撃での停止が存在しない。攻撃し、それが当たっても回避されても、その時点ですでに次の行動に移っている。その一連の流れはむしろ、次の攻撃を前提として今の攻撃を行っているかのような感じすらあった。
――だが、これは戦闘ではないな。
田宮がどう感じているかはともかくも、芽衣としては食後の運動にすらなっていないように思う。汗一つなく、ウォームアップとしての意味合いにも欠けており、動きながらもこちらやほかの子たちへ視線を投げている。
それでも、集中を田宮から切らしていない。
だが、瞬間的に速度が増したのを鬼灯は見た。感覚的にわかったのは田宮がテレポートを使う直前だ。しかし。
同じタイミングで――もしかしたら少し早く――芽衣が動いた。
助走のための二歩は、両手が地面につくか否かという低姿勢で行われ、三歩目で大きく跳躍を行う、ここまでで一秒経過。僅かに地面が抉れるのを視界の隅で視認しながらも、跳びあがった芽衣が消えて出現したかのような高速移動を見せ、ちょうど。
ちょうど、鬼灯から芽衣への視線を遮るようにして田宮が出現した。
そのまま、地面に向けて思い切り蹴られ、勢いをそのままに、地面に叩きつけられた。
その横に着地した芽衣は、追撃をせずに。
「立ち上がれるようになったら言え」
そんな無情な言葉を投げかけるまで、意識して時計に視線を向ければ、開始から十五分が過ぎていた。よく逃げ切ったと言うべきなのか、それとも。
――まず、地面が見えた。自分が横になっていることを確認するのに数秒を費やした佐原は、上半身を起こそうとして、のろのろと動かした腕が、地面に触れてなお揺れていることを、錯覚か何かと勘違いし、そのままずるりと滑ってしまう。動くのに、それ以上の力が入らないことを認識した途端、自分が何をしていたのかに気付いた。
全力を尽くした、まさに現状がそうだ。
何かの振動のようなもので起こされた気がしたのだがと、そんな思いと同時に銃声が響いて身を竦めるが、それ以上の動きができない。いつまでも地面を見ている己を不甲斐ないと思いながら、どうにかして仰向けになると、ベースの屋根の上から浅間がひらひらと手を振り、手にした狙撃銃の照準器に集中する。
「――ほう、復帰が早いな」
「朝霧殿……」
「全力とはいえ、見たところ九割だな。あれ以上は致死になる、覚えておけ。もっとも、現状での話であって、限界はこれから訓練次第で引き延ばすことも可能だろう」
「わかりました」
「しかし、私が想定していたよりも威力があった。……む、そうだな。どうだ佐原、お前は自分が発揮した威力について、どの程度のものかわかるか?」
「実際には、反動を、ほとんど感じませんでした」
「だろうな。田宮のフォローがあったのもあるが、腕力そのものを強化していたから当然だ。では今から、お前の威力を教えてやろう。――戌井! 浅間! 対爆防御姿勢をとれ!」
ではと、腕を組んで芽衣は笑った。
「上空、つまり空気そのものに対してお前の攻撃を、その威力を発揮させてやろう。防御姿勢はとれんだろうが、まあ最悪には至らん。――感じろ」
そうして、先ほどは解体した〝
それを、なんと表現すべきかわからない。
大規模な爆破を経験したこともないし、体験したことのある芽衣も、あれとは違うと首を横に振るだろう。爆破とはまず音であり、次に衝撃だ。地を這うような音色もここにはなく、ただ。
空気そのものが震える様子は、遠方での爆破が音という衝撃そのものを、空気を震わせて伝える状況に似てはいる。
――山が鳴った。
瞬間的に爆発した衝撃は空気を一気に張りつめさせ、一点から最大へと広がっていく。それは地震が発生した直後の振動とは別物であり、躰の内側だけを思い切り揺さぶるような感覚に限りなく近かった。
まず、聴覚がやられ、三半規管を揺さぶる。そして空気そのものが攪拌され、空が濁り、風がそうないため停滞を見せたその光景はやや長く続くが、衝撃そのものは爆発した途端に広がって消える。
「攻城術式には至らんな」
そんな声も、膜を通したかのように、やや鈍く届いた。
衝撃に飛び出した小鳥たちを、慌てたように浅間が狙撃している。その成果はわからないが、おそらく反射的な行動だろう。
「そうだな、まあ一般的な二階建て程度の家屋ならば、軽く吹き飛ばせるだけの威力はあるだろう。なかなかのものだ――威力だけを考えれば、だが」
「そう、ですか」
「ふむ、まあいい、しばらくは休め。立ち上がれるようになったら次の指示を出してやる。――浅間」
「はあい」
「術式を使っても構わんぞ。弾丸の節約に役立つ」
「諒解。食料確保になるようにがんばってみる」
「ミンチにすると食えんからな。さて、私も躰を動かすか」
適当に空間のある位置に移動した芽衣は、両手にナイフを組み立てる。そして、やや前傾姿勢をとって、ぴたりと停止した。
それを、鬼灯は目で追っている。
「――そうです。蝶ですね、目を開いて視認してください。それと鬼灯」
「ん……? ああ、わかっている。大丈夫だ」
「わかっていませんし大丈夫ではありませんが、聞いていますか」
「聞いている。問題ない」
「聞いていませんね。問題はありませんが」
旗姫とあやめに背を向けたまま、バリアだけは維持している。意識の大半は芽衣の方へと向いているけれど。
正直に言えば、注視していてもその動きは追えなかった。
一度目、前のめりに踏み込んで右のナイフを振り抜いた姿勢で停止し、何かを考えるような時間をそこにおいてから、再び姿勢を正す。
二度目はほぼ動かず、ステップを踏むような移動から左右のナイフを幾度か動かして、右足に溜めがある状態で、ややしゃがむような姿勢のまま、やはり停止した。
額から、汗が落ちるのを見る。たった二度の行動で、時間にしておよそ一分経過したかどうか、そんな短時間の――しかも、見るからに大げさな行動ではないのに、だ。
何故、停止するのかがわからない。そもそも、どういう訓練なのだろうか。
何度も、何度も繰り返される行動でただ違う部分は、終わりの停止位置が全て違うということだ。長くも続けば、短い場合もある。そして、やはり姿勢も違っていた。
連携の模索でもしているのだろうかと、そう思っていたら。
「おい鬼灯、暇だろう」
「む――」
「なに、面倒な注文ではない。田宮か佐原が立ち上がるまででいい、私の前で立っていろ。何もしなくていい、ただ立っているだけの簡単な仕事だ。酒場の女を便所に誘うよりも難易度は低い」
「なんだそのたとえは……まあいい、少し頼むあやめ」
「最初から頼まれっぱなしです」
「すまんな」
どうも集中してしまうと、物事に優先順位をつけて、下位のものを置き去りにする傾向があることを自覚していながらも、それに甘んじてしまっている。というのも、隣にあやめがいるからこそ、なのだが。
「その前にいいか?」
「なんだ」
「先ほどからいったい何をしているんだ?」
「わからんのか。ふむ……まあいい、戦闘の仮想構築だ。昨夜に話しただろう、都鳥の大将と手合わせをした時のことを思いだしながら、相手の行動を想定した……シャドウボクシングと似たようなものだな」
「相手がここにいないのに、そんなことが可能なのか?」
「ああ、情報の引き抜き方……いや、情報量そのものに直結はするが、難しいことではない。無論、術式を行使した時点で勝つことは可能だが、それでは訓練にならんからな。あくまでも体術で――なのだが」
いかんせん、そう上手く行くものではない。
「躰を停止させて、そう、止めているのはなんだ」
「ふむ。それ以上続けても意味がないからだ。といっても、区切りのようなものでな。どうも、一手遅れる」
「一手?」
「そうだ。戦闘を開始した時点ではお互いに平等、攻撃であっても防御であっても、その均衡を保てるのならば良し、私は一手を凌駕するために動き、相手はそれを封じ、私もまた凌駕されるのを封じるわけだが、格上を相手に一手の遅れをとると、大抵は巻き返せず抑え込まれる。それをどうにかしようと、まあ当面の目標だな、そう思っているのだが、やはり生身の人間がいると感覚がかわってくる」
「なるほどな」
「ついでに言っておくが、――逃げるなよ?」
「む……なんだその言いぐさは」
「いやなに、あくまでも私の訓練に付き合わせてはいるが、だからこそ、逃げられては私の訓練にならん。もちろん、お前には一切傷を負わせないと、私は星条旗に――では、いかんな。よし、では鈴白に誓おう」
「そこで何故、あやめの名を出すのかが疑問なのだが」
「旦那の命は妻のものだろう」
「……俺はあやめの旦那ではないし、旦那であったところで命は俺のものだ」
「と、旦那は言っているが?」
「思想まで拘束する女は最低です」
「なるほどな。昔から、胃袋と下半身を掴まえれば男はチョロいと言うしな……」
「言わんだろう。で、俺は本当に立っているだけでいいんだな?」
「ああ、できるだけ私と視線を合わせておいてくれ。なあに、相手を仮想構築するのも、お前から十センチ手前にしておく。怖くなって動くくらいなら構わんが、前へは出るなよ。注意はしておくが」
「わかった」
「では、しばしの間は頼んだ。逃げたら大笑いしてから、今後はチキンという称号を与えよう。いいぞ、お前の知らん誰もが口を揃えて言うようになるからな」
ただ、立っている。
その難しさは、既に都鳥凛が経験しているけれど、鬼灯はそれを知らない。
いや、今まさに知ることになった。
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