08/29/06:00――田宮正和・登山をしよう!

 コーナーを曲がるたびに躰が他人に押し付けるように動き、がたんと飛び跳ねれば尻が痛む。とはいえまだ一時間も乗車していないのに疲れたなどと口が裂けても言えない。幌に囲われた荷台から見えるのは進行方向とは逆の部分。良い景色だとは決して思えない単なる舗装された道を延延と移動していた。

 まずは着替えだと渡されたのは、ポケットがあちこちについた運動着。迷彩柄だったのでぴんときたが、軍部などではよく訓練用として使われる衣類だそうだ。田宮の家でそれぞれ着替えた彼ら四人が載せられたのはジープの荷台であり、幌がかぶっているせいもあって余計にだろう、それなりに窮屈ではある。

 これは陸上自衛隊が使っていたもののお下がりで、古い型になる三六式と呼ばれるものらしい。つまり二○三六年に生産されたジープだ。芽衣に言わせれば更に古い一八式が馴染み深いらしいが、当の本人は運転席に座っていた。実際に搭乗する際に、荷台じゃ定員はせいぜい三名だろうと田宮が言ったところ、馬鹿を言うな六名までは乗るものだと芽衣は断言している。経験があるらしい。

 弱音は吐かないし無駄口もしない。それは現場へ向かう緊張と、これが訓練であることを自覚した彼らが、日日のテンションを引きずっていないのである。こういう切り替えができている辺りを、芽衣も気に入っているのだが。

 やがてジープが停止したのは、山の入り口だった。そこはやや開けているものの、既に山の内部と言わんばかりの光景であり、駐車場といえども車は三台ほどしか止められない程度のものだ。

「――よし降りろ」

 荷物はあったが、それを手に取る許可も指令も受けていないため、彼らは身のまま飛び下りる。一息で土の香りを感じ、そよ風が揺らす木木の音色に耳を傾けるまでもなく、夏場だというのに涼しさを感じた。木木が呼吸しているためだろう。

「ここの管轄は鈴ノ宮だが、お前たちは気にしなくていい」

 言いながら芽衣はジープの荷台に乗り、荷物をそれぞれに投げ渡す。小さな背負い型の袋だ。

「昨日に一通り回ったが、三時間かからなかったな。いい山だ。私もいるし死ぬことはないだろう――よし」

 下りた芽衣はいつものように目付きが悪い。服装は紅色のチャイナドレスで刺繍などの装飾はなく、あたかもクローゼットの中で目についたから引っ張ってきただけ、のようなものだ。

「中身を確認しろ。いいか? 教官などから渡されたら、確認時には迷わず開けて中を見ろ。口頭されたものと一致しているかどうか、チェックを入れるのが一般的だ。とはいえ今回は少ない。水が二本にロープ、方位磁石、それとサバイバルナイフが一本だ。ベルトにつけるタイプだから装着はそう難しくはない」

 それと、と続けた芽衣はにやりと笑い、彼らに拳銃を手渡した。

「確認しろ」

 まずは弾装マガジンを抜き、薬室チェンバーを覗いて弾が装填されていないのをまず確認する。それから弾丸の数と弾頭を見てゴム弾であることを見てから元に戻し、安全装置セイフティをかける――これが一連の確認だ。

 シグのP229は、以前の射撃訓練でも使ったもので、その時は数百発ほど遊んだか。

「拳銃とナイフ、どちらを利き手側につけるか、答えろ佐原」

「はっ、ナイフであります」

「浅間はどうだ?」

「自分は拳銃です」

「ふむ。――田宮、模範解答を言え」

「利き手側にナイフ、腰裏に拳銃では、模範解答になりませんか、大尉殿」

「及第点だ。いいか? 接近戦において拳銃よりもナイフだ。そして登山の場合も同様にナイフの頻度が高くなる。つまり抜きやすい場所にナイフ、次点で拳銃だ。正解はない、慣れる場所か、場所に慣れろ。――よし、装備しろ」

はい大尉殿イエスマァム

 早かったのは田宮だ。そもそも軍式訓練を受ける以前より、狩人志望ということもあって、弟子入りを断り続けられているものの、現役の狩人との繋がりのある田宮は、こうしたことも経験したことがある。それに、数日前に起きた出来事でESPを使うようになってからは、特に重要視するようになった。

 方位磁石コンパスを胸のポケットに入れ、最後にリュックを背負う。

「田宮」

「はっ」

「ふむ。……行軍中にESPは使うなよ。それとほかの者も、目的地に到着するまで術式の使用は一切するな。私が面白くないからな」

「諒解であります」

「――よし! 全員、ここで二つ伝えておく」

 装備を終えてから全員が揃って背筋を伸ばすと、芽衣は腕を組んでそれぞれと視線を合わせ、どこか虐めるようにたっぷりと時間をかけてから口を開く。

「一つ目だ。――これ以降、私のことを大尉と呼ぶことを禁ずる」

 何を言い出すんだこの女、と思ったが田宮は顔には出さない。唐突な物言いには慣れてきたところだ。それに余計なことを言えば間違いなく、追加補習か何かが組まれる。

「何を言い出すんだこのクソッタレ、という顔を田宮がしていたので説明するが」

 バレてた。

「そもそもだ、私はもう軍人ではない。組織とも切れて独り身だ……ふむ、結婚願望はないが」

 誰もんなこと訊いちゃいねえ。

「そして私は、最初から貴様らの上官でもなければ教員でもない。マカロの尻拭いをしているように見えるだろうが、これは私が好きでやっていることだ。まあ理由なんぞどうでもいいが、ついでに敬語とその態度もよせ。私はべつに気にせん。マカロはどうか知らんが」

「……はいそうですかって、変えろってのかよ朝霧。一応、こりゃ訓練なんだろ?」

「なに、――命を賭ける戦場になればおそらくまた戻る。その時はその時だ、今は良いと言っている。それによく考えてもみろ、そう年齢の変わらない相手に気取っても仕方ないだろう?」

「知るか」

「まあ、そうね、大尉殿……朝霧殿がそう言うなら、そうするわ。それも命令なんでしょう」

「なんか変な感じ……」

「私といる時くらい肩の力を抜いておけ、ということだ。とはいえ実際には、私も貴様らと一緒に楽しんでやろう、くらいなことを考えているだけだがな。さて、二つ目だ」

 そう言われ、背筋だけは正す。これは条件反射に近い。

「入り口はここだ」

 背後にある茂みを指して言い、それから。

「目的地は頂上だ。さあ行け」

「おい……マジかよ」

「もちろん本気だとも。安心しろ、いくら遭難して死にそうになっても、――死にそうになるだけだ。死にはせん」

 つまり死にそうになることはあるらしい。

「野生動物はそこそこいるが、大型はいない。いても私が処理しよう。五分後には強制的に尻を蹴飛ばすからな」

「諒解です。……登山か。僕は一度経験があるけれど、あくまでも先導があっての登山で、ルートも確定していた」

「俺も先導したこたねえけど、たぶん先頭が一番疲労するぜ。おい朝霧、注意することはあるか?」

「ふむ、なるほどハードルが低いか」

「そんなこと言ってないんだけどなあ……」

「浅間も不満そうなので条件付けをしてやろう。――この山を敵地だと考えろ。頂上には負傷した味方が増援を待っている。お前たちは可及的速やかに登頂を成功させ、味方を救出しなくてはならん。だが馬鹿な上層部は地図や敵情報を回してはいないし、説明の暇もない。……まあ、最初はこのくらいでいいだろう」

「本気でハードル上げやがったぞ、この女。おい戌井、どうよ」

「そうね……先頭は佐原よ。体力もあるし、道を作るくらいで。二番手は私で、少し方向なんかも考えながら行く先を決めてみるわ」

「戌井さんは登山経験が?」

「ないわよ。だから意見交換はしましょう。三番手は田宮で、少し離れた位置から視界を広く保って」

「オーライ。頭上の注意もしとくか」

「ああ……それもそうね、頭上は盲点になりがちよね。しんがりの浅間は全体把握を兼ねて――うん、朝霧殿、しんがりの狙撃兵はどの程度の距離を?」

「一般的には二十メートル程度のものだ。それも状況によって変わる」

「ありがとう。……となると、難しいわね。つかず離れずで、声が届く位置だから十五メートル前後でいいかしら」

「やってみないとわからないから、臨機応変にやってみるよ」

「全員、地形を覚えながら進みましょう。それが大前提で、途中であれこれ変更しながらになるかもしれないけれど」

「わかったよ。ん……しかし、ペースは? 先頭の僕はゆっくりの方がいいかな」

「そうね……たぶん、この中で一番体力がないのは私か浅間でしょう。遅めに設定してちょうだい。しばらくして話し合いましょう」

「じゃあ行こうか。――大尉殿、いえ、朝霧殿、これより開始したいと思います」

 いいだろうと、最後に朝霧は頷いて時計合わせのために片手を軽く上げた。

「合わせ四、三、二、一、――行け!」

 そうして、何もかわらないままの登山は開始した。

「あ、そうだ。くる前に確認っつーか訊いておこうと思ってたんだけどな、おい朝霧」

「なんだ?」

「うわ……どうするんだろって思ったら、上なんだ」

「そう驚くこともあるまい、こんなのはただの曲芸だ。さして役に立たん」

 あちこちの木を足場にして移動する離れ業を曲芸などと言われても、真似できそうにないが、朝霧にとっては当然の行為らしい。

「で、なんだ? 行軍に集中したいんだろう、さして重要な案件ではなさそうだが?」

「心情を読むなよ……おい佐原、木の根元は気をつけろよ。小動物の巣なんかがあったりで、敵に発見されるドジを踏む」

「諒解だ。基本的に手を使わず、足場の確保だけを考えて移動してみる」

「おう――浅間、ペースはどうだ?」

「こんくらいなら大丈夫そう」

「疲れたらすぐ言えよ? 複数人での行軍ってのは、必ずどっかに負担がかかる。体力があろうとなかろうと、余裕を持つべきなんだよ。余計な気遣いはすんな」

「おっけい」

「――ふむ。田宮は経験があるのか?」

「それだよ。知ってたんだろ? 一度、複数人での登山サバイバルに参加したことがある。珍しく、師匠……になってはくれねえけど、あの人が手配してくれたんだ。もう二年も前だけどな。いい経験した」

「なるほどな。アメリカ海兵隊、見込み入隊連中の山岳訓練か。酷かっただろう」

「俺だけ途中で棄権だぜ、悔しかったから鍛錬メニューを増やした。とどめは、軍人でもねえのによくやった、だぜ? 山岳地帯にヘリから蹴り落とされてスタートって何だよあれ、馬鹿じゃねえの? マジで死ぬかと思った」

「何キロ背負った?」

「三十。随分と足を引っ張っちまったから、俺としちゃ苦い思い出――と、待て佐原、ツタには気をつけろ。……あけびか? トラップなんかにも利用できるからなあ」

「諒解した」

「それと、あんま俺を頼るなよー。さすがに目的地までの方向までは、曖昧だ。上り方向に行けば頂上だ、なんて思ってっと迷うぜ」

「そこよね。山中でのマッピングは従来の方式でいいのかしら」

「歩数と、目印な。脳内で白紙地図に描いてく方法がいいらしいけど、戌井はできるか?」

「ぎりぎりのレベルね……農学科じゃそんなこと教えられないから、私の脳配線に期待するわ。浅間、そっちでなにか気になることはあるかしら」

「全体を把握してるつもりだけど、足元が疎かになりがちかなあ――よっと、あんまり視界が開けてないから結構不安になる」

「それは僕も同感だよ」

「朝霧さん、やっぱこういう場合って注意するのは狙撃かな?」

「――ふむ。全員、携帯端末は持っているか?」

「いや置いてきた。邪魔になりそうだったからな。それがどうかしたのかよ」

「そうだな……まあ、問題ないか。田宮、これを持っておけ」

 術式で発信機を組み立てた朝霧は上空から放り投げ、田宮はそれをキャッチする。

「馬鹿者、こういう場合でも物品を目で追うな」

「無茶言うなよ……諒解」

「今から私が山頂に置いてある装備を取りに行って……ふむ、所要時間は止めておこう」

「浅間さん」

「浅間……」

「ちょっ、なんで私に恨みたっぷりな言葉が来るの?」

「余計なこと言いやがって」

「田宮まで」

「察しが良くて助かるな。ということで浅間、喜べ。――体験させてやろう。弾頭がゴムとはいえ7.62ミリだ。当たったら不運だと思え」

「っていうか余裕で当てられるよね朝霧さん!」

「何を当たり前のことを……だが私も久しぶりの狙撃だ、手元が狂うかもしれん。覚悟だけはしておけよ」

 とんとんと、二歩ほどで着地した朝霧の姿が彼らの視界から切れたのは三歩目からだった。しかも、下に降りるルートを辿って――で、ある。

「浅間ぁ……」

「うぐ、ごめんよう戌井ちゃん」

「今さらだよ。――ここで一度停止しよう。田宮さん」

「ああ、陣形を変えよう。これで、敵兵が実物になったんだ、考える限りのことはしておきたいし、経験にしてえからな」

「そこの岩場は目印になるわ。佐原、そこまで行きましょう」

「諒解だ」

 先に行けと、田宮は浅間を行かせて立ち止まり、軽く瞳を閉じる。考えをまとめるため――ではなく、聴覚を最大限に働かせるためだ。

 ――どっかで水の音がするな。

 厳密には水が流れる音、つまり小川か何かだろう。地面に軽く耳を立ててみても明確にはならないが、それでも可能性はかなり高い。

 川は上から下へ流れている。だが川辺を歩くのはかなり危険だし、視界が開ける方が逆に危ういことを田宮たちは今までの訓練で教えられていた。

「佐原くん、先頭はどう?」

「後ろの様子がかなり気になる。僕のペースが全てになるから」

「ちょっと田宮? どうかした?」

「――悪い、時間がねえよな。戌井、考えはあるか?」

「浅間、狙撃で注意することはなに? というか、千五百ヤードを目安に、狙撃に対処する方法は?」

「どんな場所にも狙撃に適した場所があって、基本的に狙撃兵はそういう場所に陣を構えて、待つって方法を取る。逆に混戦時に狙撃へ移行する場合は相手の行動を見ながら狙撃位置を決めること。第一に射線がないと無理、第二に背中の安全確保……くらいかな。だから、狙撃位置を逆算するくらいしかないと思う。照準器の反射なんて、たぶん朝霧さんならしないだろうし」

「だが朝霧がああ言った以上、何かしらの攻略法があるはずだ」

「そうかしら……私が考える限り絶望的よ」

「忘れるな、こりゃ訓練だぜ。何かを教えるためのもんだ。一番簡単な方法は、不可能だけどな」

「……? 田宮、それってなに? 朝霧さんの射撃を回避できるの?」

「ああ、確実にできるが不可能な方法だ」

「それは、なんだ?」

「簡単だよ。――朝霧が戻るよりも早く登頂しちまえばいい」

 確かに不可能ねと、落胆よりも全員苦笑が先に浮かんだ。

「ともかく朝霧なら、どの方位から撃ってくるかもわからねえ。浅間はさっきより注意しろよ」

「行軍ペースは、やはり速めた方がいいのか?」

「それは止めておくべきでしょうね。それで登頂できない場合のリスクが高すぎるわ」

「そうか……緩急をつければどうか、とも思ったけれど、そちらの方が疲労は溜まりそうだ。やはり素直に行軍するしかなさそうだよ」

「ESPや術式禁止、か。お前らって全方位警戒オールレンジアクティブできたっけ?」

「……? なによそれ」

「視覚に頼らない警戒方法なんだけどな、つまり聴覚と触覚をフル稼働させて――って、やっぱ無理だよなあ。俺だって完全じゃねえけど、とにかく警戒しながら行くしかねえ。もちろん登頂するって大前提を忘れずにだ」

「そうね……」

「……しょうがねえ、大山がいねえから俺が遊撃で出る。可能な限りお前らが目視できる位置を心掛けるが、迷ったら頼むぜ浅間」

「わかった。こっちで全体見ながら気にしておく」

「つーことでだ、頼む佐原」

「田宮さんも気を付けて」

 おう、と言って離れた田宮は夜の空気を思い出す。

 以前にESPを使う知り合いと夜の山で荷物を預かる仕事に同行したことがあるけれど、その時の田宮は何もせず、いわば役立たずだった。しかしそれでも、夜の空気だけは覚えている。

 呼吸をすると体内まで冷やすような空気。それでいて地面に這うような熱気を保ちながら、独りでいることを精神的に拒絶したくなるいびつさ。

 それは否応なく本能的な警戒を促す予兆に似ていた。

 今でも付き合いはある。陽ノ宮ようのみや旗姫ききの世話が大変そうなのだが、鈴白すずしろあやめに前崎まえざき鬼灯ほおずきは以前よりも親身になって、田宮のESP訓練に付き合ってくれていた。夜の世界に出ることもある彼らは、多くのことを教えてくれ、だからこそ田宮は夜を思い出すことで警戒を最大レベルまで引き上げることができている。

 ――ESPは感覚の増幅だ。

 鬼灯は、本来人に備わったものの感覚が超越するからこそのESPだと言った。つまり、実際にESPを使うことも前提として必要だが、普段の生活から己の感覚を知ることも重要だと、そういうことだ。

 使う、使わないのスイッチは既に田宮の中にある。これは隠しておくべきものだと、そういった認識から使わなかった田宮だからこそ最初から持ちえたもので、多くのESP保持者は幼少期の暴走から、そうしたスイッチを自ら作り上げるそうだ。経緯が違うとはいえ、同一のものだろう。

 まだ、田宮は暴走を経験していない。それは喜ばしいことでもあるのだが、しかし。

 ――己の限界を知らん、というのは問題だ。

 限度を知らなければ際限なく続く。安全装置がなければ大事故にも繋がることがあるのは常識で、そういうことらしいのだが、だからといって簡単に暴走など発生させられないのが難点らしい。もっとも、行方をくらました鬼灯の師匠ならば可能だったらしいけれど。

 もっとも、とはいえ、小規模の暴走なら経験があるのだ。それはESP保持者にとって通過儀礼のようなもので、つまるところ最初にESPを自覚した時に、必ずそれは発生するけれど、残念ながら田宮には昔から自己を抑制する機能が備わっていたため、異質であるそれが己のものだと認識した瞬間に、自制を働かせて押しとどめてしまった。

 我慢する――とは、少し違うのだけれど。

 慌てなかった、というのはきっと正しい。

 ――ともかく、だ。

 遊撃とはいえ、そう簡単にはいかない。たとえばベースがあって、周囲の様子を見るだけならば歩数と方向を認識しておけば、戻れない状況に陥ることもそうないのだが、今回は行軍中での遊撃になる。いくら周囲の把握ができたとしても、常に進行する本隊から離れすぎれば、それどころか戻れなくなれば死に直結する問題だ。

 おそらく、芽衣の狙撃も田宮のような単独行動中の相手を真っ先に選択するだろう。

 浅間たちは後方にあり、田宮は前方に出るかたちを選択した。進行方向を確認するためと、状況把握が目的になる。

 ――目印。

 こういう場合、先導する田宮が何かしらの目印を残しておき、後続を楽にさせる――というのが常道なのでは、と思いながらも、軽くペースを上げて距離を取り、それでもほぼ直線で迷うことなく合流する地点で足を止めた田宮は、やはり目を瞑った。

 単独行動は苦手だ。それを自覚できたのも最近のことで、以前はそんなこと思いもしなかった。

 ――あのね、一人で歩けないガキは願い下げよ。

 狩人は個人で完結するもので、むしろ共同依頼を嫌う傾向が強い。もちろん気が合えば酒場で飲むくらいはするけれど、むしろ酒場で一緒に飲んだ相手と仕事をしたくないとすら思う――らしい。

 それは未熟だから、と思っていた。けれど最近は、そういうことだったんだなと納得してしまう。

 師匠と呼んでいる相手、現役狩人の〈白輪の大花パストラルイノセンス〉の判断は正しい。自分の足りない部分を補える自分を用意する、なんて真似は今の田宮にはできないし、想像すらできない。一体何人の自分が揃えばそんなことが可能なんだと、真剣に悩みもする。

 だからだ。

 だから、連中といると安心する。頼っているわけでも、依存しているわけでもないのだが、何故かほっとするのだ。その理由については、まだわかっていないけれど。

 やっぱり川がある。それなりに近い。川沿いを歩かなくとも、山頂への大雑把な方向だけでも掴めるのではないだろうか。

 今の田宮には傾斜でしか山頂までの道はわからない。そして、傾斜だからといって頂上へ一直線とも限らないのだ。狙撃の心配もそうだが、やはり一度は確認しておきたい。

 これ以上は単独行動をする前に相談だなと思って、足音を待つ――が、落ち着こうと思って肩の力を抜こうとした瞬間、背筋に悪寒が走った。

 ――本当にあいつらの足音か?

 一人になったことで警戒心が浮上する。だから、合流にも気をつかうべきだと判断し、改めて目を開いて周囲を見渡す。

 雑草は隠れ切れない。木の影であっても発見はされやすいだろう。けれど、こちらが観察できない場所に引きこもるのでは意味がなく、穴を掘る時間もないのなら。

 ――隠れる。

 茂みにしゃがみ込むが、それは誤魔化すための手段でしかない。頭一つぶんは出ているだろうし、発見はされるだろうが、ないよりはマシ。呼吸を意識して次第に落ち着かせていく。鼓動の制御、呼吸を次第に長くするようになり、決して呼吸は止めない。深く長い吐息、そして躰全体を硬直させる。

 それでは駄目だ、と照準器越しに覗いている芽衣は思う。それでは発見された時に回避運動が遅れる、と。しかし未熟なりに考えたものだ。方法を知らずにやっているのならば及第点。しかし、緊張感が欠けている。せめて見つかったら死ぬ、くらいの緊迫を抱くくらいでなくては。

 足音が近づいてきた。

「――止まって」

 戌井の声に肩の力が抜ける。

「そこにいるの……田宮?」

「ああ……良かった、お前らだったか」

 姿を見せて頷きを一つ、三人を目視確認しておいて軽く集まるように手を振る――いや、すぐに停止の動きを見せた。

 ――視線? どこからか、見られている?

 一人でいることの警戒心が浮上しているのか、それが視線であることは断定できないけれど、それに似た何かを感じた。けれど人の気配とは違う。

 どこからだ……?

 木に隠れようと動いた直後、その何かは消えた。だから半歩だけ動かした足を所在なさげに見ながら再び元の位置に戻し――軽くしゃがんで、手招きをする。

「……悪ぃな」

「どうか、したのか田宮さん」

「視線……のようなものを感じた。戌井と浅間はどうだ?」

「術式も使ってないし、それほど知覚範囲もないからわからないわ」

「……私は、なんていうか、一瞬だけ違和感はあったんだけど」

「そうか、だったらいい。次にもしあったら、ちょっと無茶をしてみるが……巻き込んだらすまんな」

「はいはい……それで?」

「ああ、たぶん川が近くにある。聞こえるくれえだから、そこそこの大きさだろ。山頂がどこにあるのかわからない以上、上から流れてくる川で目的地がある程度、把握できるんじゃねえかと思ってな」

「川?」

「音だ。耳を澄ませ――」

 つっても、わからんかと田宮は視線をやや上にあげて言葉を選ぶ。

 ――どう説明されたっけか。

 師匠から、世間話に紛れて、それこそ話のついでみたいに聴かされていたのを実践しただけで、会話の内容そのものはあまり覚えていないのだが。

「まず、視覚を遮断する。呼吸を意識して躰の力を抜くなよ。平常心っつーか、今まで通りであることを鼓動で確認だ。それから――」

 どうすればいいんだったかと、先ほどの感覚を言葉で伝える。

「――音を拾うんだ。耳を澄ませて、音を拾う。けどそれだけじゃ駄目だ。澄ませば、それだけ多くの音が拾える。近くも遠くも、距離感すら喪失する。だから、選別しろ。どの音が安全で、何の音を拾うか」

 そこに距離感を与えて遠くに聴覚を伸ばせ、そう言ってすぐに気付いたのは浅間だ。すぐに目を開き、指を向けたのでその方向だと田宮は頷く。

 狙撃を好む浅間にとっては、遠くに意識を飛ばすことがイメージしやすかった。照準器から見える景色と、放たれた弾丸の経路。それらを現実の情報からイメージしつつも狙撃をするのが馴染んでいたからだろう。

 しばらくして戌井と佐原も顔を上げたが、首を横に振った。

「わからない」

「いや、これ俺のやり方だし、すぐに理解しなくてもいいだろ。ともかくあっちに川がある……んだが、たぶん視界が開けるんだよなあ」

「それでも僕は確認しておきたい」

「理由はなによ」

「山頂もそうだが、食料の問題もある。それに水は必要になりそうだ」

「サバイバルの基本だっけ。登山ばっかで忘れてたな……」

「私も」

「一応、山菜や木の実なら見てるわよ。これでも農学科だもの、そういう知識は多少持っているし」

「僕も少しは」

「――だったら、浅間はキャンプに必要な素材関連を目星だけつけといてくれ。この森に何があるか、それだけでも随分と変わるだろ。で、川辺に行くのは賛成でいいか?」

「賛成よ」

「狙撃が心配だけど、必要だと思う」

「じゃ、俺を先頭に立たせてくれ。浅間は最後尾、大きく道を外れそうなら注意を。あと、もしも休憩するのに適した場所があったら言ってくれ。いろいろ思いついたこともあるし」

「ここじゃ駄目なの?」

「さっきの視線が気になる」

「オーケイ、先に進みましょう。ペースは佐原が握って、田宮は先行し過ぎないように」

「おう」

 再び歩きだしながらも、まだ自分たちは立場を把握しきれていないのだと田宮は思う。自分が何をしたらいいのか、他者と競合せずにどこを補っていけるのか、そうした部分での協力がまだできていない。思いついたことを口にして、お互いに探っている状況だ。

 ちらりと視線を時計に落とすと、登頂開始からまだ三十分が過ぎた頃だった。田宮自身にはそれほど疲労は感じないが、だからといってまだ大丈夫だと思うのは過信だ。状況を設定されているとはいえ、休憩はこまめに取るべきで、特に水分補給はした方が良い。

 この気候なのに暑さはそれほど感じない。呼吸が上がることもないし、丁度いいと思うくらいの暖かさだ。木陰が作られていることもあるが、思い出したようにそよぐ風があるのも一因になっている。

 そうしてしばらく歩いて、耳を澄まさずとも川の流れる音が聞こえだした頃、目的地がはっきりしたための安堵を、無意識のうちに抱いた直後にソレはきた。

 それが先ほどと同じ視線であることに気付いた田宮が足を止め、迷わずに全方位警戒を実行する。その気配に驚き、絶句してしまった後ろの三人は停止すると同時に、硬直によって張りつめた空気に対応できない。

 ――どこだ!?

 視線とはおおよそ直線になるものだ。そこから――おそらく狙撃だろう――射角を読み取り、そこまでに三秒。振り向き、一歩を踏み出すのに一秒を費やして、緩やかに動く景色の中で己だけが普通に移動できているような、脳が見せる錯覚オーバーレブの景色の中で田宮は大地を蹴る。

 ――間に合え!

 両手を広げて最後尾の浅間を抱きかかえて地面に転がった直後、近くにあった木に弾丸がめり込む。転がりを停止するために足の裏で木を蹴って勢いを削いだころにようやく、遠くで銃声が鳴った。

 両腕の中にいる浅間を認識しながらも顔は上げられ、銃声に反応して伏せた佐原と戌井を視界に収める。まだ全方位警戒は解かぬまま、けれど先ほど感じた視線が消えているのを遅く認識した。

 ――位置を移動したのか?

 それとも、ただ確認のための射撃だったのか。

 小さく吐息を落として警戒を解き、視線を落としてからゆっくりと浅間を開放し、その頭をぽんぽんと叩く。

「全員、無事か?」

「ああ――」

「私たちよりも浅間は?」

「だ……だいじょぶ、無事」

 やや肌が上気して頬を赤らめた浅間は、小さく手を上げて無事を示す。しばらく姿勢を低くしたままだったが、田宮が先に立ち上がった。

 ゴム弾頭とはいえ、木を抉るくらいの威力はある。直撃すればしばらく身動きができなかっただろうし、今後の登山行程を考えればかなりの不利だ。避けられたのは僥倖だし、あるいは当てるつもりもなかった可能性も否定はできないが――しかし。

 弾痕から射角を予想して浅間の立っていた位置でおおよその方向を見るが、葉の間から僅かに陽光が入るだけで視界は開けず、風に揺られて影もまた動いている状況だ。

「ったく……なんて女だ」

 変動する環境でありながらも、ほかの葉や枝をすり抜けるようにしてピンポイントで目標を狙う。そんなことをあっさりとやって退けるだなんて、どうかしている。撃ち下ろしとはいえ、直線距離で千ヤードはありそうなものだ。

 浅間が起き上がるのに手を貸し、すぐそこだと川沿いにまで移動する。そこで彼らは一度、やや大きめの岩に背中を預けるようにして小休止をとることにした。

「ねえ田宮、どうして狙撃がわかったの?」

「ん? いや、厳密にはわかったっつーか……」

「怖い……とは違ったけれど、さっきの田宮さんからは気迫のようなものを感じた。あれで探ったのか?」

「簡単に言えば全方位警戒をして、視線の方向を確認したら浅間が居たってだけで、狙撃だと最初からわかってたわけじゃないし、上手くいったのは結果論だな」

 もちろん、前提として見ているのは朝霧芽衣だろうし、だとすれば狙撃なのだろうという事前知識もあったのだが、それはあくまでも付属しているものであって、落ち着いてからでなくては思いつきもしなかった。

「俺もそうだけど、佐原も近接戦闘系だろ? 使うかどうかはともかく、覚えといた方がいいぜ」

「どういう技術なんだ?」

「そうだな……感覚の広範囲化、か。全方位に五感を拡散させて、んー……自分を中心に球形を作るってのが一番近い。気配を探るのとはちょいと違う部類だな」

「それはどの程度の範囲なんだ?」

「人によって違うけど、基本的にはそう広くはねえよ。見ている相手、あるいは自分の周囲、そんくらい」

「集中することとは違うのか? たとえば、物音ひとつを聞き逃さないように――とか」

「間違いじゃねえよ。ただ、それを全ての感覚……だと大げさだけどな、ともかく躰全体を使ってやるわけだ」

「……弱点があるわよね」

「それ、隠れるのには向かないってこと?」

「まあ見つかるよな、そんだけ警戒すりゃ、俺はここにいますって宣言するようなもんだ。使いどころを間違えれば、逆にってことにもなる。こういうの、戌井は苦手だろ」

「理由はわかっているのかしら」

「術式で、できちまうからだろ。その感覚を持っている以上、平時でやるのは難しいだろうしな。俺の場合は、これがESPの基本だから、やれるってだけだし」

「……蹴っていいかしら」

「なんで」

「図星だからよ」

「お前それ理不尽すぎじゃね!?」

「まあまあ。でもありがと、助かったよ田宮」

「――いや、そうでもねえよ」

「うん? なにか問題でもあったのか?」

「冷静に考えてみれば、ありゃ俺を狙ったものだからな……」

 さすがに苦笑するしかないのだが、戌井は僅かに瞳を細めて納得し、浅間は首を傾げていた。

「予想はついたけれど、本当かしら」

「八割は間違いないだろ」

「どゆこと?」

「最初に俺が視線に気づいて、先頭に立った。それに関してはあっちも気づいたってことだ。だからもう一度視線に気づかせて、浅間を狙っていることを俺に感付かせる――となりゃ、浅間をかばうために行動する。その最中の俺は背中を向けた無防備な姿勢だ。俺がもう半歩遅かったら足に当たってた――と、思う」

 現実には当たらなかった。もしくは、当てなかったのかもしれない。

 けれど、誘導されたのは事実だ。

「ま、だからって俺の行動が間違っていたとは思ってねえんだけど……それより、食料の方はどうにかなりそうか?」

「僕は川の様子を見ておきたいんだ。いいかな」

「そうね――単独で大丈夫?」

「田宮さんほどじゃないけど、用心するよ。さすがに飲み水になるかどうかまでは、わからないから、せめて小魚を発見しておきたい」

「そっち詳しいのかよ、お前」

「言ってなかったか? 僕の趣味は釣りだ。川も海もいくから」

「警戒、し過ぎるなよ。佐原の場合、そういうとこちょい極端だからな」

「諒解」

 佐原がゆっくりと動き、遮蔽物を確認しながら進むのを見送ってから、よく見てるなあと浅間はぼやいた。

「そりゃま、経験だろ。それで戌井はどうだ?」

「山菜が一部、発見できたくらいよ。この時期だとまだ、少ないわね」

「やっぱそうなるよな。大型の獣はいねえって朝霧は言ってたし、形跡はなかったな。実際のところこの山は――手入れされてる」

「……そうなの?」

「ああ、間違いねえよ」

「けれど、道が整えられているわけでもないでしょう」

「そうなんだけどな、本格的な雑木林で手入れされてなけりゃ、ここまでに二時間はかかってる。雑草の丈もせいぜい膝下くらいなもんで、枯れ木もそれほど見当たらない。雑木林ってのは基本的に、陽光の支配権を奪い合うもんだ。それがないってのが一番の理由だな。その辺り、整ってやがる」

 あるいは、使われている――と判断すべきなのかもしれない。

「難易度は低い……ま、朝霧もそう言ってたっけか」

「……ねえ、これ、べつに答えなくてもいいんだけど」

「なんだ浅間」

「どうして、田宮は狩人になろうなんて思ったの?」


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