08/09/15:00――前崎鬼灯・とりあえず帰宅して

 鬼灯とあやめが帰宅できたのは、十五時に近づいた頃だ。

「ただいま」

「戻りました」

 二人で玄関を通り、靴を脱ぐ。二階建てで比較的広いここは、鬼灯の父親が持っている家であり、二人の居住でもある。

「少し休もう。六十分後くらいにまた出る」

「わかりました」

 頷いたあやめの姿がその場から消える。本来ならば何事かと身構えるような現象を前にして、鬼灯は肩から提げていたバッグを消し、続いて引き抜いたネクタイも消した。

 いや消えたのではない、移動させたのだ。

 瞬間移動――である。

 居間への扉も手で触れることなく開き、歩くことすらせずにそのままソファへと移動した。

 本来、ESP保持者は能力を隠す。けれど、使わなくては把握することができない――だから自宅では存分に使え、とは彼らの師匠の言葉だ。そのためあやめも鬼灯も、自宅にいる時は呼吸のように力を使う。

 これは、人の感覚の延長だ。つまり鬼灯にとっては足を動かすのも瞬間移動も、究極的に同じことなのである。

「……やれやれ」

 とはいえエイジェイがESPに関する考察を口にするとは思ってもみなかった。そもそも鬼灯は、身近な能力者以外をほとんど知らないのである。たとえばエイジェイが戦場で出逢っていたとしても、戦場にいるESP保持者を鬼灯は知らない。

 興味はあるが、自ら戦場になど行きたくはない。

 昔よりもずっと一般的になったものだ――これも師匠の言葉だ。その実感はないものの、なるほど確かに浸透はしているのだなと思う。

 第四進化種。

 ――鬼灯は、己が人から進化したものだという自覚などない。ただ少し他人とは違っていただけだ。

「――おわっ」

「ん……?」

 台所付近から声が上がったため上半身を起こすと、腰まであるブロンドの髪を持つ女性が驚いたようにこちらを見ていた。

 メイファル・イーク・リスコットン。通称はメイリス。イギリス出身の女性は、紛れもない一般人でありESP保持者ではない。

 そして。

「なんだ、母さんか」

 鬼灯の母親でもあった。

「帰っていたのは知らなかったな。おかえり」

「あ、うんただいま。――おかえり?」

「ああ、ただいま」

 流暢な日本語は必要だったから覚えたのこと。己の父親と出逢った頃の彼女を、さすがに鬼灯は知ろうとも思わない。

「んー!」

 小走りに近づいたメイリスは紅茶をテーブルに置き、素早い動きで隣に座ると鬼灯に抱きついた。いつものことだ。

「鬱陶しいな……」

「ちょっと、母親に向かってなにそれ」

「だったら少しは母親らしくしろ。もっとも俺は母親らしい、などと呼ばれる偶像は皆目見当もつかないが」

「また小難しいことを」

「仕事はどうした」

「しばらくはお休み」

 躰を離すメイリスの瞳は弓になっているけれど、そこに潜む鋭い眼光は消えきらない。

 メイリスは軍人に限りなく近い傭兵である――らしい。立場については詳しく知らないものの、鬼灯はそのデータを以前に記憶している。

 対物狙撃、アンチ・マテリアルライフルでの超長距離狙撃の公式記録は三二○七ヤード装甲車撃破、ワンヒットキル十一秒五連続射撃。それをやったのが他でもないこのメイリスだ。

 もちろん、そんな仕事現場を鬼灯が体験したわけでもなし、そもそも家庭に仕事を持ち込もうとしない女だ、詳しい話を聞いたこともない。

「親父は今日帰らないと聞いて……ん?」

「なあに?」

「いや……」

 何かが引っかかる。何だったのかと首を捻る鬼灯は、その答えが間近にあることを感覚的に悟っていた。

「――あ、おかえりなさいメイリスさん」

「ただいまあやめ。元気?」

「はい、特に問題はありません。……鬼灯」

「ああ思い出した、そうか。俺は珈琲を」

「わかりました」

「相変わらずツーカーっていうか、なんていうか不思議な関係ね」

「俺とあやめの関係はどうでもいい。母さんが気にすることじゃない。そうでなくだな、もしかして母さんは朝霧芽衣という名を聞いたことがあるか?」

「げ……」

「やはり知っているか。どこかで聞いたと思っていたんだが、おそらく母さんの口から出たものだろう。曖昧なのも頷ける話だ」

「鬼灯、あの女と知り合ったの?」

「ああ。話も少ししたが、――恐ろしい女だな。それで? 母さんとはどういう知り合いなんだ」

「うーん……そうね、そろそろいいか。仕事の話はあんまりしなかったものね」

「お陰で俺は勝手に調べることになったが」

「それはそれでどうかと……あやめは?」

「聞いていますのでどうぞ」

「ん……朝霧とは直接の面識はない。けど同業者なのよ」

「それは軍に雇われている傭兵、という意味合いか?」

「本当に調べてるのねあんたは……厳密には、朝霧は軍部を拠り所にした組織に所属している、軍人みたいなものね。現在進行形の話をすると、その組織はもう瓦解していて、朝霧はおそらく雇われることのない傭兵になっているはず」

「なるほどな。だがそれだけで嫌そうな顔をするのが納得できん。直接の面識がないことが嘘でなければな」

「どうぞ」

「ありがとうあやめ。お前も座れ」

「はい。――それで?」

「あんたたち……交渉術なんかも講義を受けてるわけ?」

「講義は受けていない。知識はある。それに、疑問点を流さなかっただけで交渉術と言われてもため息しか出ないな。続けてくれ」

「……そう。まあいいけど。で、同業者――つまり、朝霧も狙撃兵なのよ」

「ああ、ちなみに母さんの経歴は知っている。いや略歴と言った方が正しいか。――だが俺の記憶を漁った限り、アイギスの名で引っかかるものはなかったが?」

「なあに、そんなことまで知ってるの? まあ……そうね。あの子はまだ若いし、それに逆位置にいるから。私が表向き有名な狙撃手なら、朝霧は無名なの。でも実力では私に引けを取らないはずだし、加えて私みたいに狙撃しか脳がない――なんてことはない。聞いた話だと階級は上級大尉だったかな」

「ちなみに母さんは?」

「軍に呼び出された時は少尉扱いになるわね。もちろん現場指揮とは別に、単独狙撃がほとんどだけど。ただ戦歴を聞く限り、――眼に関しては類を抜く。こっちは照準器を覗くことを前提としているのに、朝霧はそうでもないのよねえ」

「だから、少なからず嫉妬をしつつも評価しているからこそ、同業者としてはあまり好ましい相手ではないと?」

「そうやって言われるのも癪だけど、うん、そんな感じよ」

「……そういうことか」

「あの人のパーソナルは硬すぎず、脆すぎず、ただ柔らかい。私はそう感じました」

「俺も同感だ。故に、だからこそ、立ち入れない。――朝霧もまた、俺以上の経験を以って、俺たちのような人種に対したことがある。そのために必要だったからこその、柔軟さだ」

「あまり、お近づきにはなりたくない人種ですね」

「だがそれでも、牙を剥かなければ何もしない。違うか母さん」

「うーん、まあ基本的にはそうだと思う。まあ隣人として接すればいいんじゃないの?」

「それもそうだが、兄貴とも知り合いだそうだ」

「ああ、あけびは仕事ででしょ」

「顔が広いからな……」

 とりあえず、軽く出逢った流れだけは説明しておく。日常の範囲内であり、特に何かをしたわけでもない。

「ふうん、なるほどねえ」

「大した話ではないな。母さん、俺はこれから師匠のところに顔を出す予定がある。帰りの時間は不明だ。いいか? 台所には立つな」

「ちょっと。それどういう意味よ」

「後片付けをするのは俺とあやめだ。そして今日の予定では俺の当番になっている。つまり片付けをする可能性が高いのは俺だ。――台所に立つなよ母さん。それなりの料理が作れることを自慢したいのは結構だが、後の戦場を綺麗にするのは俺の仕事だ。いいな?」

「わかったわよ、もう……いいもん。かんなぎさんとこ行くもん」

「少しは年齢を考えて言葉にしたらどうだ母さん。四十を過ぎても……いや、止めておこう。親父なら会社だ、今日でもう五日になるから引きずってでも運んでくるといい。あれはもっと休むことを覚えるべきだ」

「同感です。メイリスさん、お願いします」

「あんたたちさ……もう少しこう、子供らしくできないの?」

「子供らしく――そんな偶像を持つのは結構だが、俺たちに押し付けるな」

「可愛くない」

「そうか?」

「あ、嘘、うそです。可愛いから困るんじゃないの、もー」

「困るのは俺ではない。……すまない母さん、夜には戻る」

「はあい。気をつけていってらっしゃいね」

「ああ。あやめ、着替えてくる。母さんの世話を」

「はい」

「ちょっと! べつに世話してくれなくても――」

「はいメイリスさん、今日のおやつはバームクーヘンです」

「やった!」

 簡単で助かると思いながら腰を上げた鬼灯の手には、既に携帯端末が握られていた。


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