07/05/18:30――朝霧芽衣・意図しない減量
十七時頃に学校を出た私は、とりあえず一度、つれづれ寮に戻った。六六がいたので夕食は必要ないことを伝え、自室でスーツに着替える。そろそろ服装もなにか購入した方がいいのだろうかと思いながら、テーブルにあるノート型携帯端末をアタッシュケースに入れた。そういえば鞄というものも、私は所持していない。
ちなみに軍部から所持するように指示された書類や物品などは、既に処分してある。あれから一週間ほどか、残念ながら同僚からの連絡がない辺り、どうも末期的というか、残念でならん。携帯端末を変えたくらいで連絡が取れなくなるような相手と、この私が同僚だったなんてことが、残念なのだ。まあ今度、直接逢って、徹底的に蔑んでやろうとは思っている。
その前に、最大難関が待ち構えているのだが。
逆らえない理由は多くある。ただその中に、私も鷺城もエッダシッド・クーン教授を尊敬していることは確かだ。さんざん無茶を投げられ、頭を悩ませて結果を出し、その結果をゴミ箱に放り投げるような真似をされてはいたが――どうであれ、私はその中で、同じことを二度やった覚えがないのである。
観察眼は随一で、弱味を握るのも上手い。とはいっても、教授が無茶を投げるのは教え子相手だけであって、その教え子もかつては私のように、ある程度の見解を持ち、基礎を積み重ねた相手しか傍に置かなかったのだから、都合が良いというかなんというか。
指示された住所に見覚えがあると思ったら、野雨市内に二つ作った私のセーフハウスの一つと同じだった。今はサーバを持ち込んで稼働させているのだが、しかし、指示されたのは番号が違う。あがってみるが、指示された場所に表札はない。
インターホンを押すと、中から顔を出したのは鷺城だった。酷い顔だ。
「体重計には乗ったか?」
「乗るまでもなくわかってるから、乗ってないわよ……」
だろうな。私も寮を出た際に六六から、栄養のあるものを食べるんだよ、と言われた。
「ここ私の家だから入って」
「ほう、そうなのか。では邪魔をしよう」
「あんたご飯まだよね? 今作ってるから」
「ふむ。本来ならばいい嫁になると言いたいところだが、――気分転換か」
「ストレス発散と言いなさい」
いや、そう思ったから、オブラートに包んでやったのだが、ストレートに言って良かったのか。気持ちは充分にわかるのだが。
リビングに行くと、黒猫が私の足にしがみついてきた。ソファには教授が座っており、私は二股の尾を持つ黒猫を片手で抱き上げると、膝に乗せながら対面に座った。
「やあメイ」
「死ぬほど文句はあるが後回しだ。――はは、久しぶりだなあ相棒。教授殿に厭味は言われていないか? ……ふむ。仕事がなくて暇なのは仕方あるまい。日常などそういうものだ。報酬もないがな」
「彼女は悪戯が過ぎる。少しは言い含めて欲しいね」
「猫なのだからそのくらいで充分だろう。ははは……ああ、気が休まる一時はこの瞬間だけだと思うと、逆に憂鬱だな」
「君も鳩――サギも失礼だなあ。メイ、持っているんだろう。資料を見せてくれ、それを一つの楽しみにしているんだ」
「……とっとと読んで返せ。今日中にデジタイズするつもりだからな」
原本を取り出して渡すと、目を輝かせて読み始めた。頭の上の耳は、どうやら隠していないらしい。
「学園はどうだった」
「ん? ああ、思いのほか知り合いがいて楽しかったよ。まさかあのアブが教員の立場にいるだなんて、大笑いしてしまったな」
「アブ?」
「知らないのかい? 今じゃ〝
「ああ、エイジェイか」
「授業形態に関して面白みはなかったね。新鮮さが足りなかった。学園長には、どうだろうかと意見を求められたけれど、答える言葉を持たなかったよ。君やサギなら、あるいは何かを意見することも、できたかもしれないね」
「あちらには研究員が多い。意見するなら大学校舎にいる教授連中くらいなものだ」
「あと敷地が広い。うちの大学レベルだ、あれは迷う。サギがいなければどうなっていたことやら」
「――間違いなく面倒を起こして、保護者として私か芽衣が出頭してたでしょうね」
頭が痛くなってきた。いや、それを回避してくれたのだから、鷺城には感謝しなくてはなるまい。
「しかし、君たちだから言ってしまうけれど、世界において日本の教育レベルは比較的高く、活躍する人間をどこでもよく見かけるんだが、シニアクラスでこの程度のレベルなのかと、不思議に思ったものだよ」
「いつの世も、一部の高い評価の下には大勢の一般人がいるものよ。――スズ、グラビ、ご飯作ってあげたから先に食べるのよ」
言うと、私の膝にいるスズはのんびりと顔を上げて私を見たため、頷いてやると膝から降りる。グラビと呼ばれた長毛のデブ猫――巨体とも呼べる重そうな、これまた二股の尾を持つ猫が教授の〝
「おい鷺城」
「なによ?」
「妙に私へは厳しく当たることを日常としつつも、どういうわけかスズとかなり仲の良いあのデブ猫は貴様の育て子だったのか」
「そうよ。っていうか、教授どうかしてるわよ。私が通ってた頃にもうスズがいたもの。それでもお互いに気付かないって、何かしら因果に介入されてる」
「そんなことはどうでもいい。いや、よくはないが、今の私はグラビの話をしている。あの態度も図体もでかい猫は、どうして私に冷たいんだこの野郎と聞いているんだ!」
「直接聞けばいいじゃない」
「そんなこともわからんのかと、ため息を落とされたんだが?」
「えーっと……ちょっとグラビ? え? あ、うん……いやそうじゃないでしょ。ご飯中だから邪魔すんなじゃなく、話聞いてたんでしょうに。はあ? 態度が気に入らない?」
「ちょっと待て。私の態度だと? ちゃんと餌もやっているし、丁重な扱いをしているではないか。なにが気に入らんというのだ」
「……ふんふん。そういうとこ? なるほどねえ」
どういうことだ。
ちなみに、二匹とも猫族なので会話は術式の直接会話だ。意図の伝達を目的とした簡単な術式なのだが、きちんと会話の形態をとっている。嫌われているグラビは、術式そのものを拒絶されて、ろくな会話をしたことがない。
「君たちは本当に僕らと仲が良いね。気まぐれであまり人には懐かないんだけど、拾ってくれた恩という割には長い。僕としては助かっているけれど――ふうん、キーコはやはり面白い子だね」
「担任殿ことか」
そうだよ、なんて返答を聞きながら私はノート型端末を起動する。携帯端末の通信機能を使ってサーバへアクセス。面倒だったので、ラルが使っていたテンプレートへ軽く手を入れて今回の形態へ合わせておく。
「校長の話を聞く限り、教員歴はまだ三年ほどらしいけれど?」
「なに? あの姿で二十五くらいか? ――どうかしてる。成長期がまだくると信じていそうだな」
「ははは、さすがの僕もあの容姿には驚いたけれど、随分と錯誤している。語学を教えているとは聞いたけれど、それにしては対応力が広すぎるね。問題があるとすれば、自己を主張するのが苦手なところかな。指揮官に向くタイプなのに、あくまでも場を整えることに終始しているように見えた。それも適材適所かな。惜しむべきは、まだ知識と経験が足りないところだ。僕の教え子にはなれないね」
「ようやく経験を始めた頃なのだから仕方あるまい。私のように、ガキの頃から経験を重ねて生きているような人種のほうが珍しいのだ。特にこの日本ではな」
「欲を言えば知識を蓄えたら、方法論を学ぶ前に経験を積むべきだ――とも思うね。命の危険がないものならば尚更だ。たったそれだけのことで、随分と様変わりするはずさ。もっとも、僕が思うに教員の絶対数が少ない点にも陥穽は潜んでいるはずだ」
「その見地には、おおよそのところで同感だ」
「さあて、そろそろメイの授業についての話を始めたいと思うけれど、サギ、どうする?」
「はじめてていいわよー。まだちょっと、こっち時間かかるから」
「まあ、原本は私も目を通したから構わないが、こちらの作業と並行してやるから、そのつもりでいてくれ」
「結構だ。――しかし、五秒で五問というチョイスそのものは、悪くなかったね。結果論だけれど、彼らの返答を見る限り、十問やっていたら逆に後半は集中が追いつかず、回答が難しかっただろう。これは前回の授業内容を踏まえてのことかい?」
「ああ。前回の難易度は低く見積もったつもりだったが、それでも回答のばらつきや想像力の欠如に対し、一定の評価を下した結果だ。彼らは今まで、こと授業に関しては、やれと言われたことをやるだけで、何故やるのか、といった思考を行ってきていなかった。今回の結果としても示されてはいるが、いかんせん、授業を楽しむことを覚えてきているようではあるけれど、私の意図を読もうとしている生徒が少なすぎる」
「意図を読ませない手管はメイの得意技だと思ったけどね。サギは逆に、意図を自覚させるための布石が上手い。まあ逆に言えば、回答から問題を作らせたのは面白い試みだろうね。ざっと見た感じ、回答を前提にして問題を作ったのにも関わらず、参考にしたものと回答が違う」
「予想はしていたがな。私としては問題作成時に、相手がどれだけ自分の回答を読み取ったのかを探る一手だったのだが、さすがに気付かなかったらしい」
「かといって、この手の授業を繰り返す行うことが、そもそもナンセンスだしね。最後までは見ていなかったけれど」
「ん、ああ、二度やったのならばもう充分だろうと判断して、各自にはレポートの提出を求めておいた」
「どこまで持続するかが問題で、成果が出るかどうかをどう見ているか、気になるところだ」
「私は教員ではない。たとえ八割の生徒が結果を出さなくても、大した問題にはならない。それでもと望むのなら、助言くらいはできるが、子持ちになった覚えはないのでな。むしろ、参加していた教員連中に改善してもらいたいくらいだ」
「彼らにしてみたら、いい迷惑かもしれないね」
「知ったことではない。――戻ったかスズ、膝ではなくソファで寝ていろ。……ん? 諦めろ? ああグラビに関してか。まさか、諦められん。納得せんぞ私は。なあグラ……おい、グラビはどうした」
「僕の影に戻ったよ」
「あの巨体で身動きは素早いとか、どうかしてる。鷺城の育て方が悪いんだきっと」
「うっさいわよ。こっちのご飯もできたから食べましょ。教授の要請で和食だけどね。ちょっと早いけどナスがメイン。あとはアジの開き」
いただきますと食事を始めるのだが、なんだろうこのカオス。この顔ぶれで一つのテーブルを囲んで食べるなど、想像すらしていなかった。居心地が悪いというか、なんとも微妙な気分だが、ふいに鷺城と視線が合うと、同じことを考えていたのだろう。渋面だったので一つ頷く。
「教授殿が悪い」
「ディジットが悪い」
「僕が悪いんだろうね、それは。でも知ったことじゃないよ。へえ美味しいな、これはいい。大学食堂のシェフにもなれそうだ」
「嫌よ。まったく……本当に芽衣の授業を見にきたわけ?」
「そうだよ。ほかは、あくまでもついでだね。以前に電話を貰った時にはもう考えていたのさ。君たちはどういうわけか、教え子なのに僕のところへ顔をだしたがらない。頼むから話を聞いてくれと言う子ばかりだったのにね」
「そいつらは正気か……?」
「それなら、私たちじゃなくそっちの子を見てやんなさいよ」
「嫌だよ面倒臭い。手がかかる子は本当に面倒だ。今の教え子だって、君たちがいなくなった僕が、余暇を過ごすつもりで半年ばかり引きこもっていたら、育てないなら大学を追放すると言って脅してきたから、仕方なくやってるんだよ」
「ははは、教授殿の苦労話を聞くとテンションが上がるなあ」
「君ほど口が悪い教え子もいないよ、本当にね」
「無くなって、はじめて気づく喪失感というやつか……」
「違うわよ」
「違うね。ところでサギは今回の授業、どう見た?」
「軍属の頃から様子だけは知ってたけど、芽衣には教育の適性があると思ってたのよね。それは一つ証明されているし」
「それは君も同じだろう、サギ」
「私の場合は駄目。一緒になって楽しめないもの」
「サギ、それは君の経験からくる言葉かい?」
「――……そうよ。ああ嫌だ、嫌だ、どうしよ本当にもう」
「話を変えよう。エイジェイと知り合いだと言ったな。昔馴染みの類か?」
「ん? ああ――どうせ隠してないだろうし、僕は隠すつもりはないから言ってしまうけれど、アブとは小僧だった頃からの知り合いだよ。アブだけじゃないけれどね。一度、僕が講師になれと打診があって、断ったんだ。彼らを見て、必要かと聞いたら、色よい返事が聞けたのを、どういうわけか僕は、恐ろしく思えてしまってね。だったら大学までこいと言っておいたら、本当にきたんだよ。その時からの付き合いさ。君たちと同じで、顔は見せないけれどね」
「手が広いわね」
「伊達に年齢を重ねてはいないのだな、この二股女は。……ん? そういえば教授殿は、ハーフだったか?」
「いや、僕は純猫族だよ。あれ……そのあたり、てっきりアキラから聞いていると思ったけれど」
「はあ? 何故、大佐殿の名前がここで出る」
「っていうか爺さんと知り合いなの? ちょっと芽衣」
「いや……私は大学を紹介してもらっただけで、詳しくは聞いていない。そう睨むな。だいたい情報隠ぺいをしていても、お前に隠し通せるとは思っていない」
「あんたがコロンビア通ってたこと、ディジットに打診するまで知らなかったんだけど」
「はは、遊んだおもちゃを隠すのは僕たちの得意技さ。うん、けれど、聞きたいかい? アキラの話をするなら必然的に、あの泥まみれのジーニーの話もしなくちゃならないけれどね。果たしてアキラが良い顔をするのかどうか、怪しいところだ」
「――師匠との関係もあるのか」
「まあね。じゃあこの昔話は、食事のあとにしてあげよう。今回は迷惑をかけたしね」
「迷惑……え、なに、ディジットってちゃんと自覚できてたわけ?」
「新事実発覚だな。お蔭で次の授業をやる気がなくなった。鷺城」
「そうねえ。授業内容そのものに関わるかどうかはともかくも、教壇に立つのがほかの教員じゃ、同じ内容であっても、ここまでの反応は得られないんだろうなとは思ったわね」
「それはあれかい? 軍ではよくある、命令は内容ではなく、誰が命じるかが問題なのだと、そういうのだね」
「軍のやり方そのものも、正しいとは思わんがな。……正しさなら人の数だけある。どう合わせられるかは、命じる側の度量だ。軍ではわかっていても、死ねと命じなくてはならなくなる。私だとて何度か言われた」
生き残ってやったが、単独行動ができなければ、それも難しかったかもしれない。
「彼らにとっては新鮮だからこその反応だろうと私は見ているが?」
「それもあるだろうけれど、少なくともメイの求心力も間違いじゃないさ。レポート提出を求めたと言ったけれど、どうするつもりだ?」
「今夜のうちに私が個人に評価を下しておく。提出の際には一通り見たのちに、私の評価を読ませた上での再提出を求めるつもりだ。自己評価と他者の評価を比較させる機会も、そうないだろうしな」
「いいわね、それ。匿名でいいなら参加するわよ」
「サギが? だったら僕もやらなくちゃいけないね。全体の評価として長所、短所、その理由と解決策あたりで問題ないかな」
「私の仕事は増えるが、彼らのためにはなるだろう。拒否する理由はないな。しかし教授殿、請われることは多くても、自らやるとは珍しいんじゃないか?」
「知らないだろうけれど、サギにもメイにも、僕はいろいろなものを貰っているからね。確かにメイの授業に興味があったことを、僕は否定しないけれど、状況によってはなにか返せるかもしれないなんて、そんな思いもあったのさ――なんだその顔は。嘘じゃない」
「嘘じゃないのはわかるけれど……」
「うむ、教授殿からそんな殊勝な言葉が聞けるとは、驚きを通り越して裏を読みたくなるな。おい貴様、目的はなんだ。要求は?」
「疑心暗鬼だなあ。嘘じゃないって言っただろう、僕の本心さ。そうでなくとも、一人ずつ、僕の同胞を保護してくれたんだ。それだけで感謝は尽きないよ。それに、僕ができることはせいぜい、この程度だってことを、君たちは理解しているじゃないか」
そうだ。
教育者の教育なんて真似ができるのは、教授くらいなものだと思っているし、それがただ多くの経験を積ませるだけの行為でしかないことも、私は理解している。可変する状況に対応する力は、積み重ねた経験が左右するものでしかない――もちろん、その教え方も、学んだことの一つだけれど。
教えることが少ないのも確かだ。だからこそ、教授は、教え子を持ちたがらない。
自分と同じような存在など、そうそう作れるものではないと、理解しているからだ。
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