06/25/04:00――朝霧芽衣・いつもの朝

 目覚ましがなくても定時に起きてしまう私がいつもより早い四時に目が覚めてしまったのは、時差がどうのではなく、単純に柔らかいベッドが馴染まなかったせいだ。

 制服ではなく身動きし易い所持品であるジャージに着替えた私は、静けさに包まれてやや冷たいと勘違いしそうな寮を出て、路上で軽く躰を解した後に走り込みを始める。コースは特に決めていないが、昨日と同じ十キロくらいを目安にしておいた。

 師匠に拾われた私がまずやらされたのが、躰を作ることだ。その主となったのがこのランニングであり、今では私の癖になっている。特に何を考えるわけではないが、任務中でなければ大抵はこうだ。

 私の躰は絞られてはいるものの、筋肉質ではない。どう足掻いたところで男性の体力には適わないとは、師匠の言だ。

 ――だから、女性らしさは消して失うな。

 それは全体的な柔らかさと、胸部や腰下の丸みになる。どのような状況であれ、私が女であるならば、女らしい躰つきを維持することが武器になると教えてくれた。もっとも、仕事でそれを使ったことはないけれど、師が言いたかったのは、男になろうとするな――とのことだろう。

 日本の空気は存外に綺麗だ、と思った。

 走りながら一定の呼吸を保ちつつ、周囲の景色を見るが人影はほとんどない。これならば気楽に建物の高い部分を観察しながらでも、警察に捕まることはないだろう。まあそれは済ませているので、しないけれども、やはり意識はしてしまうものだ。

 職業柄、狙撃には気を遣う。なんといっても私が狙撃手をメインの仕事にしていたのもあるため、狙撃されることを念頭にしつつ、狙撃することも考えるわけだ。必要不必要ではなく、これもまた癖だが。

 背後からの軽快な足音には気付いていたが、ジョギングとは呼べないペースで走っているのにも関わらず、追いついてきたジャージ姿で人懐っこい笑みを浮かべた少年は、併走するようにして声をかけてくる。昨日と同じだ。

「おはようさん」

「ああ、おはよう」

 私はアイウェアをしているが、彼はしていない。名前も知らない野郎だが、同じ趣味を持っている間柄だ、さして気にせずに挨拶を交わす――が、しかし昨日はそれで終わったが、今日は追い抜きもせず、彼は言葉を続けた。

「いいペースで走るんだな、お姉さん」

「昨日は追い抜いた男がよく言うものだ。今日はどうした」

「妙なもんだなと思ってな。昨日と今日、俺は違うルートで走った。けれど同じ人間が、違う場所で遭遇する。これは一体、どういう運命の悪戯だってな」

「しかも貴様が後からきた。これはあれか、いわゆるストーカーと呼ばれるものを体験しているわけか……ところで、日本の刑務所で出される飯は美味いのかどうか、知っているか?」

「なんつー脅しだよ姉さん。勘弁してくれと謝っても許して貰えそうにねえな。となりゃ、潔白を証明する必要もある」

「ははは、随分と手慣れている返しだな?」

「冗談にしておいてくれよ……」

「実行犯で掴まえた時には本気でやろう。しかし、日本には信号があるのが厄介だな。ロータリーにしてしまえばいい」

「へえ? 外国暮らしが長かったとは思えなかったぜ」

「そう見えたのならば、ありがたい話だ。これは余計なことだが、尾行確認は振り返って確実にやれ。尾行をしたいのなら、相手と歩幅を確実に合わせろ。それだけで足音は消える」

「それも冗談か?」

「できるものならやってみろと受け取ればいい。ははは、手慣れているようで甘い部分が見受けられたのでな。ただの雑談だろう?」

「……ま、そういうことにしとくか。今日はいい天気だ、日中はそれなりに暑くなりそうだな」

「早朝は走り込みに最適だ。帰ってシャワーを浴びる時間があれば尚更だな。健康管理にも良い。目的はおのずと絞り込まれるが?」

「体重を落としたいのか、筋肉をつけたいのかってか」

「だいたいはその二択で済む話だがな。しかし――走り込みの最中に話しかけるなら、相手を選んだ方が身のためだ」

「相手は選ぶさ。姉さんみたいに、会話ができそうな当たりをつけなきゃ、一方的にてめえのことを話す最低な野郎と同じじゃねえか」

「人を見る目があるのと、人を選ぶのはまたべつのスキルなんだがな、野雨西高等学校三学年、情報処理科所属の田宮たみや正和まさかず

「――」

 隣、ぴたりと足が止まったのを理解しながらも、私は周囲に人がほとんどいないのを確認しつつ、声を立てて笑ってやった。すると、すぐにダッシュで近づいてくる。ここで退かないあたり、度胸がある。

「ちょっと待ってくれ」

「酒を誘う文句にも聞こえんな。今、私たちがしてることが何なのかをよく思い出すといい」

「くっ……」

「なあに、ストーカーにはならんから安心しろ。ははは、ではな」

 適当なところで曲がった私は、ペースを一気に上げて心地よい普段の速度にすると、さすがに彼はついてこれなかったようだ。あるいは、最初からそのつもりもなかったのか。

 何度か後ろを確認しつつ、あちこちを迂回して私は寮に戻り、中庭に行って軽くストレッチをしてやる。

 ――硬い肉体は簡単に壊れる。柔軟さを忘れるな。

 女性ということも加味した上で師匠は言った。筋肉にも種類があるし、鍛え方によって出来上がりも違う。最初はぴんとこなかったが、多くの人間を見る内に納得はできたし、そこから私に合った鍛え方も見出せたものだが、まあ前の学校では男女一括だったため、己の工夫など教官の一喝で吹き飛んでしまう。

 ただし良く言えば教官のやり方は平均的だ。何かに特化する躰つくりを要求するわけではないため、後は独自の判断で追加すればどうとでもなる。もっとも私の躰は学校に入る前から師匠に鍛えられていたため、主に維持を中心として行っていたが。

 うつ伏せになって腕立てをしようと思ったが、ストレッチ程度ならまだしも鍛錬を人に見られると妙に勘繰られるなと思って止める。朝の挨拶と同時に背中に乗る、気配を隠すのが得意な同僚もいないため、それはそれで妙な物悲しさがあるし。乗ったら乗ったで反撃するが。

 躰を起こして服を払い、時計に視線を落とすと六時が近い。思ったよりものんびりしていたと思って玄関から中に入ると、キッチン付近に気配があった。顔を出すと六六がいる。

「おはよう」

「やあ、おはよう。早いね」

「柔らかいベッドは久しぶりでな。今からシャワーを浴びても構わないか?」

「誰も使っていなければべつにいいよ。浴室の掃除は最後に入った人――まあ僕が軽く掃除しているし、日中にもやるからね」

「存外、管理人というのも暇らしいな」

「暇を潰す手段はいくらでもあるからお構いなく。朝食はブレッド、スクランブルエッグ、サラダの三点セットだ」

「どこぞのカフェでも似たようなメニューを見る。ただし味はこちらの方が上か?」

「褒め言葉と受け取っておこうかな。飲料はどうする?」

「では甘さ強めのミルクティでも。なければホットミルクで構わない」

「朝の飲料にこだわりがない?」

「朝からバーボンでハッピー入れるような趣味はない」

「あははは、つまり食事に合えば特に気にしないと?」

「そんなところだ。習慣にさせたいならば毎日、同じ飲料を選択してくれ」

 それだけ言って着替えを取りに自室へ戻り、再び一階へ戻る。中に入る前に使用中の札をかけようと思ったが、別に見られても遭遇しても構わないのでそのままにしておく。どうせ自己責任だし、誰かが入ってきた時の反応も見てみたい。

 残念ながら汗を流して野雨西の制服に着替えるまでの間、誰も中に入ってはこなかった。非常に残念であるが、またの機会に狙っておこう。

 制服のサイズは合っている。装備科の誰かがやったのだろう、名古屋本社に顔を出して礼を言う暇くらいあればいいが。

 仕事用の携帯端末は内側のポケットへ、プライベイト用はスカートへ。手荷物は筆記具程度だが、肩掛けのバッグに入っている。教科書の類も一応入れておいた。

 洗面所の鏡でチェックしてから、私はバッグを片手に部屋を出て、自然な動作で紙を扉に挟み、やや上部には髪の毛を挟んでおく。侵入形跡があるかどうかの確認もあるが、これも癖だ。

 玄関に荷物をおいてリビングに顔を出すと、転寝がぼうっと庭を見ていた。

「おはよう」

「ああ、おはよう。早いな朝霧」

「生活習慣はそう変えられない。転寝こそ庭を見るのは日課か?」

「ん? いや――誰かが足を踏み入れた形跡があったからな」

「なんだ、そんな細かいところまで気付くのか?」

「気付いたのは後だけどな。何か妙だなと思って――まあ違和感だ。んで、よく見ればって話だぞ」

「侵入の形跡か? 足跡でもあるのか」

「足跡ってほどじゃないが、朝の芝ってのはそれなりの癖がある。それが均されてる部分があってな……」

「夜中に小人が手入れをした、という雰囲気ではなさそうだな」

「朝方、誰かが入ってきてそのまま戻ったんだろうけどな……妖精さんがやってくれたと思うほど寝不足じゃねえよ」

「ふむ」

 隣にまで移動した私は片方の膝をついて、じっと芝生を見つめた。

「なるほどな」

「何が、なるほどなんだ?」

「侵入者の身体的特徴がわかる」

「――なんだって?」

「背の丈は一六八、体重はそこそこあるな……六十手前、五十五キログラム以上は確実だ。足のサイズは九インチ程度、痕跡を消そうとは思って行動していない」

「……行動まで、わかるのか」

「ああ。外から入ってきて座り込みストレッチをした後にうつ伏せになり、何で転がったんだと己の中で突っ込みを入れたのちに立ち上がり、玄関側へ向かって内部へ入り――まあつまり私なんだが」

「芽衣じゃん!」

 突っ込みは背後から、話を聞いていたらしいここのが崩れ落ちるようにしてリビングに入ってきて放った。

「九に突っ込みをやらせるとは、なかなか上手いじゃないか朝霧」

「そんなものか? ああ、気付いていながら付き合う転寝もなかなかのものだ」

「気付いたのは背丈で、だけどな。朝から何をしてたんだ? いくら庭だからって、他人の視線を期待するならべつの場所の方がいい」

「野外露出は趣味じゃない。それに存外、あれは危険だ。外は雑菌が多いからな」

「誰もんなこと聞いてないじゃん……」

「冗談だ、笑ってくれ。早朝のランニングに行っていただけだ。ストレッチをするのに庭はどうかと思ってな」

「ああ、別に気にしなくていいぞ。朝霧がやったってんなら、べつにどうもしない。第三者の侵入ならともかくもな。夜間の野外露出なら、首輪がついてるのは、男か女かどっちなのかくらい確認できりゃいい」

「ははは、見かけたときには教えてやろう」

 朝食の準備が終わったとの声がかかったため、キッチンへ――と、そこで足りないことに気付いた。

「そういえば花刀かたなはどうした。定刻よりはやや早いようだが?」

「そのうちにくるよ。芽衣くんは奥、僕の前だ」

六六むつれはどこだ」

「キッチンへの出入りに一番近い位置だよ。ミルクティが置いてあるだろう?」

「ああ」

「へえ、朝霧は甘い飲料が好みか?」

「いや特に好みはない。単純に糖分の摂取を考えているだけだ。……ふむ、転寝は珈琲か。ブラックは胃に刺激を与えるが、まあ好みもあるか。九は?」

「私はほら、紅茶ね。最近はまっててさあ」

 それぞれ、いただきますと言って食事を開始する。およそ六十秒でトースト、サラダ、スクランブルエッグを平らげた私は両手を合わせ、「ご馳走様」と言ってから皿を手に取り立ち上がった。

「ってはやっ! 芽衣もう食べたの?」

「ん……ああ、すまない。ゆっくり食べても良かったな。次からは気をつけよう」

 流し台に皿を置き、戻ってきてミルクティを手にする。この程度の量ならば一分もあれば片付けられるのは証明できたが、次の仕事のための準備もないのだし訓練中でもないのだから、次からはもう少しのんびり食べよう。

 クアンティコの訓練学校時代は、短時間で大量の食糧を腹に入れなくてはならなかった。無理やりにでも詰め込んだのは懐かしいが、それもまた状況で変えなくては偽装できない。それも今更な気がしてならないが。

 そう思っていると、ふらふらと花刀が重い目蓋を擦りながら入ってきた。制服には着替えているようだが、覚醒しているようには見えない。

「おふぁよ……」

「おはよう花刀くん」

 用意されていた食事に手を合わせていただきます。ふらふらと頭を動かしながら食事を開始するものの、焦点が合っていない。それにしても、色が違う。私の制服と形状は同じだが花刀のものは白色だった。

「夜更かし、ではないな。慣れている様子を見るに、いつもこうか?」

「花刀ってば血圧が低いからねえ」

「ふむ」

 女性には多いらしいが、九はそうでもないようだ。私は幼い頃からの〝教育〟で慣らされている。

 九や転寝に続いて食事を終えた花刀はようやく焦点を結び、あれと呟いてから私を視認した。

「うわ」

 なんだその反応は。

「うちの制服、可愛いって結構評判が良いけれど、芽衣が着るとまるで……」

「まるで、なんだ? オプションの追加料金表をじっくり見ながら妄想している野郎の頭の中にある女性像みたいに見えるか?」

「や、うちの制服はブルセラでも意外に高値で取引されてるよ?」

「九はなんでそんなこと知ってるのよ……じゃなく、なんていうかこう」

「気にせず言ってみるといい」

「うん。制服が着られているって感じ」

 ああと、全員が頷いた。当然、その中には私も含まれている。

「昨日のスーツの印象が強かったのもあるな。俺も昨日の服装と比較すると、大人びた印象が消えきらず、学生にはちょっと見えねえ。街中で見かけたら、コスプレなら場所が違うと注意で促すところだ」

「ははは、新入生が服に着られている感じがするのと逆だけれど、しばらくすれば馴染むと僕は思うけれどね」

「ふむ。九と比べたところで肉付きはそう変わらないだろう?」

「なんで私を引き合いに出さないのかしら……」

「知りたいか?」

 何故か全力で首を横に振られた。背丈が九の方が近い、という理由なのだけれど。

「いやあ芽衣の場合、ほら、目つきが」

 ああと、今度は私を除いた全員が諦めたように言った。失礼な。

「談話はともかく時間は大丈夫か?」

「あ、そろそろか。んじゃ行こう」

 時計に視線を落とせば○七二○時。女性三人は立ち上がり、そのまま玄関へ向かう。転寝はこれからツナギに着替えて登校らしい。あちらの学園はさほど時間的な束縛がないそうだ。

「いってきます」

「いってきまー」

「いってくる」

 やや先導される形で、私は二人の後ろをついて歩くように位置取りをした。目的地も移動経路もおおよそ把握しているが知らない振りの方が良いだろう。

「徒歩か?」

「距離が結構あるように見えるけれど、インフラが整ってるから直線距離で済むのよ」

「急ぐ場合はどちらが早いか、一応聞いておこう」

「そうね、待ち時間を度外視すればバスが早いわよ」

「諒解した――と、九は荷物がないな?」

「がっこに置いてあるからー」

 ふむ。勉学をする気がまるでないようにも思えるが、まあそれも選択の一つか。

「――不安?」

「ふむ、緊張はややしているが不安はさほどない。むしろ愉しみの方が強いか。こうした経験は――」

 初めてだ、と言おうとして苦笑する。言い換える言葉は貴重、だ。

「どうなるかわからない先行きに、愉悦を感じるのは悪い傾向だと思ってはいるのだがな」

 ただし期待はするな。油断と予断も捨てておけ――だ。

 師匠も存外、厳しいことを言うものだ。それに従っている私も私だが。


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