08/19/01:20――鷺城鷺花・夜の温泉
旅館での休暇とはいえ、基本的に生活自体も変わらないし、浮き足立つこともない。つまりいつもと同じ、環境が変わっても、それを変化と捉えたところで、それがどうしたと思えるくらいには順応力が高いのだ。
だから日付が変わった頃、温泉に入るのも問題はない。鷺花にとって夜は活動時間であるし、徹夜が堪えるのも事実だが、四時間程度の睡眠でも術式を使えば倍の休息を得られる。いくら完成されているとはいえ、鷺花だとて研究を止めたわけではい。
というか、魔術関係の仕事を一つ、しかも厄介なのを引き受けているのである。
鷺花は没頭してしまうとなかなか周囲に気付かないため、時間になるとアラームが脳内に響くような術式をセットしてある。もちろん、誰かの乱入に対してはすぐ気付くのだけれど、時間を忘れることなどしょっちゅうだ。できるだけ定期的な生活を心がけようと日本に戻ってからは思っているものの、なかなかできない。
三階にある露天風呂。ここの近辺でも温泉が掘れるのかと思って入ると、小さな鼻歌が聞こえた。リズムを意識して聞くと、旅館内で流れていた音楽の一つで、入館時に気付いたボーカル曲だとわかる。鷺花の記憶にはないもので、となると最近の曲なのだろうけれど。
「――?」
「ああ、続けて。良い曲よね」
小さく笑いかけて先に躰を洗う。少女は少し警戒というか、鷺花を気にしていたようだが、すぐにまた歌い始めた。といっても鼻歌に近いけれど。
「ふんふん――あっ、おー、ふん」
「ん? ああ、術陣は珍しい?」
頭を洗いだすと、半ば無意識に自己走査術式が頭上から足元に落ちるのだ。気を張っていればそうでもないのだけれど、術式を使ってもいい場所だと大抵は作動する。いわば一日の確認作業だ。
しかし、髪がちょっと長くなりすぎだろうか、と思う。普段は背中付近で一つにまとめており、肩から手前に落としているのだが、戦闘になるとよく背後に払っている。切る前に雪人へ確認だけしておこう、などと思う。
「――はれ、鷺やんじゃき、こんな時間なんに起きとるんか」
「あらなごみ、もう仕事終わり? ――って、もうってことはないわよね。お疲れ様」
「うちはほかの旅館と比べれば楽なもんきに」
「若女将見習いとしては?」
「あはは、そうじゃのう、まだまだ覚えることも多いんやよ」
「そう――うおっ、あんたでっかいの二つもついてるわねえ。背丈は私とそう変わらないのに」
お互いに一六○はないと思う。実際に計測したわけではないが。
「これなあ、和服だと結構苦しいんよ。形崩れんようにするのも大変じゃけん、なあ」
「同意を求められても困るわね」
お先にと言って立ち上がった鷺花は湯船へ。そこで音楽は途切れた。
「ん? どうかした?」
「んーん、なんでも。
「どうって、あなたもでしょ?」
「やや、あたしはなごみのお誘いがあったから、遊びに来てるだけ」
「へえ? 接点があるの?」
「学校で同じ教室だし。和服好きなんだー」
「そう――と、私は鷺城鷺花よ。年齢としては、ええと、たぶんなごみより一つ上か同じ? くらいね。ええそう、自分の年齢なんて気にしたこともないのよ」
「聞いてないし。あははは、あたしは
「いいけれど、感謝されるいわれはないわよ」
「え? だってさっき、いい曲だって言ってくれたじゃん」
「確かに言ったわね。喫茶店にあるシステムで鳴らしてみたいとは思ったくらいに。あれは最近の曲なのかしら」
「えっと、その……最近の曲というか」
どうして照れているのだろうと思えば、背後からなごみが言う。
「あの曲、火丁やんのオリジナルなんよ」
「――あ、ああ、そう、そういうことね」
たぶん、その会話は冷静に聞いていればわかったことだ。察することがなくとも、たとえば声を聴いた時に気付いてもいい。
だが、鷺花は気付かなかった。――気付けなかったのだ。
それはつまり、火丁が。
当たり前で、普通の、女の子だったからだ。
なごみもそうだろう。けれど、なごみはもう仕事をしている。それは責任ある立場だとかそういうことではなく――。
きっと。
鷺花にとって本当の一般人と触れ合った、最初の瞬間だ。
――動揺なんて、いつぶりかしら。
そんな自己分析ができてしまう自分に苦笑も出るというものだ。
「じゃあマスター音源、今度ちょうだい。ディスクに落として聴くから」
「いいよー」
「火丁やん、ちゃんと水質確かめといてや」
「あ、そういう建前だっけね――うおっ、やっぱでっかいなあ。羨まし……ふぬっ、湯に浮きやがる……!」
「そりゃ脂肪じゃけんなあ」
「にしても、さすがにちょっと暑いわよね」
「え、そう? まだ夜はそんなに暑くないと思うんだけどさ」
「私はほら――って、ほらはないか。ええと十年くらい国外で生活していたから、日本の浴槽もまだ慣れないのよ。でもそうね、ちょっとなごみ、空気入れていい?」
「なんじゃいそりゃ。変なことじゃなけりゃいいべや」
「そう?」
ならばいいかと、術式を範囲展開――ざわりと、水の表面が波打ったかと思った直後、一斉にミリ単位の泡が温水の内部からあふれ出る。
「うわあ……気持ちいいね!」
「向こうはこういう湯船が結構多いのよ」
とはいえ、屋敷には普通の湯船があったので平気なのだが、あそこは温度低めで長湯ができた。さすがに温泉のような温度だと厳しいのである。
「噴流式泡風呂じゃのう。あーこういうのも、ええなあ……」
「それでも暑いのよね。あー……おおう、それなら」
酒類は余計に暑くなるが、ほかのものならいいだろう。影の中からお盆を取り出して浮かせ、その上にグラスを――。
「あ、あんたたちも飲む?」
「酒はあかんよ」
「あたしも飲めない」
「じゃなく、ただの水よ。よっと」
お盆は四つ取り出し、三つにはグラスを置いて最後に大きめのボトルを置く。それらを注いで軽く流して渡し、鷺花はまず一杯を勢いよく呷った。
「――ん、いい感じ。冷蔵はしてたけれど、冷たいようならしばらくすればすぐ適温になるわよ。あー、良い一杯ねえ」
「鷺やん、うちと年齢ほぼ変わらんのじゃろ……?」
「あ、でもほんと、美味しい……え、なにこの水。ただのお水よね? ちょっと甘い感じがするけど」
「成分は蒸留水に限りなく近いわよ。キジェッチファクトリーなんていう、まあ、アルコールのメーカーがあるのだけれど、そこで使われている水をね、拝借したのよ。横流しとも言うけれど……まあ気にしなくていいわ。とにかく、良い水よ」
「確かに美味しいわあ……鷺やん、興味本位じゃけんども、これ流通確保すんならなんぼになるん?」
「ボトル一本につき二千くらいでどうにかなるかしら――あ、と、日本円だと今のレート換算でだいたい二万円ね」
「無理や……」
「金額は気にしなくていいから飲みなさい。お代わりもあるから」
「鷺花さんって……なんか大人の女って感じだ」
「ありがとう。弟もいるし、だからかもしれないけれど……なごみも弟がいたわよね」
「双子やけんどもなあ。火丁やんは――ん?」
「あたしは兄さんがいるよ? 最近逢ってないけど」
「あら、寂しそうね」
「うん。――あ! でもうちの兄さんはほら、なんていうかこう、……見えないところでフォローしてくれてるっていうか、いなくてもいるっていうか」
なるほどねと、鷺花は小さく笑う。
鷹丘少止――そして、あるいは
「同じ学校ってことは、もしかしてレン……連理とも知り合い?」
「あ、うん、友達だよ」
「そう……あの子もちゃんと学校に通ってるのね」
「そこ安心するところじゃろか。保護者じゃあるまいしのん」
「でもこの前、三日くらい無断欠席してたよね。なごみはしょっちゅうだけど」
「うちやって単位くらい計算してんべや。留年は面倒がー」
「試験結果だけは良いのに……」
「良くねえと教員側の受けも悪いじゃろ、やから」
「ふうん?」
「あれ、鷺花さんは学校行ってないの?」
「義務教育課程はもう終わらせてるわよ。来年に学園へ入学するつもりではいるけれど、登校するかどうかは考えものね。だいたい私はコロンビア大学卒業してるし。……あ、だから暇なんだ私」
「コロンビア」
「大学って……なんやの鷺やん、ほんまいかいな」
「嘘なんか吐いてどうするのよ。風呂あがったら卒業証書見せてあげるわ。ただの紙っきれだけれどね。それはそうとして、レンとは……ま、友人みたいなものよ」
「そうなんだ。今度、ちょっと聞いてみようっと」
「火丁は和服が好きで、なごみも仕事着以外にも和服を持ってるの?」
「余所行きゆうか、プライベイトで出歩く時なんかは、ちゃあんとした着物使うべや。洋服やって持っちょるよ? ほら、うちは胸がこれやさかい、洋服のが楽なんね。やから、正式な場以外やと洋服中心じゃのう」
「あたしだって洋服も着るよ? ……たまに」
「火丁やんのは派手やからなあ……赤色ばっかやし」
「えー、赤いいじゃん」
「面白そうね。火丁はいつまで滞在するの?」
「明日は土曜だし、日曜までいるよ」
「ならそうね、一緒に買い物でもどう? 私も和服を二つ三つ揃えておこうと思ってるのよ。なごみも休みが取れるようなら来なさい。専門店……ああ、デパートにでも行けばいいかしら」
「いいね! なごみはど?」
「そやな……ま、ええやろ。朝は忙しいけんども、女将……おっかあに聞いとくわ」
「よし、これで明日の予定も埋まったわね」
「予定って、なんやの。鷺やんは日頃、なにしとんねんな。そんなに暇なん?」
「大抵は喫茶SnowLightで店員をやってるわよ」
「あそこかあ。前に母さんと一緒に行ったことある。でも喫茶店ってこう、なんていうか、入りにくくて」
「最初だけよ。あそこのシステムで火丁の曲を流すから、今度いらっしゃい」
「うわ……照れるにゃあ」
「謙遜しなくてもいいのよ」
その辺りは血筋もあるのだろうが、たぶん火丁にとっては実の親に関しては知らせない方が良い。そうでなければ彼らが、養女として彼らに渡すこともないだろうから。
「鷺やんは趣味とかあらへんの?」
「んー、音楽を聴くのは趣味かもしれないけれど、どうなのかしら。なごみは?」
「うちは――親父のステレオを聴くこともあるねんけど、パズル系はちまちまやっとんよ。まだ旅館のことで手一杯やさかい、時間があんま取れとらんがー」
「パズルね。どっちのタイプかしら――最後のピースをはめて次をやるか、それとも最後になるにつれて手が遅くなるか」
「あー、完成がもったいのう思う方じゃのう」
「やっぱりね。火丁は音楽?」
「うん、完璧に趣味。曲作って歌って――歌う方が好きかなあ。なんでも歌うし」
「鷺やんは魔術師なんやろ? 魔術って研究とかあるやんけ」
「ああ、それは趣味じゃなくて生きがいであり生き様よ。生活そのものと言ってもいいわね。でもこうやって、使える時には好きに使う」
「眠れそうなくらい気持ちいいねえ、この泡」
「どういう仕組みになっとん?」
「簡単よ。あっちの隅から空気を取り込んで、こっち側は放出させてるのね。俯瞰してみると気泡の流れがよくわかるわよ」
ふらふらと移動した火丁は取り込みを見て、ほんとだー、などと言い、目を凝らすようにしてなごみは立ち上がって俯瞰する。同業者でも魔力の動きを捉えられないように細工はしてあるが、彼女たちにとってはそんなことよりも、現象に興味が向いているようだ。
――まあ、しかし。
こうして同世代と、歳相応の話をするというのは、こう、どうしてこそばゆいのか。
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