10/17/20:35――凪ノ宮風華・最期の言葉

「どこへ行く」

 まるで待ち構えていたかのように、男は問うた。

「何を求めに、どこへ行く」

「あんた――」

 知っている。いや知らないはずがない。

 まだいたのかと風華は思い、桔梗だったものは記録で知っていた。

「原初の書を求めに、地下へ」

 桔梗が返答をする。それは、風華に対するものは違い、否定でも拒絶でもなかった。つまり今の桔梗は男を、エミリオンを重要視していることになるが、そこまで風華は頭が回ってはいない。

 違う、とも気付いていない。

 ただ意味もなく敵愾心を浮かばせているだけだ。

「どうしても、か」

「必要だ」

「その死に体でもか」

「必要だ。それはこの肉体の行動原理として唯一残されているものでもある」

「お前は、誰だ」

「俺は俺だ。久我山桔梗との名を持つ、ただ記されるがままの器でしかない。俺は記録でもある」

「……真実は、光明であるとは限らない」

「残酷であるかどうかは主体が決定することだ。記録には真実としか残らない」

「お前ではない。お前を支えるもう一人に問うている。残酷な真実があったとして、それを受け入れるだけの度量があるのか」

 風華は答えない。

 何を言っているのか、その意味がさっぱり理解できないからだ。

 だって――そうだろう?

 今の風華は、ただ桔梗が望んで行こうとする助けをしているだけなのだから。

 それしか風華にはできない。いや、できることが見つからない。

「言わずもがな、か。他人の気遣いなど必要のないものだ。俺は俺のすべきことを、ただ淡淡と行えばいい」

 言ってエミリオンはエレベータの内部にあるパネルに認証を行い、目的地を指定する。それは彼の所持品ではなく、ベルから借りていたものだ。

「行け。そして現実を見ればいい――俺の役目は、それだけだ」

 ずるずると、遅遅たる動きでエレベータの中に入る。するとすぐに扉は閉じ、風華が振り向いてもそこに彼の姿は確認できなかった。

 稼動したエレベータは地下へと動く。そんな場所があったことすら風華にはどうでもよく、青白くなってしまった人とは思えない――けれど人の形を、己が知っている顔を持つ桔梗を見る。

 ここに居るのは、本当に久我山桔梗なのだろうか。

 到着を知らせる音にびくりと躰が震え、狭い階段が見えたためゆっくりと一歩を踏み出す。

 風華はずっと桔梗を支えてここまできた。おそらく体力も限界に近いだろう――だが、止めようとは思わない。

 ただ、進むだけだ。

 微微たるものでも、桔梗が望んでいるのだから行くしかない。

 そして、現実の扉が開いた。

「む――風華? いや、桔梗かね!?」

「さく、ま?」

 一歩を、その書庫に踏み出そうとして風華は潰れるよう床に倒れた。

 痛みが走り、呼吸が詰まる。いつしか額には汗が浮かんでおり、襟元を湿らせていて――気遣う相手は、久我山桔梗は、ずるずると這っていた。

「いらっしゃい――逢いたくは、なかったけど」

「だれ――だ?」

 それは、桔梗の口から自然に洩れた言葉だった。

 何故、という疑問から発生したわからない他人への誰何。記録を続ける彼にとっての禁じ手でもあった疑問が、口から出た。

 つまりそれは。

「言葉は残るのに、存在は記録されないお前は誰だ……!」

「一丁前に敵意を向けるか、記録媒体メディアが」

「――お前も、誰だ」

「どうでもいいことを問うな。――お前は何をしにここへきた」

「原初を求めに」

「求めて、どうする?」

 カウンターの前に出て雪芽を背に隠すようにして、ベルがその場の主導権を握る。疲れ果てた躰をどうにか起こした風華も、どうしていいかわからずに座り込んでしまった。

「どうする……?」

「原初の書を手にして、お前は何がしたい」

「俺……が? 何を……?」

「何かをする、その理由があるからこそ求めるんだろう」

「行動理由は必要だ」

「お前の理由は何だと聞いている」

「おれ、の――」

 理由など、もう、残ってなどいない。そんなことはベルにだとてわかっている。

 もう。

 そんな個人的な理由など、大局の情報で悉く記録により上書きされてしまっているのだから。

「ここにあるのは――記録だ」

 ベルは言う。

「世界が記すべき、全ての記録。だが、それは補助記憶的な意味合いでしかない。世界が記録しているものを、別途保存しておくための仕組みだ。それは――」

 つまり、それは。

「――お前自身に記録されているものと、まったく同一のものでしかない」

 原初の書とは。

 桔梗の器に刻み込まれた記録と合致する。

「お前はもう、原初の書を手にしている」

 ただしそれは過去ではなく、起動してから現在に至るまでのもの。

 だが、そうであったとしても――起動してしまったらもう終わりだ。終わりこそが始まりでもある。

 故にそれを云う。

 〈永続情報収集器官ラッシュトゥ・ラッシュ〉――と。

「哀れだな。そうあるべく誕生して、そうあるべく死ぬ……か。何の手立てもなく――いや、手立てを探っていたのか。そんなものはどこにもないのに。あるいは他の理由でもあったのか? 今さら、その理由を思い出すこともねえか」

「え……?」

 その言葉を、ぼんやりとした風華の頭でも受け取ることができた。

 間違いないのだろう。

 彼はこう言っている。

 久我山桔梗は死ぬのだ――と。

「嘘、だって、そんな……」

「んー、まあ記録を停止させることはできるんだけどねえ」

 その暢気な声に、瞬間的に頭へと血が上って風華は立ち上がった。

「――できるならやってよ! このままじゃ桔梗は、だってもう、なんでこんな!」

「できるなら」

 空気が凍結したように重くなった。

「やれ、だと?」

 それは殺意にも似た、言葉と共に咲真から放たれたものだ。

「風華、顔見知りのよしみで言ってやろう。――それを行うのは貴様ではない」

 その言葉に含まれるのは紛うことのない怒気だ。けれど、決して口調が荒くなることはない。

「貴様がやるのではないのに、できるのならばやれと言うお前は、他人の行動に対する責任を貴様が負うと言うのだな?」

「――え?」

 咲真は自分にできないことを他人に押し付けない。やってくれと頼む時はいつだとて、その責任を負う覚悟と、責任を想定した上で言う。

 それでも――相手を気遣うものだ。

 できるけれど、今までやらなかったのならば、それなりの理由がそこにあるはずなのだから。

「やれよスノウ。ご所望だぜ」

「――ベル!」

「感情的になるな。こういう馬鹿は」

 現実に責任を負わなければわからないんだと、ベルは吐息に乗せて言って。

 雪芽は、気にした様子もなく指先で空中に文字を刻んだ。

 すぐに桔梗は己の中の記録がさらさらと砂のように消えていくのを感じる。

 肉体を悉く潰して刻まれた記録が消えた後は、もう。

 空洞しか残らない。

 そこに在る――いや、在ったものが復元するわけでは、ない。

 ごとりと頭が床に落ちた。事切れたかのように、微微たるものだった動きも一切が消失してしまう。

 小さな鼓動も、耳を澄ましたところで聞こえない。

「あ……」

 声が、喉が震える。

 永続していた記録行為レコーディングが停止し、役目を終えた器の中で残されていた僅かな――久我山桔梗という残滓は。

 もう、外部の情報を得ることができず。

 目も耳も触覚もなく。

 ただ、何かを伝える器官だけが残滓として残った。

 記録が消えても、記憶は復元しない。

 後は落ちるだけだ。暗闇へ、何もない場所へ――堕ちるだけだ。

 それでも。

「ふう、か――」

 残滓は、誰かに伝えてようやく消える類のものだった。

 その誰かがいると信じる、その行為すら考え付かず、桔梗は残ったものを消すためにそれを口にした。

 それは理由ではない。

 ここへ至った理由でも、かつての桔梗が行動していた理由でもなく、あるいは発端で何も言わずに風華の前から姿を消した理由だったのだろう。

 伝えてしまえば終わる。

 終わるためには伝えなくてはならない。

 終わらないためには? いや、その終わりはもう確定しているものだ。

 消えてしまった記録に、もう刻まれていたから。

「生き、ろ」

 その言葉を口にした途端、残った最後の文章が言ったぶんだけ消える。それはまるで、声が空気を振動させてから霧散するのと同じようで。

「足をつけ、て……前を、みて、……生きろ」

 そうして、久我山桔梗は生命活動を停止した。

 静寂に足音が響く。冷静に状況を見極めたベルが歩き、風華の襟首を掴んで桔梗だった物体へと強引に近づけた。

「できるならばやれと、お前が言った」

 呆然としたまま、風華はそれを見ている。まだ、現実を受け入れていない。

「お前が言ったからスノウはやった。こうなることがわかっていたから、やらなかったのに――お前が最後の撃鉄を落とした」

 言葉が聞こえていない。だから、ベルは耳元に口を近づけて強く言う。

 言ってやった。

 現実を。

 そして真実を――記録に刻まれた、できごとを。

「お前が殺した」

「――!」

 声にならない悲鳴と同時に、桔梗の躰に張り付いた風華の周囲には無数の風刃が発生した。

「……凪ノ宮の魔術師、その特性か」

 暴走なのだろう、とベルは再び戻り紫電の術式で風の刃を防ぐ。ここで雪芽に傷を負わせないのがベルの仕事の一つだ。

「咲真、お前もこっちにこい」

「――否だ。抜けベル、そして斬れ。ただし殺すな」

 そうだなと言いながら腰のナイフを引き抜いたベルは、その大振りナイフの刀身に刻まれた刻印を指でなぞり、一振りしてから鞘へと戻す。たったそれだけの行為で術式を切断し消去、更には術者の魔力もごっそりと斬ってしまった。

 ExeEmillion№Ⅳ。

 それは、指定した何もかもを、その法則ですら切断可能なナイフだ。

「早かったなエミリオン」

 どさりと気を失って倒れた風華になど目も向けず、ベルは出入り口を振り向いて言った。

「面倒ごとは早く済ますに限る。久しいな雪芽、怪我はないか」

「うん、大丈夫。元気そうだねえ」

「今の俺がそう見えるなら、お前は相変わらずの節穴だ」

 エミリオンは風華を肩に乗せるよう担ぎ上げた。

「……どうする、つもりなのかね」

「朧月咲真か? 俺の仕事はコレを運ぶだけだ。その先を選ぶのはコレ自身になる」

「咲真、凪ノ宮風華はここで死んだ。口外はするなよ」

「しないが――いいのかね」

「後追い自殺をされるよりは、まだマシってだけだろ。ブルーの采配だ、俺に文句はねえ。エミリオン、駐車場に俺の車がある。知ってるな?」

「助かる」

 じゃあな、と言葉を残したのは雪芽に対してか、すぐにエミリオンは去る。その際にAsAAをベルへと返すのは忘れていなかった。

「あ、ここじゃ携帯端末は繋がらないよ? こっちの生活部屋ならいいけど」

「俺には電磁防壁シールドなんぞ通用しない、気にするな。……――レイン、俺だ。今からエミリオンが向かう、ソプラノの邸宅まで直行しろ。街頭監視カメラおよび衛星の目隠し《マスキング》、常時展開で忘れるなよ」

 端的に用件だけ伝えて、さてとベルは桔梗だった物体に視線を送る。

「……スノウ、何かあったか」

「へ? あーうん、彼から消した記録が流れてったから、ちょっと気になって。すぐに消えるから大丈夫だとは思うんだけど」

「そういうことか」

「――どういうことかね」

「さあな。咲真、思い出せ。お前は何をしにここへ来た? この茶番劇を見るためか?」

 この悲劇を、茶番と言えるベルの精神はどうかと思ったが、重い吐息を落とした咲真は首を横に振る。

「違う」

「そうだろ? 俺はここの後始末をする。帰宅時間には合わせてやるから、お前はお前のすべきことをしろ。お前はただの観客だ――何かを負う必要はない」

「そうだな」

 けれども。

 何かができたのではないかと、後悔を抱くのは人の性質だ。

 死者に対してはいつだとて、そんな詮無きことを考えてしまう。

 もう、いない人間に対しては無駄なことなのに――。


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