10/17/11:40――中原陽炎・橘家の長女

 そろそろ午前の授業は終わりかと、陽炎は腕時計を一瞥して吐息を落とした。

 風が通り抜けることを今は心地よく感じず、足元にたまった埃を舞い上げるような錯覚に陥ってしまう。そのことに警戒心を触発され、薙刀を握るように右手が空を掻く。

 しばらく持ってはいなかったのに、染みついた習慣は消えないらしい。

 否応なくその空気は昔を彷彿とさせた。妖魔に囲まれた、闘争の日常を。

 ほんの三十分ほど前だろうか。授業が行われるとはいえ、鷺ノ宮の崩壊の余波は存外に広く、本来ならばこの学園ではありえないだろう自主学習の時間に据え置かれた。その折にふと、今朝からのダメージで不貞寝をしていた七が躰を起こし、窓の外を見て一言。

「あ、姉さんの気配がする」

 それが一体何なのかは知らないが、ともかく確信があるらしく焼け跡となった自宅の様子を見に行くと席を立った。どうしようかとも考えたが、授業をこのまま受けていたところで何の進展もないのはそれこそ明らかだ。ゆえに同行を申し出た陽炎の行為に不思議はなく、むしろ不思議なのは、うんいいよーなどと気軽に承諾した七にあるだろう。

 さておき、こうして外を出歩いているわけだが、やはり陽炎には実感がなかった。

 鷺ノ宮の直接的な影響が、己の身に降りかかっているという現実味がないのである。

 除外されている? 中原陽炎が、無関係な位置にいる?

 ――冗談じゃない。俺があのマンションにいる以上、関係はある。

 けれど、果たしてどんな役割を押し付けられたのかがわからない。あの嘘吐きのことだ、厄介なものを背負わせたに違いないのだろうけれど。

「到着っと。あ、やっぱりいた」

 隣から発せられた声で我に返ると、視界に黒が入り込んだ。

 どのように炎上させればこれほどまでに完全燃焼させられるのだろうか――そんな疑問を抱くほどに跡形もなく、悉くが炭へと変化している。

 そして赤色がそこにいた。

 長身、すらりと整った躰に密着する赤のチャイナドレス。振り向いた顔は素朴な――大人びた雰囲気に入り込む幼さという異物、けれどその絶妙なバランスがひどく矛盾していて、合致していた。

 ああ、そして何よりも胸元にある鈴蘭を模した刺繍が存在を強く前へ出す。

 けれど、でも。

 ――くそっ、ノーメイクじゃないか!

 その一点だけが七と同じで、肩のラインで適当に切っている黒髪もまた手入れをしたくなる。

「零姉さん! 戻ってたんだ――んぎゅ」

 小走りに近寄った七は、橘零の前で何故か頬をつねられ、横に引っ張られた。

「……いひゃい」

「だれ? ……あ、七だ。おはー」

 ひどくスローテンポ。その癖に手は離さない。

「で、家がない」

 七が頷く。

「なんで?」

「ひょれわ、わきゃんにゃい」

「ちゃんとはなし……あ」

 そして気付き、両手を離す。七は頬に両手を当ててから、唇を尖らせた。

「痛いなあ……」

「不始末?」

「違うってば。何でかわからないんだけど、狩人が来て勝手に燃やしたの。あたしが原因じゃないから」

「……うーん」

「ん?」

「七、そこにいた?」

「いた。気配がしたから外に出たら、燃やされたのよね」

「狩人?」

「だと思うよ。子供だったけど……」

「こども?」

「うん。背も低くて――」

「特徴は?」

「えっと……え? なに姉さん、復讐するの?」

「しない。面倒だし。でも気になる」

「なんていうか――小学生か? って思うくらいだったよ」

 そういえば、その話を陽炎もまだ聞いていなかったか。

「妙に馴染んでたんだけど、作業用のツナギ着ててさ。色は薄い緑かな――あ、そうそう、レイピアみたいな細い剣を二本腰に……どったの姉さん」

 どういうことだと、問いかけたい相手がここにいなかったため、陽炎は後頭部に片手を当てて僅かに視線を上げた。

 顔見知りではない。けれどたぶん、その人物は彼女が言っていた彼だ。

 そろそろ会話に参加でもしようかと敷地内に足を踏み入れようとした直後、背後に出現した唐突な気配に足が大地を蹴って。

「どけ」

 半回転して敷地内に入ろうとした中空、陽炎の袖をあっさりと掴んで敷地の外側へと着地させた人物がそこに居た。

 そしてもう一人――スーツの男が。

 臨戦態勢で。

 そこに居た。

「――橘零」

 ワイシャツのボタンは二つしか留めず、素肌を露出した男が堂堂と敷地内に入る――いや、這入る。

「暗殺代行者としての仕事はやめたんだッて?」

「……うん。だいぶ前に」

「何故だ?」

「殺せなかったから」

「へえ――誰を」

「清音を」

「はッ、存外に素直じゃねェか――だが! 世間的にゃてめェはまだ暗殺代行者のままだ」

「知らない。興味ない」

「そうはいかねェなァ――巡ってきた機会だ、そう簡単に逃すわけにゃいかねェよ」

「……」

「遊べよ橘零、俺たちと。その結果が出りゃァ、名実共にてめェは引退できるッて寸法よ。どうだ? そうすりゃァ――」

 彼は、笑う。歯を剥き出しにして。

「――隣にいる妹も、名実共に暗殺なんぞしなくたッて済むぜ?」

 零は何も言わず、お互いに睨み合った。

「ご安心を」

 陽炎の隣にまだ立ったままの男が薄っすらと笑んでこちらを見ていた。

「私たちの目的は橘零です。君にも、妹君にも手出しすることはありません。ただし、邪魔をしなければ、ですが」

「……――七さん! こっちへ!」

「賢明な判断、何よりです」

「……どうかな」

 近くにきた七の手を取り、けれど視線は男へと向けたまま、この状況の歪さに虚構の中での真実を見抜く。

 これは大きな流れの中に生じた、小さな流れだ。

 川に石があれば流れを一時的に分断するように、あるいは小さな流れが積み重なって大きな川になるように。

「あなたたち狩人は、本当にただの歯車のままでいいのかな」

「――どうなのでしょうね」

 七が驚きに目を見開く。どうして一見で狩人であることを見抜いたのか、そして否定しなかったことに驚いたのだろう。

 陽炎だとて彼らを知っているわけではない。ただ流れがそれを示しているだけだ。

「私たちは人の命運を握ることはありますが、それも仕事ですから」

「仕事、か。……――零番目はどこにあるのだろうか」

 陽炎は言う。

「始まりの数字は〝二〟」

「……そうですね。加算という概念が発生しなければ、数字は誕生しない。故にそれを二と呼ぶ」

「七に対しては五を引けばいい。六六ならば加算すれば一つと二つになる。五六には六を五によって除算させよう。三四五には一歩、いや三歩ほど後退してもらおうか」

「……」

「では、零には?」

 男は考え込むよう口元へ手を動かす。

「二を足す? 数学的、いや算数ならばそれでもいい。けれど現実には足せない。何故ならば零は原初、発端を示すのではなく――」

「――終わりを示す数値だから、ですね」

「終わりは始まりとも言うが、これも当てはまらない。橘の終わりに、加減乗除は通用しない。終わりとは曰く、――完成だ」

 言い終えた陽炎は手を引いたまま背を向けて歩き出す。

「――ご助言、感謝致します」

 その言葉だけが聞こえ、表通りに出るとすぐに気配は遠のいた。おそらく何かしらの仕切り、囲い、結界の類で誤魔化してでもいるのだろう。

 しばらく無言のまま歩き、ふと気付くとまた雨が降り出している。小雨だから要らないと考えてから、ようやく七の存在を思い出して番傘を開いた。

「おっと、手を繋いだままだったね」

「――陽炎、あのさ」

「ん? ああ、あの人……零さんについては心配しなくてもいいよ。大丈夫だ、あの人が誰かに殺されることなんてありえない」

「あ……えと、うん、それも心配なんだけど――どうして? 橘の数字を知ってるの?」

「人から聞いたんだよ。癪だけどさ、俺は伝言係にされたわけ。聞いたのは随分と前だけど、口にしたのは今が初めてだしね……」

 一言一句間違いなくとは言えないが、それでも聞いたものをそのまま彼らに伝えただけだ。それもまた流れの一部だったから。

「……それ、橘の人間は口外しないんだけど」

「はは、アイツにしてみれば――……いや、そうだね。どうやって知ったのかはわからないけど」

 きっと彼女なら、こう言うだろう。

「おやおや考えてもいなかったのかね? こんなことは少し関わって名を並べて頭を二十度ばかり捻るだけでわかると思うのだがね。ボクでもわかったのに、わからなかったと? 素晴らしい! 君は己を愚者であるとここで証明したわけだがまだ感想がないな?」

 妙にリアルな想像だったため、口にできなかった。

「それよりも、悪かったと俺は謝罪すべきかもしれない」

「え? なんで?」

「こういう言い方は曖昧なんだけれど、俺がどうも彼らと零さんを繋げてしまったような気がしてね」

「……? だって陽炎は姉さんを知らないんでしょ?」

「今回が初見だね。でも――……そうだね。七さんが俺を選んだ時から、この流れはできてしまったのかもしれない。俺は狩人と薄い繋がりがあるから、その影響がこの状況を招いた――いや、それでもまだ二手も三手も隠れているはずだけれど」

「んー、よくわからないんだけど」

「俺だってわからないことだらけだよ。ただわかるのは、零さんは必ず生き残るってこと」

「そだけど……何のために? 姉さんが仕事辞めて長いし、あたしだってやりたくないからやってないけど」

「そうなんだ。でも彼らにとって、橘って名前はまだ影響力があるものじゃないのかな?」

「そりゃ、まあ多少は」

「実際に引退しても、その証左はないよね。だからその結果を出そうとしたんじゃない?」

「えーっと……だから、あの狩人たちが姉さんと戦って、その結果がどうであれ、暗殺代行者を引退したってことと強引に結びつける?」

「うん、そんな流れだと思う――と、俺の家に戻るけどいい?」

「あ、そうして。……でもさ、たかが狩人がそんな結果を流布したって、他の人たちが納得すると思えないんだけど」

「うん。その辺りにいる狩人なら、馬鹿なことを言ってんじゃない、の一言と笑いで終わりだろうね」

「だよねえ」

「――だけど、実はあの二人を俺は知ってるんだ」

「……へ? 知ってんの?」

「ハンターズシステム・オフィシャルサイト、通称HsSヘイズに顔写真つきで載ってたから」

「それってもしかして」

「ランクSS狩人〈守護神〉、俺と話していたのはランクS狩人〈女王陛下の御心〉だ」

「うわ……抜群の説得力だ。姉さん、本当に大丈夫かなあ」

「二人がかりでも火力も技術も足りないくらいだよ」

 ただし、殺害や打倒ではなく足止めくらいならば、できるかもしれない。その辺りに確証はないけれど、きっと当人である彼らの方がよく理解しているはずだ。

 それにしても、だ。

「ね、狩人っていろんなとこにいるね」

「――うん。俺もそう思った。けど今までは、まるっきり意識してなかったよ」

「あたしも。なんていうかこう――便利っていうとちょい違う感じなんだけどさ」

「彼らは歯車なんだと思う。あるいは潤滑剤かな……何かと何かを繋げる意味合いが強い気がして」

 まるで、表と裏を繋げているようで。

 そのために日本へ狩人法ことハンターズシステムが導入されたようで。

 やはり誰かの手の上であることを実感させられてしまう。

「さて――とりあえず、問題がある」

「へ? な、なに? どったの?」

「お昼、何を作ろうか」

 何を食べようではなく、作ろうと言われたその言葉に、七は何故か負けたような気がしてならなかった。


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