2011年
06/12/10:00――嵯峨公人・ネイムレス
ぼんやりと空を見上げるのならば、できるだけ空に近い場所がいい。眩しさに目を細めながらも、両手を上げて届かないのは地面であろうとも校舎の屋上であろうとも変わらない事実を、少しだけ噛みしめることができる。
空には手が届かない。
腕の長さを自覚しようとも、それ以上を伸ばすことはできないのが現実で、だからこそ人には足がついている。手が届かないのならば歩くことで近づけばいい、それでも困難な壁にぶつかったら両方使って乗り越えろ、だ。もちろん頭も使ってだが。
それでも迷いはいつだとて心の中にある。それも当然だ、人には未来が見通せないのだから。
恐怖心を抱かない人間は早死にする。恐怖とはつまり安全装置の一種であり、身を守るためには必要なものだから意図して鈍感にするのは自殺と同じだ。軍人であったところで、恐怖を危険信号に置き換えるなどの処置を早いうちに訓練で行う。
怖がって、怯えて、蹲って。
そうした行動が成長に繋がることを嘲る人間は、それを知らない者だけだ。
届かないものに届きたいと願うことは罪にならない。けれど、届くためにどうすればいいかを考えないのならば――それは、成長には何ら役に立たないものだ。足を前へ進めるのは簡単で、あるいは困難で、時間が解決するなどという消極的な意見もあるけれど事実で、けれどどう進むべきかを忘れてしまえば、大きな落とし穴にはまる。
もっとも、考えたところで落とし穴はいつだとて死角に隠れているのだが。
どうやら自分は成長したいらしい。あるいは、成長したのか。
選択そのものが重要であることを自覚したのは最近だが、選択肢そのものを意識した途端に今見ている大空のように、その幅がとても広く多すぎる。もちろん一つを選んだところで撤回も可能であるし、途中で切り替えることもできるのだが、ただただ多い事実がこれほどまでに身動きを縛るのだと気付かされた彼は、もう少しだけこの状況を知って――楽しみではないけれど――経験しておくのも悪くないのでは、と思えた。
それで成長したい己を自覚できたのだから、実際に悪くない。ただあまり引き延ばすのもどうかと思うので、いざという時に決断できるよう心掛けてはいるが。
「どんなもんか……」
先手を打つ、なんて言葉が自分に似合うとは思えない。慎重や臆病よりも、どちらかといえば実践したくなる性質だし、向こう見ずな部分もある。心掛けていたところで、それが功を制するとは思えない自分が、まあらしいと頷いておくべきだろう。
「――なにが、どんなもんなんだい?」
その日、何をどう間違えたのか、独り言に対して問いを投げる人物が乱入してきた。
「ああ?」
気配に気づかなかった――などとは思わないけれど、この中学校の校舎屋上は普段から出入りを禁止されているし、出入り口を開けば音が立つ。六月の半ばとはいえまだ衣替えをしたばかりの時期、肌寒い日もあるため外に出る生徒も少ない。ましてやそれが授業中ならば尚更だ。
声が裏から聞こえたので寝転んだまま頭上付近へ視線を投げると、おっと、と言って視界の隅で影が揺れた。
「僕のスカートの中身を覗きたいのならば、別の手段を使うといい。もっともそれが通用するかどうかまで保障はしないけれどね」
「どうでもいいけど立ってると見つかる」
「ん? ああ、一応隠れてはいるんだね君も。それなら安心するといい、僕の位置を発見できる箇所は限られているし、その辺りを警戒しているさ。しかし話をするのにこの恰好というのも面倒だ、隣に座らせてもらおう」
「待てよ」
ようやく、公人が上半身を起こすとそう遠くない位置に少女が立っていた。学校指定のセーラー服で、見たことのない顔だ。学年は同じようだが――ネクタイの色が赤だ――となると別のクラスなのか。
「使えよ、汚れる」
「へえ……ビーチマットまで用意しているなんて、常習犯か。気遣い無用だと言って否定するのは簡単だけれど、ありがとう感謝するよ。横にすれば君も座れるからね」
場所は出入り口の裏側で、今は日向になっているが午後からは日陰も作られる。そこに並んで座り、背中を壁に預けた。
「いい天気だ。常習犯の君はどうして授業をサボって日光浴なんてしているのかな?」
「真面目に授業を受けなくても義務教育なんかどうとでもなるだろう」
「それは何故?」
「学校なんて仕組みは卒業させることを前提に動く。悪い点数とっても、素行が悪くても留年させるのは稀だろう。だったら仕組みと学校側の感情を逆手にとって上手くやればいい」
もっとも、点数を成績とするのならば、公人は決して悪い部類には入らないのだけれど。
「効率的にかい?」
「さあ……効率の問題かどうかは知らねえよ。そういうお前はどうなんだ」
「僕がここにいる理由なら簡単だ。君を発見したからだよ」
「――ふん」
「おや信じていないようだね」
「そりゃそうだろ。授業中に抜け出す生徒なんか少ねえし、見つけるにしたって教員だろう。まだ見つかってねえけどな」
「教員、なるほど、教師と呼ばない辺りは共感できるけれど、まあ隠れている人間を発見するのにはコツがあってね――隠れている側の気持ちになる、なんて初歩をここで口にしてもいいのだけれど、実際にはそうだね、意識して普段の行動から外れたことをするんだ。さて結果はどうだ、僕はこうして君を発見し、それはそれで一つの結果かと座ったわけさ」
「物好きなタイプか……」
「君のように一人でいる人間を見ると、つい魔が差す性格の悪い女さ。君のような人間がこの学校にいただなんて、そのことに気付かなかった僕自身を笑ってやりたい気分でもあるけれどね。やれやれ、始業式では全員が一堂に会していたというのに、なんて有様だ」
「どういう理屈かは知らないけど、俺は始業式に出てない」
「それなら納得だ。現時点で幸運だと現状を評価することは避けるけれどね」
「よくしゃべる女だ……」
「嫌いかい?」
「好きだったらこんなところで一人でいるか?」
「そんなこともあるだろう。だいたい本当に嫌なら、君はとっくにこの場から去っているさ――安穏の場所はなくなった、さて次はどこに作ろうかってね。おっと、これでも返答してくれたことに感謝していて僕は気遣っているんだぜ? ま、君が僕に対して気遣えと強要しているわけじゃないから気にしなくてもいいけどね」
「わかった、悪かった俺の負けだ」
「勝ちたいわけではないけれどね。ただ僕は君のことを知ろうと、悪く言えば探っているのさ」
公人の周囲には少なからず女性はいるが、付き合いのある相手となると、二村双海の顔が浮かんで、あれはどっちかっていうと男性よりの思考だろうと削除。考えれば、口で負けてしまうような女性は初めてかもしれない。
いや、決して双海に口で勝てるとは思わないのだが。
「お前も随分と面白い女だな」
「なら掴みは良さそうだ。もっとも、君みたいな相手には隠し事をせずに素直に言ってある程度警戒心を煽った方がいいと、そんな悪知恵も働いてはいるよ」
「頭がよく回るのはわかった。早口は考えるより先に、なんて聞くがお前は早口でもないしな……おい、名前は?」
「僕に名前はないよ」
「――あ?」
「冗談ではなく、僕に名前はないんだ。隠しているわけではなくてね」
「ふん。なら〝
「いいね、まだそう呼ばれたことはないから気に入ったよ」
「というか教員や教室の連中は何で呼んでるんだ」
「うん? そんなもの、出席番号なんて代名詞があるじゃないか。僕はラストナンバーだから、そう呼ばれることもあるね。ま、居ても話しかけられることはないし、僕の異常性に関しては自覚しているから、その状況をむしろ好ましく思っているよ。――興味を持てる人間の方が特異だ。あるいは君のようにね」
「特異、ねえ……」
「君の名前は?」
「なんでも」
嵯峨公人という名を持っているが、どう対応するのかと思って、半ば当てつけのよう適当に言うと彼女は。
ネイムレスは言う。
「じゃあ〝
「――なに?」
「君は存在そのものが創造するための仕組みみたいなものだろう? いわゆる俗語だけれどね。ま、その理念は……うん」
じっと、横目で見られているその瞳を見返すと、妙にその視線が冷たく感じた。機械的なのではない、かといって鋭く探っているわけでもなく、なんだか監視カメラにでも見られているような――。
「〝刃物〟か。なるほど面白い、これはまた在野にこんな人物がいただなんて――数ヶ月前の僕ならば喜んだろうけれど、しかし今の僕は君の魔術特性そのものは別にして、君自身に対しての興味を持っている。しかも、どうやら独学のようじゃないか」
「よくわかるな」
俺が魔術師だってことが、と言うと、彼女はわかるさと軽く肯定してしまう。
「数ヶ月前のお前は何だって?」
「ん? ああ、その時はまだ僕は〝識鬼者〟だったからね。もちろん今の僕は違うよ」
「……あ? そりゃ確か、あーなんだったっけ、魔術師協会だったかの二つ名?」
「なるほど、君はそちらの知識も得ていないのか。まあ今の僕は絞りかすみたいなものだから気にしなくていいよ。同郷ってわけでもなし、ただ知識だけ残ってるってだけさ。どうせ今の僕じゃ術式一つ扱えない」
「どういうことだ」
「どうもこうもない、それが現実だよ。ただ繰り返すけれど知識は残っているからね――いやいや、なるほど、君のような人物が同じ学校にいたことで、どうやらしばらくは退屈せずにすみそうだ。そうだ、これも聞いておこう」
「なんだよ……」
「どうしてこの学校を選んだのか、その理由さ。この近辺は大抵が私立のVV-iP学園付属中学へ行くんだろう? 公立の桜川中学、つまりここは見ての通りあまり生徒がいない。一学年で四クラスしかないしね」
「そりゃお前もだろう」
「うん? 僕は天邪鬼だから人が選びそうなものをあえて選ばないだけのことだよ」
「ああ……なんか納得」
「君もなかなか酷いね」
「率直に言っただけだ。俺は……まあ、人との繋がりを考えたくてな」
「ふうん? じゃあ似たようなものか。――エミリオン、君はどんな刃物を創りたい?」
「まるで俺にはそれしかねえみたいに言うじゃないか。……まあ、確かに創るのは好きだが。たまにそれ以外見えなくなるけど」
「没頭すると周囲が見えなくなるタイプだね」
「たまにだ、たまに。つってもどんな、か……まだ達成感すら味わったことのない俺に、難しい質問をするな」
「現在は?」
「今は金属の生成を試行錯誤してる。目安はできたが、それ以上をな」
「なるほど。じゃあ今の君は目標そのものすらないんだね?」
「ああ」
「だったら、この僕と約束しないかい?」
「――は?」
「僕はね、約束で動いている――と言ってもピンとこないか。それが何であれ、僕は約束しようと頷いたことを反故には決してしないと己に誓っていてね。それを他人にまで強要したことはないけれど、期待であることに間違いはない。そこでだエミリオン」
「なんだよ」
「君が生きている内に、法則すらをも切断可能な刃物を創ってはみないかい?」
「……なるほどな」
それはとんでもない指針だ。今の彼では途方もなく、それこそ冗談だと笑い飛ばすことすら難しい、想像すら困難な目標。
だが、今はそうでも明日は違うかもしれない。
「――いいぜネイムレス。約束しよう、俺が生きている内に法則を切断可能な刃物を創ってやる」
「君が前向きな人間で良かったよ」
ここが始まりの刻。
エミリオンの一歩が始まった日。
そして日常が変化した起点でもあった。
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