第41話 優しい言葉って?

 なんてこった。『ヨメたぬき』を一文字も改稿しないまま貴重な土日が過ぎ、その上『I my me mine』さえも途中下車されてしまった。近年稀に見る最悪な週末だ。


 別れを告げられてから何度も『ヨメたぬき』のゲラと格闘したが、内容が全く頭に入って来ない。字面を目で追っているだけで、まるで意味のない『文字』と言う記号の配列を眺めているに過ぎない。

 そんな状態のまま昼になり、「きっとブドウ糖が足りないんだ」と自分に言い聞かせて、それでも食欲が湧かずに卵かけご飯を一杯だけ食べ、また午後からゲラを無意味に眺めているまま夜を迎えた。

 気持ちばかりが焦って全く何も手につかない。こんなの初めてだ。


 『ヨメたぬき』の中で、たぬきが必死に自己主張しているシーンがある。全く通じないダンナにわかって欲しくて、いじけたり、拗ねたり、暴れたり、八つ当たりしたり、やりたい放題。ダンナは呆れてたぬきを放置するが、夜になるとちゃんとたぬきがダンナの布団に先に入って、布団を温めてくれている。

 結局たぬきの居場所はここしかないのだ。喧嘩しても何しても、ダンナのそばが一番心地いいのだ。

 ダンナの方も、呆れながらも布団に入ろうとすると、そこにたぬきがいるのを見て苦笑い。それと同時にたぬきのいない生活が考えられなくなっている自分に気づく。やっぱり彼にもたぬきが必要なのだ。


 今の俺とアイさんは、ダンナとたぬきのような関係だと思っていた。しかし現実はそうではなかった。アイさんには俺は無くてもいい存在だったんだ。こんなに簡単に別れを告げられるなんて。

 今までだって何度も「やめる」「きらい」って言われた、でも必ずアイさんは戻ってきた。たぬきのように。だから俺も勘違いしてしまったんだ、俺はアイさんに必要とされている、って。

 とんでもない思い上がりだった。失って初めて気づいた、アイさんが俺の心のほとんどの領域を占拠してしまっていたことに。

 アイさんが居なくなって、俺は抜け殻のようになっていた。もちろん会社で仕事をしているときはいつも通りだったが、仕事から離れた瞬間、どうしようもない虚無感が襲ってくるのだ。

 家に帰ってもゲラを眺めては溜息をつき、サイトの『ヨメたぬき』の閲覧数がうなぎのぼりになっていくことに焦りだけが増幅していく。

 どうしたらいいんだ。このままでは締め切りまでに改稿が終わらない。何とかしてアイさんの事を忘れないと。

 そんな矢先、LINEの着信音が鳴った。アイさんだ! 俺はスマホに飛びついた。


▷あたしは昨日言った事、これから百万回も後悔するんだと思います。

▷もう八雲君の特別でなくなってしまうことを泣き暮らしてしまうほどに。

▷きっと八雲君にはあたしの気持ちなんてわからない。

▷だけど、八雲君に伝わらないものが読者に伝わる訳がない。

▷もう辞めるって言ったのに、全然勇気もないのに、今日も舞の話をつづっている自分がいます。どうしてなのかな。


 どんどん送られてくる。これは何も間に入れずに、言いたいだけ言わせた方がいいような気がする。


▷八雲君に「じゃあ君は一体どうして欲しいんだ」って聞かれて、やっぱりうまく答えられなかったら、『笹川流れ』読んで貰えないの?

▷褒められたいだけじゃないの。ちゃんと受け止めたいって思ってます。

▷八雲君が作品を良くしたいから言ってくれてるんだって、頭では理解してるの。

▷でも、もう少し優しい言葉を選んでくださいって言ったら、それも甘えてることになるの?


 ダメだ……全然わかってない。

 彼女が戻ってきてくれたらこんなに嬉しい事はない。だが、これは違う。甘ったれたまま戻って来たんじゃ意味が無いんだ。俺が帰って来て欲しいのは『作家のアイさん』なんだ。


◀どうしたら満足できるのかと聞いたのは、何を求めているか判らないからです。

◀「甘いものが食べたい」とあなたは言う。

◀私はドーナツを持ってくる。あなたは「ドーナツが食べたいんじゃない」と言う。

◀私はアイスクリームを持ってくる。「冷たいのは嫌」とあなたは言う。

◀じゃあ何が食べたいの?

◀こういう話なんですよ。的外れな事を繰り返したくないんです。難しい話ではないんです。今『笹川流れ』を読んだら、イチゴパフェが食べたいあなたに芋羊羹を持って来ることになるんです。

▷たとえがわかんないよ。芋羊羹も好きって言ったら怒られそう。


 怒らんけど呆れるよ……そういう話じゃねえよ。


▷あのね、とにかく優しくしてほしいの。

◀あなたの言う『優しい言葉』とはどんな言葉ですか?

◀私がよく言う『作者が読者を無視して自分の書きたいことを勝手に書いている』という言葉がありますね。あれは優しくないですか?

◀全く同じことを言う時に、自分に対しては『読者は作者のマスターベーションなんか見たくねえんだよ』と言いますよ。

◀私は最大限優しく書いているつもりです。これ以上どうしろと言うんですか?

▷もう百倍くらい返って来るから怖いよー。えーん。

▷もうそのままでいいです。もっと怖いのはイヤ。

◀あのー、言ってることが滅茶苦茶なんですが。自分の書いてることを読み返してください。もっと優しくしろだとか、そのままでいいだとか、どっちなんですか?

◀文字だけだとわかりにくいですけど、怒ってるわけじゃないですから落ち着いてください。とにかくご飯食べて、お風呂に入って、冷静になってから来てください。

▷だって仕方ないでしょ。君はこれ以上どうにもできないって言うんだもん。だったらそのままでもいいからお願いしますって言うしかないじゃない。そうじゃなければやっぱり逃げるしかないんだもん。

▷絶対イラッてしてるもん。怒ってるんでしょ。あたしは理論派の君と違って矛盾だらけなの。いじわる!


 だーかーらー、怒ってねーっての。


◀あのですね、怒ってないから質問に答えて貰えませんか?

◀仕方ないから、とかそんなのは全く参考にならないんです。私の質問は二つ。

◀①私がどうすればアイさんは満足なのか。

◀②アイさんの言う優しい言葉とはどんなものなのか。

◀これだけです。それさえ分かれば、そこに近づけるための努力は可能です。

▷そんなに同じこと何度も聞かないで。その答え方がわからないからいろいろ気持ちを書いてるのに。少しはあたしが言いたいこと読み取ろうとしてよ。最近冷たいよ、口調も態度も!

▷指摘されるのが嫌なんじゃないの。言葉の端々になんか突き放すような雰囲気を感じるのっ。あたしに聞いてばかりじゃなくて、読み返したらわかるでしょ、ちょっとは考えてよ。

▷一番嫌だったのはツイッターでみんなで同調してたことだよ。あたしは完成作品を雰囲気だけ見てって言ったんじゃないもん、迷ってたから途中だけど見て欲しかったんだもん、それが我儘だって言うなら相談も何もできないじゃない。


 ダメだこりゃ、完全にオーバーヒートしてる。


◀アイさん、ご飯食べましたか? お風呂入りましたか?

▷うぎゃーーー。あたし今、喧嘩売ってるの! 凄い生意気なのっ!

◀だから、あれはアイさんの事じゃないってば。

◀途中のものは相談できないなんてことはないですよ。あなたがさせてくれないんです。「雰囲気を見るだけ」と言われたら、「見ました」としか言えない。

◀アイさんがやっているのは「下書き見せるけど、これはまだ途中だから雰囲気だけ見て意見はしないでね」と言いつつ「相談に乗ってくれない!」と言っているんですよ。何を求められているのかわからないんです。

▷雰囲気だけ見てねって、何も言わないでって意味じゃないもん。

◀だけど何か言うと怒りますよね。

▷泣いてるだけで怒ってないもん! めんどくさいと思ってるんでしょ。

◀めんどくさかったらとっくにコラボ解消して、LINEも既読スルーしてると思いませんか? 私はアイさんとの約束を守りたいんです。

▷約束って?

◀『ヨメたぬき』が書籍化になったら『I my me mine』も本にする。忘れたんですか?

▷こんなに苦しいなら本にしなくてもいい。

◀その程度ですか。『I my me mine』はその程度のものですか?

▷だからその言い方が怖いの! もっと優しくしてよ。

◀では、小学生と話すようにしたらいいですか? そういうのと違うでしょう? 私はアイさんを一人前の作家として扱ってます。

▷いっそ子供になりたいよ。


 いや、中身は子供だ。


◀私のスタンスは変わっていません。書き始めたからには作家として必ず完結する。あなたはどうなんです? 聞くたびに違う気がする。こうありたいという願望と、実際はこうだからこうして欲しいというのと。

▷本気かどうかって事?

◀趣味で楽しく書きたいだけなら下書きチェックなんか要らない。お互い勝手にアップすればいい。ダメ出しも要らないし、お互いの話に矛盾点が出たって関係ない。でも本気で書くなら徹底してチェックします。泣こうが喚こうが容赦しません。

▷だから本気で頑張るってば。でも八雲君は最初から厳しすぎるの。ある程度泳がせてくれないと書けないんだもん。だから少し書いて読んで貰って、ってやりたいの。たたき台作ってそこから一緒に考えて欲しいの。

◀だからね、その一緒に考えるところで私が提案すると「ダメ出ししないで!」「厳しすぎる!」って言うでしょう? どこまで手を抜いたらいいのかなんて、あなたの基準は私にはわかりませんよ、だからいつでも全力でやるんです。

▷全力って何よ、もうやだよー。やっぱり辞めたくなって来た。

◀あなたが決めることです。アイさんが辞めようと辞めまいと私は完結まで書きます。でも一つだけ覚えておいて貰えませんか。あまりこれは言いたくなかったんですけど……。

▷なに?

◀私は『ヨメたぬき』で嫌が応にも『書籍化作家』になってしまいます。私たちがコラボしているということは、他の人から見たら我々のお互いの作品にはお互いにチェックを入れていると見る筈です。

◀アイさんが『作者のマスターベーション』のようなものを書いていても、『藤森八雲のチェックが入ってOKが出ている』と人は見るんです。


 言いたくない。でも言わなければ彼女はずっと甘えている。言わなければ。


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