Side〝破〟-3 村井しずかの出勤
#
時間の過ぎる感覚だけある。
黒い虚無。何も無い空間で安堵する私。
『元気ですか』
誰?
私は疲れ果てています。
『一』
どこかで音がしている?
『二』
うるさい。黙れ。
三日ぶりの睡眠なのよ。
意識がゆっくりと沈んでいく感覚。
深く沈めば、睡眠が……。
#
『着信、ダーッ!!』
私は飛び起きた。
私の携帯電話の着信音だ。
しまった。枕もとに置いたまま眠っていた。
さっきシャワーを浴びて、そのままベッドに……。
全裸だ……電気とエアコンは、マックスでつけっぱなし。
『元気ですか! 一、二、着信、ダーッ!!』
うるさい……。
でも仕事だし……。
しかたない、通話ボタンを押すしかない。
「睡眠中だったかな。今から県警本部まで来てほしい」
課長……あなた、とことん警官ですね……。
元気があるから、何でもできるんですか……。
私は、あさーい睡眠でまだ声が……。
失礼。私は大きくあくびをかかせていただきます。
そして、どうか、お願いを……。
「あと一時間だけ、眠らせてください」
「学生じゃないんだ! 三十分以内に本部に半田と二人で来い! 来なかったら減俸処分だ!」
電話がきられた。
ビンタみたいな声で、目が覚めた。
携帯電話の時計は……午前八時三分。
今回の睡眠時間は三時間ぐらい。
ああ、とりあえず今年の最長睡眠時間、更新、だぁ……。
だるい。
もっと眠りたい。
でも口調から推察すると、課長も疲労のピークなのだろう。
キレが半端じゃなかった。
今日は真幌署じゃなくて県警本部か。
事件だろうな。
でも、疲れがとれてない。
公僕ってこういうことか。
できれば警察官になるまえに、教えてほしかった……。
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洗面台に行き、鏡をのぞくと、知らない人間がいた。
はあ、と溜め息をつく私の虚像だ……。
まったく、華の二十代女性がこんな顔をするとは。
我ながら情けない。
給料と引き換えに、何か大切なものを失った気がする。
睡眠時間とか。プライベートとか。
「これでいいのか、私の人生……」
つぶやきながら顔を洗って、軽くメイク。
新しい香水を開ける。リラックスさせるアロマ効果があるらしい。体臭も完全に消してくれるといいけれど。
下着にも。
いつものパンツスーツにもふりかけて。
トレンチコートにも、革靴にも、バッグ、ハンカチ、靴下……。
ホルスターと銃には、いいか。
それらを装備……ああ、今日も因業刑事になったぁ。
警官よ、現実の警官よ。どうしてこんなにミジメなの。
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マンションを出ると、冷たい風が頬に当たった。
雪を思わせる痛い風。
また一年が過ぎるのか。
東京に帰りたい。
コートを纏い、腕をさすって、一歩、二歩。
三歩いて憂鬱に。
もういい。タクシーに乗っていこう。
#
午前八時四十分。
県警本部に出勤。
完全な遅刻……。
玄関で顔見知りの新聞記者が、カニバリズム殺人事件について聞いてくる。
「相も変わらず耳がいいのね」私は適当にあしらう。
「仕事ですから。で、捜査に進展は?」
記者は、もう何か掴んでいて私をユスっているような笑顔。
いつもいつも、他人の不幸をネタにしやがって。
「オフレコにしてくれる?」
「もちろん」
私は、記者の耳に口を近づけて言った。
「実はね……なんにもわからない」
「ちっ。またそうやってからかう」
「警察ですから。公式発表まで言えません」
#
「おはようございます。特務一課の村井です。こちらの」
「手帳を。あと名前と身分、住所、目的をこちらにご記入ください」
このヤロウ。名乗ったじゃんか。
受付係の分際で……いつもはスルーしやがるのに。
「事件ですか?」
私は記入しながら、尋ねる。
県警本部内は騒然としていた。
外へ向かう捜査員、帰ってきた捜査員でごったがえしている
真幌署に特捜本部が設置されたと、受付係は言う。
「真幌女子高校で変死体が。拳銃装備命令が下りるかもしれません」
なるほど。どおりでいちいち記入を迫られるわけだ。
でも、私の装備は課長の命令が無いと駄目だし。
そもそも真っ当な捜査しないし。
ずっと拳銃持ってるし。
#
エレベーターに乗る。
でも。
私は……男どもに押しつぶされそう。
「激務課、ちょっと」
私の隣にいる男がささやいてくる。
面倒なことになりそうだ。
「仕事を頼む」
そっと私のコートのポケットに何かを入れた。
どうせ、やましい店の領収書だろう。
経費として落せるように改ざんしろという依頼だろう。
でも断らない私。
だって警官ですから。逆らったらどうなるか、わかってます。
エレベーターが二階で止まり、男は私の肩を叩く。
「よろしく」
男がエレベーターから降りた。
季節が変わっても、事件が起こっても、署が変わっても同じような始まり。
ただ、課長の雷が落ちなければ、普段通りの一日……だと思う。
#
県警の特務部は、真幌署より綺麗で狭い。
廊下との間切りは半透明の強化プラスチック。
十畳の部屋にデスクが四つ、引っ付いて四角形になっている。
給湯スペースもある。いや、給湯スペースっていうか、コーヒーポットとカップがあるだけ。
デスクに見慣れたスキンヘッドが。
「ひさしぶりだな」半田だ。
「二日ぶり。課長は?」
「応接室。お前と二人で来い、遅れたら減俸だと怒鳴られた。今月で、三回目だ」
「辻と青野は?」
半田は頭をつるんと撫でて応接室のドアに向かった。
「まずはこっちだ。速やかに、穏便に済ませるぞ」
同意見。
私はコートを手に持って半田に続いた。
#
「課長、入ります」
応接室も質素。
黒革のソファーにテーブル、そして電話。
絵画や花瓶の類は一切無い。
課長は窓を背に、ソファーの上座に。
「三十分以内だと言ったはずだ」
眉間にしわが入っている。
まずい。
寝ぼけていたとはいえ失言は失言だ。言い訳はできない。
「すみません」私が深く頭を下げると、
「課長、俺が取り調べに手間取って遅れたんです。村井は五分前に部署内で待機していました。減俸は俺だけにしてください」
半田がそう言って軽く私の足を蹴る。
話を合わせろという合図……。
半田……あんたってホント、いい人。髪の毛があって、奥さんと娘がいなかったら、惚れてたのに。
「もういい。半田君。双頭組員の報告を、手短に頼む」
「資料です。どうぞ」
雷は落ちなかった。半田はこういう機転がきくから好き。
辻や青野じゃあこうはいかない。
「被害者は真幌女子高二年三組、
私にも資料が渡された。写真もある。どれどれ……ん?
この容疑者、涙目になってる?
顔に青痣が……。
「自分の精神異常がどの程度なのか知りたい、という理由で去年、密入国したそうです。少々、ろれつが回らなかったため、丁寧に聞いたところ、大麻やら阿片やら、あらゆる麻薬の常習者でした。双頭との関与をほのめかしたので慎重に取り調べています」
丁寧に、慎重に聴取されて、痣をつくられ、涙目になったのか。
ご愁傷様、劉黄雲。
日本は平和だと思ってるだろうけど、ごく一部は危険なの。半田の取調室とか。
課長は老眼鏡をかけて見ている。その顔は険しい。
「飯田とのつながり被害者との関係も……不明か。もう一人の容疑者についても、この資料には載っていないが?」
課長の雷は完全に逸れた。
私も事件に向き合わないと。
「それなんですが」そう言って半田は頭を撫でた。
難問に挑むとき、半田は頭を撫でる癖がある。
この資料は、あくまで半田の資料だけれど、捜査一課と共有している。
つまり、正式な捜査はほとんど進んでいないという報告書。
……でも、感づいている刑事もいるともとれる。
「ヤツ自身は飯田ともう一人とで犯行に及んだと、確かに自供しています。でも裏づけがない、証拠がないと叫んで現場を荒らし、劉のみを送検すると叫ぶバカがいまして。そのバカというのが捜査一課の
「特務課撤廃が口癖の小僧か」
「なんとか言ってやってください。あんな勇み足じゃ出るものも出ない」
「わかった。で、そのもう一人の容疑者については?」
半田は応接室をぐるっと見渡した。
何も無いはずの応接室を。
「出た名前があれでして……俺以外は忘れてもらったんです。いや、信じていないでしょうが」
「じらすな。みんな疲れているんだ」
半田はもう一度、応接室を見渡し、そして、頭を撫でる。
辻の言葉を借りると、どうやら危ない橋を渡らされるらしい。
コートを持っている私の右手に汗が……。
「劉が言うには、双頭の組員だそうです。名前は
「まさか」
私は思わず声をあげてしまった。
そして沈黙。
空気が重い。
三人も人間が存在するというのに、息遣いさえ聞こえない。
私の心臓まで止まってしまったのかと思える。
危険な橋ならまだ良かったが、今回は地獄へ続く橋のようだ。
心が凍てつく。
課長は瞬きをせず、じっと半田を睨むように見つめている。
「ここの本部長、黛陽一です」
思い描いたとおりの事実。
課長は大きく溜め息をついて瞼を閉じた。
「二人とも、下がってよろしい。考える時間をくれ」
#
課長を残して、私たちは応接室を出る。
「いまさらだけど、同姓同名じゃあないよね」
「劉黄雲は最初、ここにくれば助かると思っていたらしい」
半田はそう言ってデスクを指した。
つまり……。
「困った時の激務課。お仕事をくれようとしたのね。涙でそう」
「休憩するか。村井、お前、男いるか?」
半田は自分の席に座る。
私はコーヒーを二人分淹れながら、溜め息ついでに答える。
「おかげさまでモテモテ。犯罪者からね。あんたはどう?」
「地獄だ。一週間、娘の顔を見てない」
独身の私でも地獄だけど……。
本当に辛いのは半田のような家庭を持つ男だろうな。腹も出るわけだ。ファーストフードを食べて不安や苛立ちを押さえ、酒で眠るんだろう。
「村井、飲み会開くから。青野と女をもう一人、連れて来いよ。一般人の女を」
私はコーヒーを渡した刹那、半田の襟首を掴む。
「誰が来るの? 経歴、性格、容姿を簡潔に言え」
「け、警視庁時代のツレだ……みんな信用できる。顔はそこそこに、俺よりは、マシなはずだ」
「何人編成? 移動手段と目的を簡潔に」
「男二人と女一人……視察だから、移動は新幹線。わ、わかったら離せ……」
遅れながらようやく春が来た。
警視庁のキャリアかぁ。
玉の輿も夢じゃないぞ。
「現場住所と日時、状況は?」
「ゆ、ゆっくり話そう、な?」
「いいからさっさと答えなさい!」
「来月の第三土曜、午後八時、場所は真幌市中央区のレストラン、サイドE」
「よし」
忘れないようにメモ。
私の机には、始末書などしかない……ええい、さっきの領収書の裏に書いてやる。どうせもみ消す予定だ。一枚ぐらいくすねても、文句は言わせん。
「まったく、まだキャリアに縛られてるのか」
半田の声で筆が止まる。
私は反射的に半田を睨んだ。
半田は襟を直しながら、しまった、という顔……。
「……すまん。悪気はなかったんだが」
「ううん。私こそ。最近ストレス溜まってて。だから、つい」
部署内に重い空気がたちこめる。
半田は私の過去を知っている。
当時、警視庁で話題になっていた事だし……きっと今度の相手も知ってるはず。
「は、半田は、こっちにきて何年になるんだっけ?」
「娘が生まれた年だから、二年半……村井は?」
「今年で三年。そろそろ帰りたくなった。ここの冬は寒いし」
そう言って、はあ、と溜め息をつく。
最近、溜め息が多くなった。
溜め息をつく数だけ幸せが逃げていくって、お
「今度の席でコネを作れ。女の方は公安八課だ」
「ああ、いいわね、それ」
警察の中の警察、公安八課。
男尊女卑の組織でそこまで昇りつめるなんて。
でも青野とは立場やらプライドやらで合わないかも。
「青野たちはもう、帰ったのかしら」
「飯田の張り込みだろう。既読スルーされた」
「既読スルーって、まさか、ライン?」
「ああ……何だよ、にやにやして」
このハゲ……その顔と巨体で、ちまちまとタッチパネルをいじっているの……。
「ふふっ。あんた、ラインするんだぁ。へぇ」
スタンプとかも使うのだろうか? ユルいキャラクターで、自分の心境を伝えているのだろうか。
本人は浅黒いタコのような、ヤクザ顔なのに。
「な、なんだよ。普通だろ」
「いやぁ、意外というか……ふーん、へえぇ?」
「悪かったな、こんな顔で! お前と辻は絶対、グループ登録しないからな!」
「あははっ!! 何、その言い」
瞬間、半田の手が私の口を塞いだ。
「……外」
外?
視線をゆっくりとやると、強化プラスチックの向こうの廊下で、二人、通り過ぎようとしていた。
どちらも知っている顔。
のっぺりとした顔、影の薄い、
そして、豚のようにまるまるとした体の……黛陽一本部長。
やけに親しそうに話をしている。
一瞬、鎌田がこちらを見た。
しかし何も無かったように無表情で、また黛の方へ顔をやった。
#
二人の姿が消えてから、半田は手を離した。
「バカと容疑者が何を話してんだか……今度紹介するのは、あんな奴らを許さない人間だ。大丈夫、信用しろ」
半田は、そう言って白い歯を、にっ、と見せる。
「うん。ありがと」
それしか言えない。
私はコーヒーを飲む。
いつもより美味しい。
「私にも淹れてくれんか」
奇襲のような課長の声!!
コーヒーを吐き出さないように飲み込んで、礼!!
半田も驚いて、目を丸くしている。
応接室のドアが開く音さえ聞こえなかった。
「し、少々、お待ちください」
私は立ち上がって給湯コーナーに向かう。
たかがコーヒー一杯。
されどコーヒー一杯。
課長に恩を売っておけば役に立つ。
「課長、これからどうします? ひさびさに、ゼンシュウかけますか?」
私はポットのコーヒーをマグカップに、たっぷりと注ぎながら聞く。
「言葉には気をつけなさい。キャリアどもに好かれたいのだろう」
「ぐ……失礼しました」
私は軽く咳払いをし、言い直す。
「特務課、全員で捜査しますか?」
「そうしたいが……彼らには別件を任せてある」
課長は自分の席に座ると、もたれて天井を仰いだ。
私はそっとコーヒーを差し出す。
「安い香り……だが心安らぐ。一種の職業病だな」
「課長、少し休まれたらどうです。三週間ぐらい働き詰めでしょう」
半田の声に私は耳を疑った。
三週間働き詰め?
この年齢で? この階級で?
そんなの警察の仕事ではない、本当の奴隷だ。
「俺たちは、家族と接するのも仕事ですよ」
「わかっているのだが……こう事件が多いと、どうしてもな」
課長は眉間をつまみながら溜め息を……。
そういえば課長の家族はどうなっているのだろう?
私は何も知らない。
こんな仕事に就くぐらいだから、特に奥さんは気苦労が絶えないだろう。
#
「コーヒーブレイクは終わりだ」
課長が切り出す。
そして課長は懐から拳銃を出して机に置く。
私が、いつも携帯しているのは一般警官と同じニューナンブ。今も装備している。
でもこの机にあるのはシグザウェル……私の相棒で切り札だ。
「これから村井君は青野君たちと合流して、とりあえず飯田を始末したまえ。半田君は捜査会議に出席。鎌田には私から言っておく。会議の後、思う存分にやれ」
「待ってください。納得できません」
私はデスクに両手をついて詰め寄る。
課長は目を丸くしている。
もちろん私は警官です。
でも、意見を述べます。
警官である前に人間だから。
「確定ではないにせよ、命令したのは容疑者でしょう? 犯罪の片棒を担ぐことに、何も言えませんが、私にだって正義はあります。これは人として踏み越えてはならない領域です」
「忘れたわけじゃあるまい。人間への始末要請を出せるのは本部長クラス……君の言いたいことはわかる。が、ヤツを始末すれば公安、警察庁の監理官まで敵に回すことになる。へたをすれば八課に暗殺される。腐っても警察は組織で、我々は底辺。他都道府県の監察官の目もある」
「黙って殺人犯の言う通りにしろと? 課長はそれで納得できると?」
課長の目を真っ直ぐに見る。
課長も私も視線を離さない。
「だから、とりあえず、と言っただろう。ヤツの命令に従うのは、正直、しゃくだ。しかしヤツをこのまま野放しにはせん。必ず報いを受けてもらう。ヤツに警戒されないように、今は従うフリをしなさい」
「わかりました。行ってきます」
私はシグザウェルを取り、ホルスターに。
ニューナンブを課長に返すと踵を返し部署を出た。
半田は難しい顔で見送るだけだ。
課長の意見に私は納得できた。
課長は、必ず、と言った。
なら信用できる。いつもそうだったから。
#
外に出ると、雨が降ってきた。
寒さに拍車がかかる。
待機しているマスコミは……民報か。スタッフが三人。テレビカメラは一台だけ。アナウンサーの姿はなく、県警本部だけを写している。
午後のニュースで使うのだろう。
私はカメラの写らない所まで来て、振り返る。
威厳を出している。手でピストルの形を作り、照準をそれに合わせて……。
バン!
よし。ちょっとやる気が出て来た、
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