第百五頁 〜de merveilles

「さ、桜野さん!?」

 どるは階段を降りるのをやめ、うずくまる桜野に駆け寄った。

 またジャージの発作が再発したのかと思ったが、さっきとは様子が違う。涙と涎とついでにデフォルトの血液で顔は見るも無残にぐちゃぐちゃになり、まるで何かに怯えるように身体中を小刻みに震わせていた。

「どうした、桜野」

「か、か………かたじけ……ない」

 ブルブルと震える唇の奥から、虫の鳴くような声が漏れた。いつもハキハキと威勢の良い桜野からは考えられない。

「せ、せ、拙者…は……む、む、無理で…ござる………この先………」

「どうしたの、この先に何かあるの」

 どるには幽霊である桜野の心は読めない。それがまた不気味さに拍車をかけた。

「こ、こ………怖い………駄目……行っては……椿木殿…ま、街田…殿……」

 幽霊でサムライ、まさに怖いもの知らずの桜野がなぜか恐怖に震えている。幽霊と悪魔は相性が悪いのだろうか。

「桜野。椿木。エレベーターで地上へ上がれ。上にはガガがいる。小生だけで下へ行く」

 見兼ねた街田は例の無機質なエレベーターに目配せして、二人に指示した。

「せ、先生!私も行きます」

「お前は戦闘は出来ない。足手まといだ。ガガは阿呆だが強い。奴といれば安全だろう」

「うっ!」

 …と引いてみたが、街田が女子高校生のどるにケガをさせたくないと思っている事は容易に読み取れた。

(ツンデレな所も好きですッ!先生!というか、つ、椿木って呼んでくれた…苗字で、呼び捨てかぁ…うへへ…)

 頭の中でヨダレを垂らすどるを意に介さず進もうとするが、正直、街田だってこの先何があるのか分かったものではない。

 ピクッ。

 と、どるが咄嗟に何かに反応した。

 立ち上がり、また階段の方へ歩いていく。自動ドアがまた静かに開いた。

「おい椿木。小生の話を聞いていたのか」

「でも、私…呼ばれて……あっ」

 返事をしたはずみに、どるのブラウンの靴の踵は一段目の階段をガリッと踏み外した。

「椿木!!」

 支えていたものが次々と崩れるように、どるの華奢な身体が階段に飲み込まれていく。

「あ、あっ!やああああああーーーーっっ!!!!!」

 甲高い声が、狭い階段にこだましながら、やがて遠くなっていった。

「くそっ!!」

 街田は有無も言わさず、勢いよく階段を駆け下りていく。

「か、かたじけない……かたじけ……ない………ううっ……」

 桜野は相変わらず、何かに怯えるように震え続けていた。



 ……


 ………


 …………


 生きてる……?

 身体中が痛い。

 記憶もはっきりしている。あんなに階段を転げ落ちたのは人生で初めてだ。

「つっ……」

 足を捻っているようで、それなりの痛みが襲ったが何とか歩ける。骨折まではしていないだろう。背中や肩も痛いが、頭をほとんど打っていないのは不幸中の幸いと言ったところだろう。

 真っ暗で何も見えない。狭いのか広いのか、何があるのか…或いは"何かが居る"可能性だって分からない。何かが居れば彼女の能力で分かりそうなものだが、相手は悪魔だ。心を読めたり読めなかったり安定しない。

(戻った方がいいかな)

 後ろの階段を振り返った。

 落ちる感覚では直線の階段であった気がするが、全く上からの光が見えない。本当は直線では無かったか、或いは途方もなく長いかだ。しかし、入り口の光が見えない程の階段を転げ落ちて無事だったというのも不思議なものだ。

 何より、足が痛くてまた階段を昇る事はしばらくできそうにない。街田先生が来てくれるのを待った方がいいかな、と思ったその時だった。


(?)


 ふいに、どるの視界に何かが入り込んだ。

 階段とは反対側、この部屋の奥の方にかすかな明かりが見える。

 どるは目を凝らしてみた。

 光が少しでもあれば、次第に目も慣れてくる。どるは大体の部屋の感覚を理解した。

 この部屋の先にはまだしばらく細い廊下があって、壁に面する部屋から明かりが漏れているのだ。

 明かりは淡いオレンジ色で、ほんの少し暖かみを感じさせるところがまた不気味だった。

(先生を待とう……)

 光が見えたからと言って、さすがに気味が悪く、一人であそこに行く気にはなれない。ここは魔界なのだ。クライスは熱いスポーツマンな悪魔だったが、他にはどんな奴がいるか分からない。


(……って…………)


(何?)どるの頭に何かが聴こえた。


(れ……てって…………)


 どこから聴こえるのか分からない。

 少なくとも、耳に聴こえてくる声ではない。何故ならそれはどるの頭の中に直接響いてくるからだった。

 テレパシーというか、自分が誰かの頭の中を読んだ時の感覚に似ている。


(つれてって……)


 女の子の声だ。

 自分よりももっと幼い、子供のような声だった。

 憶測に過ぎないが、声の主はあの光がある漏れる部屋にいる。状況からしてそうとしか思えない。

 人の心を読めるどるだが、2メートル以内にすらいない誰かが、どるの頭に思考を投げ込む事が出来るものだろうか。

「誰?」

 思い切って呼びかけてみた。


(連れてって…)


 まただ。さっきからこの言葉だけが、どるの頭に飛び込んでくる。

 何かの罠かもしれないし、そうでなくとも気味が悪い。

 どるは街田が早く来るよう祈ったが、足を引きずりながらも体は自然と部屋の方へ近付いていった。

 超能力者でも怖いものは怖い。怖かったが、そこへ行かずにいられない何かの衝動があった。


 部屋は入り口のドアが半開きになっており、そこから光が漏れていた。

 意を決して、どるはドアを開けてみる。


(あれ?)


 ……

 何の変哲もない部屋だった。

 部屋と言っても子供部屋だ。そこまで大きくないが、お洒落な花柄の壁紙、寝心地の良さそうなベッド、そして何より腰あたりまでの低い本棚の上に並ぶ人形達が印象的だった。

 テディベアなど何らかのキャラクターや、可愛らしいフランス人形もある。いかにも女の子の、女の子による女の子のための部屋。私は昔からちょっと人とは趣味が変わってたから、こんな女の子らしい部屋じゃなかったな…とどるは思った。

「うっ」

 一歩踏み入れた途端、どるは身を縮こめた。寒い。ここまでの廊下も大概寒かったが、ここは空気が違った。地下だからとか、クーラーが入っているだとか、窓が開けっ放しであるとかそういった類の寒さではない。もっと、身体の中身からじわじわと凍りつかされていくような心地の悪い寒さだ。

 入らなければ良かった、と思ったが、今考えればきっともう遅かった。

『連れてって』

 はっ、とどるは自然に声が聞こえたと思った方向を向いた。

 熊やうさぎ、猫などの可愛いぬいぐるみに埋もれるように置いてあるフランス人形から、その声は聞こえた。

 自然とどるは近寄り、フランス人形を抱き上げた。脇の部分を両手で持ち上げ、互いに見つめ合う形になる。

 人形は前髪が妙に長く、顔がよく分からない。どるは片手で身体を支え、人差し指でサラっとその金髪をかき上げてみた。

「ひっ…」

 人形の顔は原形をとどめないほどにグズグズに潰れていた。ただ片方、位置がずれて残った右の眼球が、ギョロリと血走ってどるの顔を睨みつけた。


 どるの頭の中は真っ白になり、人形を抱えたままソファの上に座り込んだ。

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