第92段 棚無し小船

昔、ある男が、恋しくて女の家まできたが、手紙さえ渡せなくて、帰って詠んだ。


 芦辺を漕ぐ棚なし小舟は、知る人もいないのに、何回行ったり来たりするのだろうか。


【定家本】

昔、恋しさに来つつ帰れど、女に消息をだにえせでよめる。

  あしべこぐ 棚なし小舟 いくそたび ゆきかへるらむ しる人もなみ  


【朱雀院塗籠本】

むかし。戀しさにきつゝかへれど。女にせうそこもせてよめる。

 あしへこく たなゝしを舟 幾そたひ 漕歸るらん しる人なしに


【真名本】

昔、恋しさに来つつ還れど、女に消息をだに得せで読める。

 葦部あしべぐ 棚無し小船をぶね 幾毎いくそたび 行き還るらむ 知る人もなみ


【解説】

『万葉集』01-0058

高市連黒人

 いづくにか 船泊ふなはてすらむ 安礼あれの崎 漕ぎみ行きし 棚無し小舟

『万葉集』03-0272

 四極しはつ山 うち越え見れば 笠縫の 嶋漕ぎ隠る 棚無し小船

『万葉集』06-0930

冬十月、難波宮に幸し時、笠朝臣金村が作りし短歌

 海女をとめ 棚無し小舟 漕ぎ出づらし 旅の宿りに梶音聞こゆ


棚無し小舟とは、船縁も無いような小さな丸木舟、もしくは一枚板の舟のようなもの。

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