第59段 櫂の雫

昔、ある男が、どう思ったのか、京都を出て東山に住もうと思って山に入り込んで


 京都には住むのがつらくなった。もう今後は山里に身を隠くべき宿を求むてそこに住もう


などと言って、東山に住んでいたが、たいへん大病を患って、死にそうになったので、看病の者が男の顔に水をそそいだりなどしたら、男は生き返って


 私の上に露が置いたようだ。天の川を渡る船の櫂の雫だろうか


と言って、生き返った。


【定家本】

むかし、男、京をいかゞ思ひけむ。東山に住まむと思ひ入りて、

 住わびぬ 今はかぎりと 山里に 身をかくすべき 宿をもとめてむ

かくて、ものいたく病みて、死に入りければ、おもてに水そゝぎなどしていき出でて、

 わが上に 露ぞ置くなる 天の河 門渡る船の かいのしづくか

となむいひて、いき出でたりける。


【朱雀院塗籠本】

第125段の前半にみえる。


【真名本】

昔、男ありけり。如何いかが思ひけむ、東山ひんがし栖󠄁まむと思ひて読める。

 棲み侘びぬ 今は限りと 山家やまざとに 身を隠すべき 屋戸やど求めてむ

かくて、物痛く病みて、死に入りたりければ、おもてに水そそぎなどして、生き出でて、

 吾が上に 露ぞ置くなる 漢河あまのがは 門渡とわたる船の 鹿かい死付しづく

となむ云ひて、気出いきいでたりける。


【解説】

『真名』に出てくる「鹿」によく似た字に「かい」もしくは「かひ」とふりがなが振られていて、やはりこれは「鹿」と書いて「かい」と読ませたいのだろうと思う。

「櫂」は「かひ」ではなく「かい」(「かき」の転)である。また「梶」「鹿」も古くは「か」と言った。


漢語で天の川のことを天漢という。それゆえに、「漢河」と書いて、「あまのがは」と読むのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る