013 武蔵鐙 【東有】

昔、武蔵に移り住んだ男が、京都に残してきた女のもとへ、「ありのままに申し上げるのは恥ずかしいが、なにも申し上げずに秘密にしているのは心苦しい」と手紙に書いて、ただ表紙には「むさしあぶみ」とだけ書いて送ったあとに消息がとだえた。京都から、女が、


 私は今もあなたのことを思っています。消息をしてもらえないのはつらいですが、わざわざ近況を伝えてもらっても煩わしい思いがします。


などと書いて寄越したのをみて、耐えられない心地がした。


 たよりをすれば煩わしいと言う。しなければ恨むという。そんなことを言われれば人は死にたくなりますよ。


【定家本】

むかし、むさしなるをとこ、京なる女のもとに、「きこゆればはづかし、きこえねばくるし」とかきて、うはがきに「むさしあぶみ」とかきて、をこせてのち、おともせずなりにければ、京より女、

 むさしあぶみ さすがにかけて たのむには とはぬもつらし とふもうるさし

とあるをみてなん、たえがたき心ちしける。

 とえばいふ とはねばうらむ ゝさしあぶみ かゝるをりにや 人はしぬらん


【朱雀院塗籠本】

昔。武藏なる男。京なる女のもとに。きこゆればはづかし。きこえねばくるしとかきて。うはがきにむさしあぶみとのみ書て。のちをともせずなりにければ。京より女。

 武藏鐙 流石に懸て 思ふには とはぬもつらし とふもうるさし

とあるを見てなん。たへがたきこゝちしけり。

 とへはいふ とはねは恨む 武藏鐙 かゝる折にや 人はしぬらん


【真名本】

昔、武蔵なる男、花洛きやうなる女のもとに、「聞こゆればづかし、聞こえねば苦し」と書きて、上表うはがきに、「武蔵鐙むさしあぶみ」と書きて、遣りてのち、音もせずなりにければ、京より、女、

武蔵鐙 さすがにかけて おもふには 問はぬもつらし 問ふもうるさ

とあるを見てなむ、堪へ難き心地しける。

問へば言ふ 問はねば恨む 武蔵鐙 かかるときにや 人は死ぬらむ


【解説】

「武蔵」は古くは「むざし」と濁ったらしい。


「おもふには」の箇所、「たのむには」とするものもある。『真名』では「思爾者おもふには」。『朱雀』でも「おもふには」。


そのままではよくわからない話だが、定説などを参考にしてみても、謎が残る話だ。これは続く第14話に記述されている、男に現地の愛人ができたことを京都の妻に告白する話だとされている。まず「あづまあぶみ」だが、『古今和歌六帖』に見える


 定めなく あまたに駆くる 武蔵鐙 いかに乗ればか 踏みはたがふる


を踏まえている(詞書きは「ふみたがへ」。詠み人は「よるかの内侍」)と言われる。もともとは、どちらへ駆けるともなくいろんなところへ馬を走らせていたら、どういう乗り方をしたのだろう、道に迷ってしまった、という程度の意味。

『古今和歌六帖』だが成立は『古今集』よりも後、謎の多い私撰集だ。「よるかの内侍」も不明。


武蔵鐙には刺鉄さすがと呼ばれる金具がついているので、「さすが」が縁語となる。また鐙は踏むので「ふみ」が縁語となる。


「むさしあぶみ」とはつまり、はるばると武蔵国まで放浪する男からの便り、とでも言いたいのだろう。「武蔵国まできて道に迷ってしまいました。」とは言っているけれど現地妻が出来たとか愛人を作ったなどと告白しているようには思えない。もっとほかの古歌があったのかもしれない。

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