29.Sな彼女とNな彼

シートに深く座った瞬間


緊張が緩んだせいか


激しい睡魔に襲われた。




車内に漂う彼の匂いも


微かに聴こえる鼻歌も


包み込まれるような空気感も


心地よくて。




夢を見ていた。




幸せで、幸せ過ぎて


切ない夢。





車が停まって


彼が私の名前を呼ぶ。




体が重くて動かない。




もう少し眠っていたい。




「起きへんなら連れ去ってまうで?」




シートベルトを外した彼が


耳元で囁く。




うっすらと目を開ける。




連れ去って欲しい。




連れ去られたくない。




混沌としていた。





彼が私の手の甲に


手を重ねたのも


温かくて。




「キスしていい?」




聞かれて重い瞼を閉じて


ゆるりと頷いた。




後頭部に回された手が


バレッタを外すと


ほどけた髪が肩に流れた。




顔を引き寄せられる。




唇が触れ合う直前。




パチッ。




意識が覚醒して目を開いた。




「目は瞑っといて欲しいんやけど(笑)」




頬を撫でられて


一気に現実感と緊張に覆われた。




「あ、ちょっ……」




待って!




止めるより早く


唇が唇に重なる。




柔らかくて温かい。




触れるだけのキスをして


彼は顔を離した。




「嫌なら拒否して」と言われても


身じろぎ一つ出来なくて


心臓だけが激しく脈を打つ。




もう一度重ねられた唇は


溶けそうなほど熱くて痺れる。




呼吸さえも出来なくて


頭の中は真っ白になった。




顔が燃えるほど熱くて


込み上げてくる涙を堪える。




最後に彼は名残惜しそうに


頬っぺに口づけて


運転席に座り直した。




「あかん。そんな顔されたら本気で連れ去ってしまいそうやわ」




そんな顔?!




慌てて両手で頬を押さえても


彼に触れられた熱は消えない。





ハンドルにもたれかかる横顔が


こっちを向いた。




真剣な顔。




「俺、マミヤちゃんが……」




聞いたら後戻り出来ない。




「送ってくれてありがとうございます」




続きを遮った。




「あ、うん」




「寝ちゃってごめんなさい。もう大丈夫なんで、失礼します」




サッとシートベルトを外して


助手席のドアを開けた。




「へっ?! ま、待って」




素早く降りて「サヨナラ」と


ドアを閉めた。




振り返らずに改札まで走る。




ちょうどやって来た電車は


普通電車だったけど


構わずに飛び乗った。




空いている座席にへたり込む。




何やってんの、私は……。




まだ唇も頬も熱い。




車窓から満月が覗いていた。
















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