神楽坂の歩き方

佐々木匙

第1話

 神楽坂は古い町で、気をつけていないとすぐに呑み込まれてしまう。


 坂下の甘味処にうっかり捕まって、店を出たのが午後の四時。少し曇り空のくすんだ色が合う道だ。両の通りをひやかして、少しずつとことこと坂を登る。時折横道を覗くと、小さなお店がこちらを手招きしてくる。足元に、何かちょろりと小さなものが走っていくような気がするけれど、見るとそこには何もいない。


 着物だとか、小物だとか、お香だとか、雑貨だとか、お菓子だとか。全部買っていたのでは、とても足りない。色とりどりのあれこれに後ろ髪を引かれながら、坂を上っていく。

 ちょろり、とまた何かが足元を走っていく。なんだか小さくて長いシルエット。犬とか猫の走り方ではない。なんだろう?


 本屋で少しだけ立ち読みをしたり、うっかり負けて何冊か買い物をしてしまったり。鞄はだんだん重くなる。重くなって、窮屈になる。坂を上る。足元を見ると、そこにはいつの間にか何匹もの……イタチだ。ちょろちょろと軽やかに坂を駆け上がっていく。

 赤城神社あたりに行くのかと思えば、見向きもせずにさばさばと走っていく。裏道からもどんどん何匹もやってくる。周りの人は何も気にしていない。見えていないわけではなさそうなのに。不思議なものだ。ここらでは、よくある光景なのだろうか。


 よく見るとイタチ達は、皆どこかお洒落をしている。耳元に花を挿していたり、首にきれいな柄の布を巻いていたり。お祭りか何かだろうか。そもそも、東京の、都会の真ん中にこんなに沢山のイタチがいることを初めて知った。とんとん、ひゃらり、と太鼓と笛の音が微かに。なるほど、お祭りのようだ。私も押されるように歩いていく。


 スーパーマーケットを通り越して、美味しそうなワインのお店を通り越して、ぐんぐん上に上がっていく。気がつくと、周りにはイタチ、イタチ、イタチだらけで、人がひとりもいないのだ。いや、それどころかイタチたちはいつの間にか立ち上がり、二本足で歩き、ひそひそ話すらしている。


「楽しみねえ、楽しみねえ」

「まだかしら、まだかしら」


 あっ、これはなんだかまずいなと思いながら、私はもうこの行列から抜け出せずにいる。地下鉄の駅の入り口が見えた。もうすぐだ。もうすぐ坂が終わってしまう。一番高いところまで来てしまう。そうしたら、どうなるのかしら? 赤や黒の金魚がぷくぷくと空を飛んでいくのを見ながら、私は急に心配になってしまう。


 お祭りの囃子のような音は、ますます近い。辺りはぞろぞろとイタチだらけ。皆一様に着飾って、華やかな着物の袖もひらひらと、私ひとりが浮いている。人間だし。普段着だし。イタチ達が手に持っている、赤い提灯も持っていない。


 ああ、坂が終わる。終わって……。


 私は慌てて、どうにか足を止めようとした。坂のてっぺんから先が見えたからだ。そこには何も無かった。下り坂も、建物も、お店も何も無かった。地面は切り立った崖のようになって、イタチ達が下へとどんどん落ちていく。下は……何も無い。本当に何も無い。どこまでもただの空間だ。


 私は悲鳴を上げた。流れを逆に泳ごうとするも、できるはずもない。どんどんぐいぐいと押されて、どんどんずるずると前に進んで、足元がつるりと滑って、ついには何も無くなって……。


 落ちる!


 私はぎゅっと目をつむり……それから、ぽかん、と周りを見渡した。足元には地面がある。着地の衝撃などは何も無かった。少しだけ、よろめいただけだ。周りにはイタチなど一匹もいない。坂を上ったり下りたり、ざわざわと蠢めく人々がいるだけだ。飯田橋の駅はすぐそこ。お囃子の音は、消えていた。


 そこは、出発地点。甘味処の前だった。私は、坂を上ってすらいなかったのだ。

 イタチに化かされた、そういうことだろうか。それとも、坂自体に? そちらの方がありそうな気がする。

 私は頭を振って、もう一度坂を上ってみることにした。今度は、ちゃんと行ききれるだろうか。

 

 着物に小物にお香に雑貨にお菓子に。本屋に食べ物屋に、色とりどりのお店を、もう一度見たくなった。それから、坂のてっぺん。あそこは、今度はどんな顔を見せてくれるだろうか? 今度は落とさないでくれるだろうか?


 神楽坂は古い町で、気をつけていないとすぐに呑み込まれてしまう。

 気をつけて。騙されないように。一歩一歩。ゆっくりと。


 でも、たまには、いっそ化かされてしまうのも悪くない、そうも思うのだ。

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神楽坂の歩き方 佐々木匙 @sasasa3396

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