思い出せない、罪の名前

 人が通ったあとのない雪まみれの平地を、薄暮はくぼが包み、鳥が鳴きながら飛んでいく。

「お前は右! お前は左から回り込め!」

 後ろの隊長が、名前を言わない雑な指示を出しているので、振り向く。

「お前はそのまま行け!」

 『お前その三』がどうやら先頭を行く俺のことのようだった。

 確かにこの失態を前に焦るのも分かるが、かんじきを村人から奪い取る時間もあったし、名前を呼ぶ余裕もあるはずだった。名前は大事だ。その人間がその人間だという確認をする作業。

 村から逃げ出した女は、かんじきを履いていて、積もった新雪にそれほど沈み込まずに進んでいく。対してこちらは、温暖地方の通常装備にコートを羽織っただけで、新雪にめりこむようにしてかき分けていくしかない。手袋をしていたってコートを着ていたって寒いものは寒いし、体力の消耗も激しい。

 そして……そう、余裕はある。女の背中は常に視界にあるからだ。なんとか条約があるから民間人は撃てない、というのは建前で、実際は、女を犯すのが給料とは別腹のご褒美だと考えているんだろう。このクソ雪をかき分けて進むに値するご褒美だと。

「おらおら逃げろ逃げろ! 止まったらヤられちまうぞ!」

 余計なことを怒鳴って体力を消耗するバカの声が聞こえる。普段は気のいいやつだが、女が絡むと条約破りの大好きなバカだ。

 逃げていく女のことは知っている。若くはない。四十前後。わざわざ貴重な労力を使って女をはずかしめることに何の得があるのかわからないが、バカにはバカの理屈があるらしいから深くは詮索せんさくしない。

「無駄口を叩くな!」

 という無駄口を隊長が叩く。

 訓練され体力のあり余ったバカと、蹂躙じゅうりんされる恐怖に初めて直面した寒村の女。はたしてどちらが先に音を上げるか。見てみたい気もするが、雪に包み込まれた両脚の感覚がなくなりつつある。女ひとりのために分隊全員凍傷になりましたでは笑い話にもならない。

「隊長」

 足を止めて、振り向く。

 引き抜いた足を俺の開けた穴に下ろしながら、隊長がうっとうしそうに眉をしかめた。

「なんだ!」

「撃ちますよ」

「やめろ」

「いまするべきことは、試料を取り戻して、村の現況を外部に漏らさないこと」

「生かして捕まえろ。この村はババアばかりだ。めぼしいのは上の連中が楽しんでる」

「理由がそれだけなら、撃ちますよ。四十しじゅう女を犯しても、凍傷は治らない」

「四十だろうが七十の穴よりましだ。任務はこれだけじゃないんだ、女もなしにやってけるか」

「撃ちます」

 持っていたライフルを雪の地平線に置き、構える。セレクターをつまんで動かして連射を単射に切り替え、単調にまっすぐ進む女の後ろ背に照準を合わせる。

 隊長の舌打ちが後ろから聞こえる。

「勝手にしろ」

 かんじきを履いているとはいえ、雪に足を取られることには変わりない。撃たれることを意識していない直線的な動きの中に、ぶれがまじる。殺すつもりはないが、当たり所が悪くて殺しても別に構わない。

 構えたところに獲物がかかる一歩手前で、引き金を絞った。引き金を絞る挙動と弾が届くまでのあいだにその一歩は埋まる。雪に埋もれた射撃音が、女の体を雪面に打ち倒した。俺は邪魔なライフルを放り、女のもとへと足を急がせた。

 血の飛び散った雪の上に、女がうつぶせに沈み込んでいた。当たったのは肩のようだった。

 他の連中の足を遅らせるために、

「殺した!」

 とだけ叫んでおいた。バカが遠くで何かわめいているが無視する。痛みにうめく女を仰向けにひっくり返して、コートを脱がせようとした。けれど手袋越しにはコートのボタンが外せず、仕方なく手袋をとって外気にさらした。胸までのボタンを開けていく。コートの下には暖かそうな赤のセーターがあり、女はそこで暴れ出した。俺は拳銃を取り出して、女の顎に銃口を叩きつけた。

 おとなしくなったので、空いている左手でセーターの襟元をぐいと引っ張る。中にネックレスが見えたので、そのまま手を突っ込んで掴んだ。引きちぎる。引きちぎったネックレスには、液体で満たされた小瓶がついていた。

「これが連中に届けようとしていた試料か?」

 たずねた俺に、銃を突き付けられたままの女は応えなかった。

 俺は試料をコートのポケットに突っ込んだ。

 くだらない仕事だ。

「護国の水精すいせいとやらは、あんたの国を見捨てたらしいな。侵攻してから雨の一滴も降りやしない」

 銃を押しつけるのをやめる。女は息を荒げたまま、じっと夕暮れの赤い空を見ていたが、 

「あと少しで、あんたらを、地獄に落としてやれたのに」

 撃たれていないほうの左腕で、女が目を隠す。

「あと少しで……」

 俺に無理やりはだけられたままの胸元が、目に入る。

 たしかに、こいつは女のかたちをしていた。

「お前はこれから犯される」

 やる気なく近づいてくる足音を感じながら、静かに伝える。

「下手をすれば、この任務が終わるのは一年後だ。そのあいだ、ずっと犯され続ける。日のささない部屋で、まずい残飯をもらって、痩せこけながら、毎日犯され続けて、途中で衰弱死する。生き延びても、任務が終わるころに口封じで殺される」

 俺は拳銃の持ち手を女のほうに向けた。

「いまが、自殺できる最後の機会だ。きれいな思い出を胸に死んでいけ」

 女が腕をどかして、涙目でこちらを睨む。

 目が合ったとたん、胸が一度跳ねた。これまで、敵地で女を犯すことには興味がなかった。だがなぜか目の前にいるこの女の目には、やけに情欲をあおられる。自分ではだけさせた胸元が目につく。いますぐコートを脱ぎ去って、この女をけがしつくしてやりたい。そんな思いが全身を包みかけたとき、女が、左手で拳銃を受け取った。

 女は、手にとった拳銃をすぐ俺へ向けた。

 引き金を絞る。

 俺は何もしなかった。弾は抜いてある。

 女が目を見開き、拳銃を見つめた。

「犯されつくして死ぬほうがいいのか」

「いいえ」

「じゃあどうして自分を撃たない」

「わたしはわたしの信じる神に従う。神が禁じる以上、わたしはわたしのことを殺さない。殺すなら、あなたが、あなたの責任において殺しなさい」

 恐怖を律した女の、かすかに震える声。

 俺はうなずいた。

 そうだ。

 俺は連中がこの女を凌辱りょうじょくしつくすのが、見たくないだけ。これは俺の欲望だ。

「覚えていないだろうが、会うのはきょうで二度目だ」

 地理を知っているのが、この村に派遣された理由の一つだった。

 まだ互いの国が戦争を知らなかったころ、この村へ来て、この女が勤める宿に泊まり、思わぬ長逗留ながとうりゅうをしてしまった。

 旅人にいらぬ世話ばかり焼いてくる、楽しい村だった。

「名前は?」

 俺は女から拳銃を取り戻し、ポケットに入れていた弾を一発込める。

「殺す相手の名前を聞く意味があるの」

「思い出すとき、名前がないと不便だ」

 そう。名前は大事だ。

 銃口を再び向けられた女は、一度唇を引き結んだあと、小さな声でつぶやいた。

「教えない。あなたなんかに、名前を呼ばれたくない。たとえそれが記憶の中のわたしでも」




   ◆




 両手を手錠で拘束されているというのに、警官が両脇をぴったりと挟んで離れない。気取った革靴の音が狭い廊下に反響している。

 戦いが終わり、民間人に対する犯罪が裁かれ、俺は、条約破りの常習犯だった分隊の一員として判決を受けた。隊長は死刑。バカは終身刑。俺は懲役二十七年。裁かれたのは、虐殺や強姦の罪で、すべてが隊長やあのバカの仕業しわざだった。寒村での殺人に対する罪は、入っていない。

 あれからずいぶん経った。あのとき殺した女には、確か名前を聞いたはずだったが、思い出せない。旅先でのあの笑顔も、寒さと恐怖に震えて引き結んだ唇も、生きてきた中でただ一度だけ情欲をあおられたあの目や胸元も。やけにはっきりと、瞼の裏に呼び戻せる。けれどあの女の名だけが呼べない。どうしても名前だけが、思い出せない。

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